近くの学校に通うひとつ年上の先輩と仲良くなったのは、通学で使っている電車で隣に座って二人して寝落ちしてしまった日からだった。パッと目を覚ました時には電車は俺が降りなきゃいけない駅をちょうど出発したところで、しかも隣の人が俺の肩に寄りかかって寝ている。満員電車の中で大きな声は出せないし、とりあえず次の駅まで……とその人に肩を貸したまま電車に揺られ、駅に着いて人の入れ替わりがあるタイミングで「すみません」と声をかけた。静かに目を覚ましたその人の、髪で隠れていた顔が見えた瞬間、俺は心臓がドキッと跳ねたのを感じた。
「……ん、……は。え、やば」
彼は駅名を見て目を見開き立ち上がったかと思うと、すぐに俺を振り返り「ごめんなさい!」と焦った声で謝った。その勢いに思わず「全然大丈夫です」と返したけれど、ただでさえいつも遅刻ギリギリで登校する俺はもうすでに遅刻確定だった。
「あれ、キミ、……駅どこだっけ?」
「あー……一個前ですね」
「っ!? ごめん、俺のせい!?」
「いえ、俺も寝ちゃってて、さっき起きたところで」
「……本当に? 気を遣ってるんじゃなくて?」
「本当に。出発しちゃいますよ、降りなくて大丈夫ですか?」
出発のアナウンスを聞き彼はホームへ目を向ける。しかしドアが閉まるまでの数秒そのまま動くことなく、プシューッと音を立ててドアが閉まるのを静観したあと彼は再び俺の隣に腰を下ろした。学校のある駅を通り過ぎた電車の中はいくらか空いて、制服を着ているのは俺たちくらいだった。
「どうせ遅刻だからもう少しのんびりしてから行くことにした。キミはどこまで乗ってく?」
「ふ、ふふ、どうしようかな。その制服、進学校じゃないですか? サボっていいんですか?」
「時には息抜きも必要なんだよ。キミ……なんか、キミって呼ぶの偉そうで嫌だな。名前を聞いてもいい?」
「……浮奇です、浮奇ヴィオレタ。一年。あなたは?」
「浮奇くん。俺はミンスゥーハです、二年。一個先輩だね」
「じゃあスハ先輩? ふ、同じ学校の先輩も全然知らないのに、他校の先輩ができちゃった。俺のことは浮奇って呼び捨てでいいですよ」
「私も他校の後輩なんて初めてかも。じゃあ、浮奇。先輩呼びは可愛いからそのままでもいいけど、敬語はなくていいよ」
「……先輩なのに?」
「学校の外じゃあ一つの歳の差なんて些細なことじゃない?」
「……うーん、そうかも? わかった、じゃあスハ先輩、せっかくだしカフェでも行く? 俺は今日一日学校サボっても全然良いけど、スハ先輩はそんなにサボれないよね?」
先輩呼び、可愛いってなんだ。ドキドキしてる心臓の音がバレないように、俺は何でもない顔で彼と話を続けた。喋るのをやめたらこのうるさい音が彼に聞こえてしまいそうだった。
「浮奇、このあたりの遊ぶ場所に詳しい?」
「うん?」
「ほら、私の学校は校則が厳しいし勉強も大変だし、あんまり放課後遊んだりしたことないんだよね。学校サボって遊んだことなんて一回もない」
「あは、なるほど。そういうことならスハ先輩より俺の方が詳しいかも。どこか行ってみたい場所はある?」
「んー……カラオケってこの時間でもやってる?」
「……カラオケ好きなの?」
「歌うの好きだよ。浮奇は好き?」
「……うん、好き」
「じゃあ決まりっ! ……で、いい? 浮奇はどこかお気に入りのサボり場所とかある?」
「……俺、そんないつもサボってるわけじゃないからね?」
「あはは、そうだよね、ごめんごめん」
