郊外の一軒家は隣の家から距離があり、しんと静かに佇んでいた。
鍵を開けたふーちゃんの後について中に入って、電気が付いていない薄暗い玄関で躓き彼に手を伸ばす。しっかりと抱き止めてくれた彼が俺の顔を覗き込んで「大丈夫か?」と聞いた。
ここに来るまでに少し酔いが覚めた気がしたのに、俺は欲望のままにその唇にキスをした。一度触れてしまえばそれまで我慢していた分止まれずに何度も繰り返し重ねて、食んで、そうしているうちに彼もわずかに口を開いたから心臓が震えるのを感じながら舌を伸ばした。熱い口内で、舌と舌が触れ合う。泣いちゃいそうなくらい気持ちいいのは、酔ってるからかな。
「んっ……、うき、浮奇、ストップ、っは」
「ぁ、んん……。……う、ごめん、なんかもう、……だって、ずっと、さわりたたくて」
「ああ、俺も。だけど焦らなくても逃げないから、……体調に問題はないか? ずいぶん酔っていただろう。転んだのも、どこかぶつけてない?」
「……優しい」
「だめか?」
「ダメじゃない……」
ぎゅうっと抱きついて彼の胸に顔を埋め、荒くなった息をはぁと吐きながら「だいすき」と呟く。彼の香水がやわらかく鼻を撫でてそれを吸い込むと余計に体が熱くなった。
「ありがとう。お茶でも入れるから、少しだけ落ち着かせてくれ」
「落ち着かなくていいのに」
「酔った勢いにしたくない。落ち着いても俺のことを好きでいてくれるならその時に続きをしよう」
「……酔ってなくても好きだもん」
「俺もだよ」
彼の指がさらりと耳の後ろを撫でていき、小さく声が漏れた。お茶なんて良いから今すぐ服を脱いでよと言いたくなったけれど、あんまりわがままばっかり言って呆れられたくない。下唇を噛んで潤んだ目で彼を見上げれば、彼は俺をじっと見つめ、はっと吐息を溢して顔を下げた。ぴったり重なった唇がちゅっと音を立てる。
「そんな目で見るな、我慢できなくなる」
「しなくていいじゃん……」
「……優しくしたいんだ」
優しいことなんて、もう知ってるのに。彼は俺の視線を受け止めて宥めるように数度キスを落とし、腰を抱いて家の奥へ進んだ。
パチッと電気が付き、落ち着いた雰囲気の部屋が俺を迎えてくれた。思わず全体を見渡すとふーちゃんは少し笑って「あまり掃除をしていないから見ないでくれ」と言う。いつのまにか俺を離していた彼を振り返って探せば顔の見えるオープンキッチンの中でケトルに水を入れていた。
彼の向かい側まで行き、その様子をじっと見つめる。ちらりと視線を上げたふーちゃんは「そこらへんに座ってな」と言ったけれど、でも、ふーちゃんのことを見ていたい。ううんと首を振り、そのまま彼を見つめ続けた。
「浮奇は家でも料理をするんだっけ」
「うん。ルームシェアしてる友達の分もまとめてごはん作ったりするよ。ふーちゃんは……あんまり物がないね。家では料理しないの?」
「ああ、店だけで十分。家では適当だ」
「じゃあふーちゃんの本気の料理を食べるにはお店行かないとかぁ」
「……浮奇が食べてくれるなら」
「作ってくれる?」
「作るよ、もちろん。お酒は好きで色々揃えてるからつまみ程度なら家でもよく作ってるし。けど、今日はもう飲まないでおこう。紅茶でいいか? コーヒーもインスタントで良ければある」
「ん、紅茶でいいよ。ありがとう」
ちょっとした職業病みたいなもので、さりげなくキッチンの隅々に目を走らせた。棚には数えきれないくらいの酒瓶、スパイスなどの調味料が並び、食器はそこまで多くない。彼が開いた茶葉の入っている引き出しは整理整頓されていて汚れもない。物が多くないし収納もきちんと使っていて、とても使いやすそうなキッチンだ。彼の言葉的に食材はあまり多くはなさそうだけれど。
「砂糖は?」
「んー……なくていいや。ストレートで」
「オーケー。それじゃあカップをどうぞ」
「ありがとう」
カウンター越しにカップを渡されてそれを受け取る。指が触れたのに、ドキドキするどころかなんでかホッと気分が和らいだ。全然不快じゃない。だけどもっとドキドキしてたい。
