「んん〜……おいしい!」
幸せそうなその声に、俺は手元から顔を上げた。平日でも店は空席が残りわずかなほどに賑わっていて、ドリンクの注文も間を空けずに続いていた。俺は休みのバーテンダーに代わりバーカウンターに出ていたから客席が見渡せて、その声の主もすぐに見つけることができた。
その人は赤い唇の口角を上げ、目を細めて料理を味わっていた。美味しそうに食べる人だ、とつい観察するように見てしまう。白い肌に整った顔立ち、紫色の艶やかな髪は毛先がふわりと跳ねて柔らかそうだった。動くとシアー素材の服が煌めいて見えてその人を余計に特別に見せる。彼の向かい側にもモデルのようにスラッとして綺麗な男性が座っていて、彼らのテーブルの上には今日のメインの肉料理である鶏のポワレが乗っていた。
ああ、それはシェフの担当だ、うまいに決まってる。
ナイフで一口大に切り分け、食べるごとに表情を緩めるその人を見て俺まで美味しいものを食べたかのような気分になった。料理自体にそこまで思い入れがあるわけではないが、やはりこうして食べている人の美味しそうな顔を見ると嬉しかった。経験があるから頼まれてバーテンダーを引き受けているけれど、頼まれなくても時々ここに立ちたいと思っている。キッチンの中はピーク時は戦場のようになるから、一人でドリンクを作り続けるだけでいいのは気楽でもあった。
いくつかドリンクの注文を捌いているうちに彼らのテーブルにはデザートが運ばれてきていた。美しく可愛らしい人だから甘いものが好きなんじゃないかと偏った考えで様子を見れば、彼はさっきまでの笑みを引っ込めて不満げに頬を膨らませた。えっ、と思った俺の元に「なんでこんな盛り付けなんだろう、俺ならもっとこのお店に合った可愛いプレートにできるのに」と言う彼の声が届く。それでも一口食べれば表情は緩み、おいしいと唇が動くのが見えた。
「……」
ドリンクの注文はちょうど落ち着いたところだ。ウェイターは離れた席に料理を運んでいる。俺はそっとバーカウンターを出て、そのテーブルに近づいた。
「失礼します。飲み物のお代わりはいかがですか?」
「んっ、……ありがとうございます」
口元を隠してこちらを見上げた彼は遠目で見るよりうんと魅力的で、俺は一瞬仕事を忘れて彼に見惚れた。もぐもぐと口の中のものを片付けた彼は口元を隠していた手を下げ、ふっくらとした唇に笑みを浮かべる。
「バーテンダーさん? 良かったらこのデザートに合うお酒をもらえますか?」
「……かしこまりました。すぐにお持ちします」
彼らのデザートはバニラアイスとベリーソースで飾られたガトーショコラだった。チョコレートなら合う酒は色々ある。頭の中で候補を上げながらバーカウンターに戻り、酒の並ぶ棚を見た。
彼らは料理と共に白ワインを飲んでいた。あれは確か料理に合わせて出したものではなく彼らが選んで頼んだものだったはずだ。ワインが好きなのか、料理との相性を理解しているのかどちらだろう。自分の方がうまく作れるというようなことを言っていたから料理をする人なのかもしれない。
なんにせよプレッシャーのかかる選択だ。俺は口角を上げ、赤ワインとグラスを手に取った。くもり一つない綺麗なグラスをテーブルに運ぶと彼は俺を見上げて「赤ワイン?」と笑みを浮かべた。
「赤は苦手ですか?」
「ううん、大好きです。チョコレートにもよく合う」
「詳しいんですね」
「調理の仕事をしているので」
「……料理はお口に合いましたか?」
「とっても! どの料理も美味しかったです」
本当に嬉しそうにそう言う彼に、俺の作った料理を食べて欲しかったと思う。だけどバーカウンターに出ていなければこうして話すこともできなかったんだ。彼の笑みを見つめて、俺は表情を緩めた。
「どうぞ、ゆっくりお楽しみください」
席を離れカウンターに戻るとウェイターが別の席のドリンクの注文を持ってきて興味津々の目で俺を見つめた。何か言われる前に「うるさい」と言えばニヤニヤしながら「なんも言ってないじゃん」と言ってくる。
「仕事しろ」
「はぁい。……あの人たち、美人だね?」
「仕事」
「あは、はーい、仕事しまーす」
ピークが落ち着き注文は減ったがその分片付けが慌ただしくなる。ドリンクの注文がないようなら洗い場に行ってこようかと店内を見渡した時、不意にバチッと目が合い俺は息を呑んだ。彼が、まっすぐにこちらに歩いてくる。
「どうかなさいましたか?」
「素敵なワインをありがとうございました。とてもおいしかったです」
「ああ、お口に合って良かったです」
「甘いものは食べますか?」
「え、俺、っあ、私……ですか?」
「はい、そうですよ」
「食べます、けど……?」
「良かった。これ、俺の働いてる店です。デザートを作っているので良かったら食べに来てください」
彼はカウンターの上に小さなカードを置いた。どうやらショップカードらしい。彼が、働いている店の?
「あの」
「ご馳走様でした」
顔を上げた時には彼はもうこちらに背を向けていて、俺はただ彼の後ろ姿を見送った。店に来いということだろうか。彼も、俺のことを気にしてくれた……?
戸惑いつつショップカードに手を伸ばす。白とパステルカラーで彩られたそれは明るい雰囲気だ。こことは違いランチがメインで、営業は夜の早い時間までらしい。
「ん? ファルガー、何それ」
「いや」
「裏になんか書いてあるよ」
「え?」
カウンターの向こうからそう声をかけられ、俺はカードを裏返した。余白にボールペンで数字が書かれている。ハイフンで区切られたそれは考えるまでもなく電話番号だろう。
「わお、お客様に番号もらったの? ヒュ~」
「……これ、どうすればいいと思う」
「は? そんなん僕に聞かないでよ。気になるなら電話すれば良いし、興味ないなら無視すればいいだけじゃん」
「……」
「仕事しなよ、モテ男」
「……うるさい」
無視なんてできるわけがない。自分の仕事を超えて先に彼に声をかけたのは俺だ。エプロンのポケットにそれをしまい込み、俺は大きく深呼吸をした。
仕事をしよう。彼のことはそれからだ。家に帰るのは日付が変わる直前だろうから今日電話はできないかもしれないけれど、幸い明日は休みだった。彼の店に行くか電話をかけるかは、後でゆっくり考えよう。