明るい笑顔を俺に向けて、スハ先輩は制服のポケットから取り出したスマホを俺に見せた。首を傾げると「連絡先教えて?」と甘い口調で言う。なんか、まるで、ナンパされてるみたい。
男が好きな男なんて早々いるわけないって分かってる。ただ友達として、仲良くなれそうな同性として、深い意味なんてなく聞いているだけだろう。ハンサムだし性格も良さそうだし進学校に通ってるくらいだからきっと頭もいい。女の子にものすごくモテるに違いない。
「浮奇?」
「……ううん、なんでもない。俺も連絡先知りたい。また遊んでくれる?」
「今日楽しかったら、もしかしたら?」
「……楽しいよ、きっと、ものすごく」
「うん、私もそう思う」
彼が出なきゃいけない授業があったから一緒にいられたのはたった数時間だったけれど、俺たちはその数時間でとても仲良くなった。元々よく同じ時間の電車に乗っていたらしく毎朝時間を合わせて登校するようになり、先に乗っているスハ先輩は俺を見つけるとパッと顔を輝かせる。スハ先輩のおかげで、俺は早起きも満員電車も嫌いじゃなくなった。
「おはよう浮奇。眠そうだね、座る?」
「ん……おはよ……座ったら寝ちゃうから立ってる……」
「私が降りる時に起こしてあげるよ」
「……ありがと。あのね、スハ先輩のおかげで遅刻が減って先生に褒められたよ」
「ふ、私のおかげなの? じゃあ私からも褒めてあげる。えらいえらい」
「……へへへ」
スハ先輩が席を譲ってくれて、俺はそこに座り彼のことを見上げた。彼は吊り革をゆったりと掴んで周りに迷惑がかからないよう俺に顔を近づけて喋るから、俺は毎朝、毎秒、どんどんスハ先輩のことが好きになるみたいだった。
「そうだ浮奇、明日、予定空いてる?」
「うん? デートのお誘い?」
「デ、……デート、なのかな?」
「ふふ、デートなのかな?」
「……そんな可愛い顔でそんなこと言わないでよ……」
「俺はいつもこの顔だよ」
「……そうだね、いつも可愛いよ」
「……あ、えっと、」
「もう降りなきゃ。後で連絡する。空いてるならそのまま空けといて。何か予定があるなら、……考えてみて?」
駅に停まって、スハ先輩は電車を降りてしまった。彼の後ろ姿から目を離せないでいると、ホームに立ったスハ先輩がこちらを振り返る。口が動いて何かを言ったようだけれど俺はそれを理解することができなくて首を傾げた。得意げに笑う顔もカッコいいんだけど、今、なんて言ったの?
すぐにスマホを取り出して彼に【なに?】とメッセージを送る。返ってきたのは【明日教えてあげる】なんて言葉で、そんなのもう、明日何があったって彼に会いに行くしかない。もともと彼からの誘いを断る気なんてなかったけれど。
私服で会うのは初めてで、待ち合わせ場所で先に待っていたスハ先輩を見つけて俺はしばらく見惚れてしまった。視線を感じたのか彼が顔を上げ、俺を見つけて顔を綻ばせる。ただの友達だって、彼といる時はずっと自分に言い聞かせないと勘違いが加速してしまいそうだった。
「おはよう浮奇。私服初めてだね、すごく素敵だよ」
「……ん、ありがと。スハ先輩もかっこいい」
「……あー、あはは、ありがと? 真正面から言われると照れるなぁ」
「先に言ったくせに」
「浮奇も照れた?」
「……ナイショだよ。ね、それより昨日の、何を言ったの?」
「うん? ナイショだよ?」
「え?」
目を丸くした俺を見て彼は楽しそうに吹き出して笑った。可愛い笑顔に誤魔化されてなんてやらないけど……?