キッチンから出てきたふーちゃんに促されてソファーに座り、すぐ横に彼も座った。空けられた隙間を埋めてくっつけば彼は拒絶することなく俺の腰を抱いて頬に口付けてくる。わあ、と、照れた声が出てしまい俺は顔を逸らした。
「ふ、今さら?」
「いや、うん、ね、今さら。……なんかちょっと、照れちゃった」
「……釣られる。一回離れるか」
「やだ、もう照れないから……! ちゅーもできるよ」
「したい?」
「……したいに決まってる」
「……落ち着くためにお茶を入れたのにな」
「さっきよりはうんと落ち着いてるもん」
「そうかな。……目、つむって」
彼の手が俺の顎に触れる。求められるまま、俺は目を瞑った。
優しく重なった彼の唇は愛でるように俺の唇を吸って甘く音を立てた。首筋から耳、後頭部へと辿った彼の大きな手のひらが好きだ。角度を変えるたびにぶつかる鼻も、くっついたり離れたりするおでこも、手を伸ばして触れた形のいい耳も好き。
ちゅっと音を立てて唇が離れ彼の呼吸が肌に当たる。ゆっくり瞼を開けて、わざと焦ったいくらいのスピードで視線を上げる。至近距離で彼の瞳を見つめて、見つめられて、まばたきをしたらもう一度唇が重なった。俺だけを見つめる視線の熱さに心臓が壊れてしまいそうだった。
「っは、……わるい、こんなつもりじゃなかった」
「んぅ……ふっ、それじゃあどんなつもりだったの?」
「……浮奇」
「うん」
「……まだ出会ったばかりだけど、でも、おまえのことが好きだ」
「……うん。俺も、好き。恋をするのに時間なんて関係ないよ。俺は一目惚れも賛成派。これからもっとお互いのことを知っていけるんだもん、すごく楽しみだ」
「……俺の名前は、ファルガーオーヴィド。レストランのキッチンでスーシェフをしている」
「え、スーシェフ? ……なんであの日はバーテンダーをしてたの? 中での仕事がたくさんあるんじゃない?」
「バーテンダーが休みだったから……これは言ったか。あそこのレストランでは調理師になる前からバイトをしていたんだ。その時にバーテンダーの仕事も教えてもらってやってたから、今でも時々バーカウンターに出てる。実は料理よりも酒の方が好きだ」
「そうなんだ……」
「趣味は本を読むこと、ゲームをすること。仕事以外ではほとんど家を出ない引きこもりだ」
「俺も時々ゲームするよ。今度一緒に遊ぼっか?」
「いいな、楽しそうだ。あとは……男相手は、はじめて」
「……キス以上も、欲しいんだけど」
「ああ、だから、浮奇が教えてくれるか?」
ふーちゃんの手が俺の心臓に触れるように服の上を滑った。薄い生地一枚じゃ誤魔化せない体の熱さが恥ずかしくてすこし目を伏せる。
「浮奇」と彼が俺の名前を呼び、俺の手を握った。それは優しく導かれて彼の胸に触れる。俺と同じくらい早い彼の心臓に気がつき、パッと顔を上げた。
「それとも慣れてないヤツの相手なんて嫌?」
「っ、やじゃない、全然、嫌じゃないよ……! ……本当にいいの? 女の人みたいにおっぱいがあるわけじゃないし、柔らかくもないし」
「浮奇が良い」
「……俺も、自己紹介しなくていい?」
「ふ……。それは後でにしよう。先に男同士のやり方を聞きたい。教えてくれますか、先輩?」
「……安心して、料理をするよりうんと簡単だから」
目を合わせて、同時にふっと吹き出す。笑いながらしたキスは教えるまでもなく満点。そもそも好きだってまっすぐ目を見て言ってくれる人なんて、どんな失敗をしても合格点に決まってる。
せっかく彼が入れてくれた紅茶を半分以上残してカップもそのままに俺たちはリビングを後にした。キス以上をするには、ソファーじゃちょっと狭いから。
食欲をそそるおいしそうな匂いがしてゆっくりと心地よく眠りから覚める。目を開けて見えた天井に見覚えがないと思ったのは一瞬で、ごろりと寝返りを打って肌を撫でたシーツの気持ちよさに一人でくすくすと笑い声を溢した。
