インターホンの音で目を覚ます。まだ頭がぼーっとしていて、二度目のインターホンでようやく顔を自分の部屋の扉の方へ向けた。三度目が鳴る前にガチャッと鍵の回る音がして、思考が止まる。
ルームシェアをしている友人は今週旅行に出ていて帰ってこないはずだった。この家の鍵を開けられる人は、他には……。
あまり頭が回らないのは昨夜からある熱のせいだろう。まだ体が熱く、寝巻きは汗で湿っている。シャワーを浴びて着替えたい。いや、その前に誰が来たのかを確かめないと。
俺はいつもの何倍も時間をかけてのろのろと体を起こした。布団の外の空気は冷えていて寒気に身を震わせる。何か上にもう一枚着たほうがいいかも。部屋の中に視線を巡らせていれば、カチャッと静かに扉が開いて、入ってきた人と目が合った。
「……なんだ、起きてたのか」
「……、……え、ゆめ?」
「夢じゃないよ」
夢じゃない? 嘘だ、だって、目の前にふーふーちゃんがいるよ。パチパチと瞬きをすることしかできないベッドの上の俺に近づいてきて、ふーふーちゃんは冷たい手のひらを額に当てた。「37.8℃……まだ少しあるな」と呟いているから、どうやらこの手には検温機能が搭載されているらしい。
「ごはんは食べたか? 熱以外に何か不具合は?」
「……ふーふーちゃんだ」
「……昨日の夜俺に風邪を引いたって連絡したのは覚えてるか? その後いくら連絡しても返ってこないから、心配で思わず来てしまった。許可もなく悪いな」
「え、あ、謝らないで! すごく驚いてるだけで……ほんとに夢じゃない?」
「ああ、本物だよ」
「……ほんものだぁ」
質問に答えもせず感動している俺をふーふーちゃんは優しく目を細めて見つめ頬を撫でてくれていた。もしかしてこの手には熱を吸い取ってくれる機能もあったりする? それとも、俺がふーふーちゃんが来てくれて嬉しすぎるだけかな? さっきよりずいぶん気分が良くなっている。
「ごはんは昨日の夕方にすこし食べた。おなか……あんまり空いてないかも」
「出来合いのものをいくつか買ってきた。すこしでも食べられればいいけどどうかな……。ゼリーとかなら食べられそうか?」
「わざわざ買ってきてくれたの? 俺のために?」
「見舞いに手ぶらで来るヤツがいるか?」
当たり前のように言うけど、俺はふーふーちゃんがお見舞いに来てくれただけですっごく驚いてるんだよ。手を伸ばすとふーふーちゃんは俺がしたいことを察して身を屈めてくれた。頬に触れて、低い体温をてのひらに感じる。
「……ちょっとだけ頭が痛かったけど、ふーふーちゃんが来てくれたからもう治ったみたい」
「嘘はついてないな?」
「うん、たぶん熱ももうないよ」
「残念ながら熱はまだある。汗をかいただろう、着替えるのを手伝おうか?」
「うーん、それって着替えるだけ?」
「体調不良者に手を出すほど飢えてない。思ったほど悪くはなさそうだけどまだ怠いんじゃないか? 一人で着替えられるなら俺は買ってきたものを冷蔵庫に入れてくるけど、どうする?」
「……脱がして?」
「……着替えを手伝うだけだからな」
「もちろん?」
ため息をついたふーふーちゃんは俺の服が入っている棚の中から着替えのスウェットを出してベッドの端に腰掛けた。ふーふーちゃんの重さ分、ベッドがそちらに傾いたから、俺はそれを利用してふーふーちゃんに抱きついた。抱き返してくれた機械の腕が服越しに熱い肌と重なるとすごく気持ちがいい。頬を擦り寄らせたふーふーちゃんのすこし低めの体温だって、大好きだ。熱くて寒い風邪の時はふーふーちゃんにずっと抱きしめていてほしいな。そんなワガママ言えないけど。
「これじゃ着替えさせられないぞ、浮奇」
「んん、もうちょっとだけ。……あ、う、もしかして俺汗臭いかな?」
「うん?」
「うわっ、嗅がないでマジで!」
「浮奇の匂い、好きだけど」
「や、でも、ほら、汗は汗で、男なんてみんな臭いし……。あっ、ふーふーちゃんの汗はすごく良いけどね?」
「何が良いんだ……。気になるなら先にシャワーを浴びるか?」
「……手伝うよって口調に聞こえるんだけど」
「手伝おうか?」
「そ、それはダメじゃない……? 俺、襲っちゃうよ……?」
「ふは、おまえが襲うのか。風邪を引いてるのに元気だな」
「……とりあえず着替えだけ……あとで一緒にお風呂入ろっか……?」
「浮奇がそうしたいのなら」
どうしたの、いつもそんなに甘くないでしょう? 俺を揶揄って遊んでるのかも、と思って顔を覗き込んだけれど、ふーふーちゃんはただただ優しい目をしている。風邪を引いただけで、こんなに優しくしてくれるの?
