「いいんだな?」
魔性のヒュンケルは呟いた。
「かまわない」
初心なヒュンケルは頷いた。
三時間ほど遡ると。
魔性のヒュンケルは男に抱かれていた。恋人のラーハルトには悪いが自分はこういう人間である。そこらの棒を勝手に銜え込んで頻繁に発散せずにいられない性質だ。
そのくせ恋人には指一本すら触れさせていなかった。積極的に拒んでいる訳では無いのだが。しかしラーハルトは、艶を込めて微笑んでやるだけで目を逸らすほどの奥手であった。
体を貪られることにあまりに慣れすぎたヒュンケルには、それが面白かった。素知らぬふりでからかっては及び腰にさせ、その裏で適当に引っ掛けた雄と遊んだ。突っ込まれながら恋人は童貞なんだと暴露すれば大抵の相手は下品な言葉でからかってくる。それに感じてしまう。何も知らないラーハルトが未だにヒュンケルを清い体だと信じているだろうことにも、どうにもならぬほど興奮してしまう。
そんな爛れた生活を人知れず送っていた。
しかし表面上は品行方正であった。
仕事を疎かにはしない。出すものを出したらさっさとベッドを後にして、パプニカ城の自室に戻り、会議に出席するため身形を整えた、その時だ。
ヒュンケルは右手で襟を正したのだが、なんと鏡の中のヒュンケルも右手で襟を正したのだ。
鏡に映る自分は、面対称でなければならないはずが。
「どうなっている」
「わからん」
何故か鏡の中の自分と会話が成立してしまう。こんな奇妙なことがあるだろうか。
あちらとこちらから鏡に触れると。
スルッと、まるで吸い寄せられるように体が向こうへすり抜けた。
「え?」
「え?」
入れ替わった。同時に正面へ移動したならお互いにぶつかるはずではないのか。いやこれほどの怪現象だ。物理法則などは考えるだけ無意味だろう。
「とにかく会議に出席せねば。遅れてしまう」
「おまえも会議なのか? 何のだ?」
「明日の海上戦の訓練について」
「同じだな……。後でまた此処で落ち合おう」
「そうするしかあるまいな」
戻ってきたヒュンケルが寝室の扉をあけると、鏡の向こうのヒュンケルも同じタイミングで現れた。
「会議が終わる時間までぴったり同じか」
「まったく同質の平行世界なのかもな」
「だとしたら、オレ達は元の世界に戻る必要がないな」
姿見の手前に座り合い、生い立ちから現在までを摺り合わせたが、二人の人生は寸分違わず符合した。
「鏡に映ったのだから同じ人物、なのか?」
「いや待て。それはなんだ」
指を差され、寛げていた胸元を鏡で確認しようとするが、今は別人が前に居て映らない。
「そこだ。赤くなっているのだが?」
「ああ。キスマークだ。先程まで抱かれてたんでな」
「な……! おまえはラーハルトから逃げられなかったのか!?」
「……? どういう意味だ?」
ここにきて、二人の差異が発見された。
話を聞いてみると、向こうのヒュンケルは正真正銘の清い体らしい。
「ラーハルトと恋人になったまでは良かったが、あいつはいきなり押し倒そうとしてきてな。驚いた……」
「ほう? ラーハルトが? いきなり押し倒して?」
自分の知るラーハルトといえば、うなじを掻き上げて見せるだけで硬直するような男なのに。
「聞けば、これまで食った男女は数え切れないとかで、おまえもオレ無しではいられない体に躾けてやるといって迫ってきた。戦いのプロである奴の恋愛経験などきっとオレと同じようなものだと思っていたのに……裏切られた気分だった。当然、オレは逃げた」
「正解だ。その手のヤリチンは目的を達成したら捨てられる可能性が高いからな。おまえがまだ清い体で良かった。今のうちにこちらから捨ててやれ」
「離れるべきなのは分かっている。それでも、オレは戦うアイツの勇猛さとか、洒落たところとか、声とか、その、色々と……」
向こうのヒュンケルはそれきり真っ赤になって黙ってしまった。ああ、好きなのか。なんという初心な奴だ。そこまで好きなら穴の一つや二つ惜しくないだろうに、急に抱かれるのが恐かっただけなのか。
「わかった。おまえはそのままその世界に居ろ。そちらには、おまえを押し倒さないラーハルトが居る」
「なに……?」
「その世界ではな、裏切っていたのは……オレのほうなのだ」
己の魔性を余さず語った。身が汚れきっていることも、真面目なラーハルトに酷い仕打ちをしてしまっているおかしな趣味も。
おぞましい性生活を聞いて初心なヒュンケルは絶句していたが、それだけによくわかっただろう。