久しぶりの気怠さはむしろ行為の証明のようで嬉しかった。そっと体を起こし、ベッドから起き上がる。夜に脱がされたはずの服は見当たらず、代わりに彼の服が畳まれて置かれてる。オーケー、これを着ろってことね? 彼シャツが好きなタイプだってことは教えてないのになぁ。鼻歌を歌いながらそれを着て、だぼっと緩い服に口角を上げた。
寝室を出て昨日の記憶を頼りにキッチンに向かう。近づくほどいい匂いがするそこをひょこっと覗くと思った通り彼が料理をしていた。楽しそうな横顔を見て頬が緩む。
「おはよ」
「っ! ああ、びっくりした……。おはよう、よく眠れたか?」
「ふーちゃんがベッドを出て行ったことにも気がつかないくらいぐっすり。服、置いてあったの着ちゃったけどよかった?」
「……ああ。すごくいいな」
頭のてっぺんから足先まで、彼の視線が何往復かする。満足げな顔に笑っちゃいそうになりながら、俺は一歩彼に近づいて唇を尖らせて見せた。ぱち、とふーちゃんは目を丸くして瞬きをする。
「他のことは満点だけど、一個だけ減点」
「え。……なんだ? 次は直す」
「……初めての夜は、起きるまで隣にいてほしい」
「……、……五分間、時間を巻き戻させてくれ」
「特別に巻き戻してあげる」
ちょんと彼の服を引っ張った俺を抱き上げて、彼はキッチンを出て寝室に移動した。もう一度ベッドに寝転がされ隣で彼も横になる。じっと見つめられて俺は目を閉じ、十秒後、ゆっくりと目を開けた。
朝からとろけてしまいそうなくらい甘い微笑みのふーちゃんが、俺に優しくキスをする。
「おはよう、浮奇」
「……百二十点!」
ぎゅうっと抱きついて彼にキスを降らせる。こんな完璧な恋人、どこを探してもいない。じゃれるようなキスを繰り返して彼の手が俺のおなかを撫でた時、きゅるると小さくお腹が鳴って俺たちは目を合わせた。
「……朝ごはんを作ってる途中だった」
「……ちなみにメニューは?」
「パンとスープと、……オムレツ」
「食べたい!」
「練習時間がなかったから失敗しても失望しないでくれ。目玉焼きの方が失敗する確率は低いけど、どっちがいい?」
「オムレツ」
「……浮奇が作るか?」
「ふーちゃんのオムレツ」
「……がんばる」
「うん、がんばって」
くすくす笑う俺の口を塞いでから、ふーちゃんは「よし」と言って起き上がった。手を伸ばせば躊躇いなく繋いで俺を引っ張ってくれる。
「ふふふ」
「うん?」
「んー、へへ、大好きだなって」
「……オムレツを見た後もそう言ってくれるといいけど」
「失敗しても笑ってあげる。それに、これからいくらでもリベンジする機会はあるでしょ?」
「……そうだな。浮奇のために、家でも少しは料理をしないと」
「呼んでくれたらいつでも食べにきてあげるよ」
「それじゃあ練習にならない」
「ふーちゃんの全部を知りたいんだもん」
「……俺も浮奇のことをもっと知りたい」
「あ、自己紹介しないと。俺の名前は浮奇ヴィオレタです」
「ふふ、うん」
「レストランでデザートを作ってるよ」
「すごく可愛くて美味しかった」
「それって俺のこと? デザートのこと?」
「……両方」
「ふ、ふふ、それとー……」
俺が足を止めれば繋いだ手が引っ張られふーちゃんも立ち止まる。振り返って俺を見る彼に、俺は笑みを向けた。
「好きな人は、ファルガーオーヴィド」
「……そ、うか」
「好きな食べ物は甘いものと卵料理、コーヒーとお酒も好き」
「……」
「休みの日は買い物に行ったり友達と遊んだりするけど家の中でだらだらするのも好きかな」
「……浮奇」
「うん?」
赤い顔は昨日の夜より可愛さ増し増し、スパイス程度のセクシーさで、そんな顔も大好きだって思った。一歩近づき、繋いでいない手で彼の頬を撫でる。
「なぁに、ふーちゃん」
「……好きだよ」
「俺も、大好き」
「俺の方が好きだ」
「張り合わないでよ」
俺の方が好きなんだけどって拗ねた声で言ってみせて、すぐに笑ってしまった俺は誤魔化すように彼にキスをした。