「今日教えてくれるって言ったでしょ」
「浮奇に会いたかったから適当に言っただけ」
「……」
「とか、ね?」
「……スーハーせんぱーい?」
「ふはっ、あはは、オーケーオーケー、冗談だよ」
「冗談ってどれが?」
「うん? どれが冗談だと浮奇は嬉しい?」
「……俺は、……スハ先輩と会いたくて来ただけだよ?」
「は……、……あー、うん、……うん、私も、浮奇に、会いたかったよ……? ちょっと待って、全然頭回んないからタイム」
「俺より頭いいくせに」
「成績とこれは関係ないでしょ……」
「これってどれ?」
「……浮奇〜?」
「ふふ、うん、なぁにスハ先輩」
「……ノ〜〜〜」
「あははっ」
攻撃を喰らったみたいな情けない声を上げてスハ先輩は両手で顔を隠してしまった。俺が楽しんでいるみたいに彼も俺とのやりとりを楽しんでいるように思うけど、どこまで言葉にしていいのかな。冗談混じりなら好きって言ってもいいの? 遊びの範囲を超えないように、彼が本気に取らないように……。
「……ねえ浮奇、一個だけ、質問してもいい?」
「一個だけ? 好きなだけ聞いていいよ?」
「それじゃあ遠慮なく。浮奇って誰にでもこんなふうなの?」
「……こんなふうって」
「勘違いしたくなるようなことたくさん言うでしょう。誰にでも、じゃなくて、私にだけがいいんだけど」
「……え、……え?」
「私は、浮奇にだけだよ?」
顔を隠していた手を退けて、スハ先輩はそっと俺の手を取った。さっきまでの焦った赤い顔はどこかに消え、真面目な表情でまっすぐ見つめられて呼吸が止まる。
「冗談にしないと困る?」
「……それは、スハ先輩のほうで」
「うん? 私は全部本気だよ?」
「う、うそだ……」
「嘘じゃない。ねえ、私は勘違いしてもいいの? ……勘違いじゃ、ないのかもしれないけど」
「……勘違いじゃないよ。……俺は、勘違いしてる?」
「ううん、浮奇も思った通りに受け取っていいよ」
「……好きって言ったら困る?」
「……困らないから、困っちゃう」
目元だけちょっと赤くして、スハ先輩はドキドキする視線を俺に向けた。俺は捕まえられた手を抜き、眉尻を下げた彼に気がつきすぐに顔を横に振って違うと伝えてその手を握り返した。離してほしかったんじゃなくて、俺からもちゃんと手を繋ぎたかったんだよ。
「スハ先輩、デート、どこに連れて行ってくれるの?」
「……本当にデートになっちゃったじゃん」
「だめ?」
「だめじゃない。……またカラオケに行こうと思ってたんだけど、今二人きりになったらおかしくなりそうだから映画とかにしようか」
「俺は二人きりでもいいけど」
「だーめ。……次、ちゃんと心構えしてくるから」
「ふふ、なんの?」
「浮奇〜」
「へへへ。オーケー、じゃあ、次ね?」
「……やっぱり次の次くらいかも」
「スハ先輩、先輩でしょ?」
「こういうことに関しては先輩じゃないのっ」
「女の子とも付き合ったことないの?」
「ノー。私は全然モテないんだよ。……浮奇は、慣れてる?」
「……ううん、こんなにドキドキするの、はじめて」
スハ先輩の顔がじわじわ赤くなっていくのを見つめていれば彼は「も〜!」と声を上げて突然俺のことを抱きしめた。心臓の音がバレてしまうと考えるより先に、スハ先輩の鼓動を感じて目を見開く。ドキドキしてるのは、俺だけじゃないんだ。
「浮奇、今日はもう可愛いこと言うの禁止。デートどころじゃなくなっちゃうよ」
「……言ったら、どうなるの?」
「……、……だめだって」
「スハ先輩」
「……だめだよ、……家に連れ込みたくなっちゃう」
「連れ込んでよ」
腕の力がぎゅうっと強くなって痛いくらいだったけれど、次の瞬間にはパッと離されて、でもすぐにスハ先輩は俺の手を取って歩き出した。スハ先輩のほうが足が長いから俺は転びそうになりながら必死にその後を追う。駅に入って改札の近くまで行ったスハ先輩は、人のいないところで立ち止まって俺を振り返り、そこでようやく俺がなんとかついて来ていたことに気がついたようで目を見開いて「ごめん」と呟いた。
「ううん、大丈夫だよ。……俺も、ごめん? 言いたいことばっかり言っちゃって」
「……私が大人気ないだけだよ。浮奇はそのままでいて。それで、ね、質問」
「うん?」
「このあと、どうしたい?」
スハ先輩、俺たちがいつも使っている電車の改札の前まで連れて来ておいて、それを俺に聞くの?
「質問の仕方が間違ってる」
「え?」
「ちゃんとこう聞いて? 『家に来たい?』って」
「……浮奇、私の家に来たい?」
「うん、行きたい」
繋がれたままの手をぎゅっと握り返す。スハ先輩が歩き出すより先に俺は一歩前へ進んだ。ねえ、今度は引っ張っていくんじゃなくて、隣を歩いてくれないとイヤだよ?