俺が混乱している隙に、ふーふーちゃんは何の色気もない手つきで俺の着ていた服を脱がせて新しい服に着替えさせた。ズボンを脱がせた時に下着を一緒に引っ張ってしまった時だって何でもない顔でそれを直しただけだ。
……俺、いま化粧もなんもしてないし、髪だってボサボサだと思うし、だから、可愛くなくて魅力ないのかな……。風邪だからそういうことをしないだけだって分かってても、俺はふーふーちゃんのこと大好きだから、あんまりに無反応だとちょっと寂しいんだけど。優しさを向けられることは嬉しいのに、全く意識されてないのは嫌だなんて、ワガママ過ぎて呆れてしまう。ぐちゃぐちゃの頭の中も風邪のせいにしてしまえたらいいのに。
「……浮奇?」
「……ん、なに」
「なんでそんな顔してるんだ。どこか痛むか?」
「……ううん、ぜんぜん、……なんでもない」
「こっちを向け、浮奇。考えてること全部言ってごらん」
ふるふると首を振って俯いたけれど、ふーふーちゃんの両手が頬を挟んで、でも無理矢理顔を上げさせることなくまだ濡れていない目元を優しく撫でてくれたから、俺は自分の意思で顔を上げた。だって、そうしたら、ふーふーちゃんがキスをくれるって知ってるから。
「いいこだ。ほら、何を考えているのか教えて」
「んん……、でも、わがままばっかで嫌われちゃう」
「浮奇はいま風邪を引いているんだから、ワガママを言っていいんだよ。それを叶えるために俺がいるんだろ?」
「そうなの……?」
「そうだよ。食べたいものも、欲しいものも、やりたいことも、全部言っていい。全部叶えてやる」
「……風邪、うつっちゃうかも」
「ふ、言われなくても考えてることが手に取るように分かるな」
くすくすと優しく空気を揺らす笑い声を上げて、ふーふーちゃんは俺がお願いする前に唇を重ねてくれた。愛情だけを詰め込んだみたいな触れるだけの甘いキスであっという間に心が満たされる。ふーふーちゃんが俺のこと大好きなことを分かっていてもすぐに卑屈になっちゃう俺に、効果抜群のキスだ。
「それで、他には? ちなみにこれ以上の性的な接触は浮奇の熱を上げかねないから今は却下する」
「……今ので足りた」
「それは良かった。俺は足りてないから、早く風邪を治してほしいけどな」
「え、……え、そうなの? 全然そんなふうに見えない……」
「余裕があるって? 見かけだけだよ。俺の頭の中を覗いたらおまえは倒れてしまうかもしれないな。ああ、いまは本当に何もしないからな? まずは風邪を治すこと」
「……ふーふーちゃん」
「ああ」
「俺のこと、好き……?」
「……大好きだよ。風邪の時じゃなくたって、いつでも言ってやるから、こんなことで泣くな」
泣いてないよと言おうと思ったのに、視界がぼやけてふーふーちゃんの顔がよく見えなくなってしまう。食べたいものも、欲しいものも、やりたいことも、なんにも叶えてくれなくていい。ふーふーちゃんがいるだけでいい。
腕を伸ばして温かい体を抱きしめた。熱が上がっちゃったかな、頭のてっぺんから足の先までぽかぽかだ。俺の体温でぬるくなったふーふーちゃんの手のひらが背中を撫でてくれるのが心地よくて、こどものようにふーふーちゃんに抱きついたまま眠ってしまいたかった。
「浮奇? 寝るのか?」
「ん……んん、ふーふーちゃんと、ごはん食べる……」
「……じゃあ起きたら食べよう。ちゃんとここで待ってるから、ゆっくりおやすみ」
まだ起きてからすこししか経っていないのに、ふーふーちゃんにそう言われて目を瞑ったらふわりと眠気がやってくる。ねえ、起きたらもう一度キスをしてくれる? 聞かなくても答えが分かるから、俺は大好きな人の腕の中で安心して眠りにつくことができた。