「その世界のラーハルトは素晴らしい男だが、オレにはふさわしくない。代わりに、オレがこの世界の碌でもないラーハルトをこっぴどく振っておいてやる」
「しかし、それでは、恋人が別人に入れ替わったことをラーハルトには隠しておくというのか? それは逆に、アイツへの裏切りなのでは……」
初心なヒュンケルは、眉間に葛藤のしわを深く刻んでいる。
本当にもう一人の自分はイイ奴らしい。馬鹿らしいほどに。
「なにを迷うことがある?」
「おまえはラーハルトを、失うんだぞ?」
「こちらのオレ達は裏切り者同士で無事に破局する。順当な末路だろう。けれどどこかには幸せなオレ達も存在するのだと、思わせておいてくれればいいじゃないか」
「おまえは本当にそれでいいのか?」
「おまえこそオレの話を信じるのか?」
「……自慢じゃないが人を見る目には自信があるんだ」
「……変な男に騙されたくせに」
二人は笑い合った。
「いいんだな?」
魔性のヒュンケルは呟いた。
「かまわない」
初心なヒュンケルは頷いた。
同意の上で、姿見を割った。
「なんだっ、今の物音は!?」
鏡の割れた騒音を聞きつけたラーハルトが寝室に飛び込んできて、初心なヒュンケルは拳に付いた血を後ろに隠した。
「なんでもないさ。手が当たって鏡が割れただけだ」
「怪我はっ?」
「あ……」
駆け寄って手を取られ、吃驚して身を強張らせたら。
「す、すまんっ」
ラーハルトはすぐに両手を開いて見せ、一歩離れた。
「触るつもりはなかった。おまえを訪ねてきたら大きな物音がしたゆえ、もしや暴漢でも侵入したかと不躾ながら咄嗟に立ち入った。許せ」
戦場の如き凜々しさで潔く頭を下げたラーハルトに、ヒュンケルは目を瞬いた。
もしかすると、このラーハルトこそが自分の好きになったラーハルトなのではなかろうか。いつも、彼の姿に、このラーハルトを垣間見ていたのではなかろうか。
自分が生まれる世界を間違えていたのだろうか。
「……少し切っただけだ。心配してくれてありがとう」
ヒュンケルが隠していた手を遠慮がちに差し出すと、ラーハルトは目を見張った。
「触れても? 手当を……オレがしても?」
「ああ、頼めるか?」
手を繋ぐだけでこんなに舞い上がってしまうなど、あの発展家のヒュンケルには信じられないかも知れないが。
嘘偽りなく彼に恋している。
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「なんだっ、今の物音は!?」
鏡の割れた騒音を聞きつけたラーハルトが寝室に飛び込んできて、魔性のヒュンケルは血の付着した拳をヒラヒラと振った。
「なんでもないさ。手が当たって鏡が割れただけだ」
「見せろ」
ラーハルトがずかずかと部屋に上がり込んで、その勢いで手首を取ってきたから吃驚した。そうだった。こちらのラーハルトは真面目な男ではない。恋人を強引に調教しにくるような外道なのだ。
監禁などされてはたまらない。この場で絶交してやる。
「ラーハルトっ、オレは……うっ!?」
言うより早く、傷を引き寄せられてべろりと舐められた。ヒュンケルと目を合わせたままでだ。
上目使いで視線を絡めてくるラーハルトの、舌の動きがエロい。ヒュンケルは堪らずに悩ましげな息を吐いた。
「……なんだ? 珍しく乗り気か?」
ククッと喉から漏れる嘲笑が憎たらしいくらい似合っていて、目を奪われて、ヒュンケルは腰を捉えてくる腕を避け損ねた。
「あっ!?」
ベッドに連れられ、投げ技のように激しく押し倒された。
ラーハルトが見下ろしてくる。
「気付かなかったが、おまえ……経験があるな? それどころか、なんだ? この痕は」
胸元にするりと入ってきた指が赤い鬱血をくるくるとなぞる。たったそれだけなのに凄く動きがいやらしい。知らず声が漏れてしまう。
「なるほどなるほど……。オレの知らぬ間に余所でそんなに楽しんでいたとは。躾け甲斐があるではないか」
きつく髪を掴まれて眼光をぶつけられた。
「おまえ、覚悟は出来てるんだろうな……」
ラーハルトの煮えたぎる怒気を受けて、ヒュンケルは陶然とした。
これはもしや、とんでもなく好みの男なのでは。
ここぞとばかりにヒュンケルは、数々の男を攻略してきた妖艶な唇で煽りにかかる。
「……オレに躾け? ふざけるな。オレを御せる者などおらん」
ラーハルトの目が据わった。
「後悔したいようだな……」
こんなろくでなしと結局はくっついてしまうなど、あの清純なヒュンケルには信じられないかも知れないが。
嘘偽りなく彼に恋している。
2024.02.05. 00:25~02:35 +α SKR