風呂上がりに濡れた髪から水を滴らせたまま、缶ビールのタブを開ける。炭酸が抜ける軽い破裂音と同時に、スマホがメッセージの着信を告げた。急かすように点滅するLEDを見ながら端末を手に取る。片手で操作しながら水滴をまとった缶から一口呷った。喉を通り抜ける炭酸の刺激が、1日の終わりを高らかに宣言するようだ。
アプリを開いてメッセージを表示する。送信者は見ずとも分かる。
[お疲れ様!今日も暑かったね、体調は大丈夫?]
何やら可愛らしいスタンプと共に送られてくる、労いのメッセージ。俺にこんなものを寄越す奴は一人しかいない。
[今度の休みには会えそう?]
上目遣いの柴犬のスタンプと共に表示されるメッセージ。あざとい。可愛い。年若い恋人からの言葉に、だらしなく相好を崩すおっさん、それが未来の自分の姿とはあの夜には想像もしなかった。全く、現実とは予測不能なものだ。
毎日、大体決まった時間に送られてくる定期連絡。その日にあった些細な出来事や食べた物、今日みたいな体調を気遣うものや出会った犬猫の写真──これは嫌がらせかもしれないが。
俺が返事を返すことは稀だが、それでも懲りずに一日の終わりには必ず送ってくる。
「まるで日課だな」
俺が言うと、
「日課っていうか、…日記代わり?」
うーんと、首を傾げながら答える。
「日記なら俺に送るんじゃなくて、ノートにでも書いてろよ」
「それでもいいんだけど、まぁ、誰かに聞いてもらいたいって事あるじゃん?別に、返信とかはしなくていいからさ」
そう言われたので、お言葉に甘えて特に返信はしないが、既読だけはつけている。安否確認も兼ねているのだろう。忙しさにかまけて未読放置したら、徹夜明けで寝ているところを叩き起こされた。貴重な睡眠を妨害されて文句を言うと、
「KKが過労で突然死しないか、心配してるんだよ」
そんなに心配なら一緒に住んでくれ。
別に束縛したい訳じゃない。ただ、いつも手の届くところに居て欲しいだけだ。でも、あちらは学生、就活やら何やらと忙しい身で、生活サイクルの違う人間に合わせるのは難しいだろう。それが分かっているから、言い出した事は無い。でも、たまに泊まっていった翌日は、手放すのが心底、嫌になる。毎晩一緒に寝たいし、毎朝その声で言うおはようを聞きたい。
年を取ると先が見えてくるせいか、貪欲になるようで、枯れて悟りがひらけるようになるには、まだ暫くかかりそうだ。それまでに、あいつに愛想を尽かされなければいいが。
[明日は友達と飲み会なんだ]
いつものように、送られてきた定時報告と写真を確認していると、昼間に食べたらしい机上一面の食い物の写真の次に、珍しい一言が続く。
普段あまり、あいつからそういう付き合いの話を聞くことはない。まぁ、大学生なら本来はよくある事なのだろうが。
[あんまり遅くなるなよ]
分かってるよ、と短い返信とご機嫌な柴犬。若者らしく、青春を謳歌してるのは良いことだ。良いこと、なんだが。
妙に落ち着かない。
こんなおっさんの相手ばかりではなく、同年代との交流も必要だと理解してはいるが、如何せん、俺はまぁまぁ心の狭い男だから、恋人が飲みに行くとなると、色々と気を揉んでしまう。けどまぁ、あいつはしっかりしてるし、大丈夫だろう。無理やり自分を納得させて、この件は頭から追い出した。
いつもならメッセージが来る時間になっても、スマホは沈黙したままだ。昨日、飲み会と言っていたから、当たり前なんだが。あいつがわざわざ昨日のうちに言っていたのに、心の何処かで来るのを期待していたようだ。全く、俺の方こそ、あいつから送られてくる日記を見るのが日課になっていたようだ。それが無いとこんなにも落ち着かないとは。
こちらから何かメッセージを送ってやろうかとスマホを手に取って、止めた。今そんな事をしたら、くだらない嫌みばかりになりそうだ。大人の男としての矜持が踏みとどまらせる。駄目な大人の自覚はあるが、それでも恋人には少しでも格好いいと思っててもらいたいものだ。
こういう時は、酒でも飲んでさっさと寝るに限る。3本目のビールを取りに、冷蔵庫を目指して腰を上げる事にした。
浅い眠りが、電子音によって妨げられた。手探りで枕元のスマホを探す。アラームとは違うメロディー、電話の着信音だ。開きたがらない瞼をこじ開けながら、ようやく探り当てた端末の画面をタップし、耳に当てる。
「KK?」
未覚醒の耳に飛び込んでくる無遠慮な声。これがあいつの声でなければ、即切りしているところだ。
「朝まで友達と飲んでて、今家に帰ってるところなんだけどさぁ、」
酔いを含んだ、どこか浮わついた声音に苛立つ。酔っぱらいめ、今何時だと思ってやがる。窓の外は、薄明に追われてそろそろ夜が撤退しようかとしている頃合いだ。
「そーかい、それで?」
何の用だ?と不機嫌を隠せない無愛想な声で続けようとすると、
「…なんか、KKの声が聞きたくなっちゃって」
僅かな間を挟み、緩い口調で殺し文句を吐いた。
寝てたよね、朝早くにごめん、と俺の機嫌の悪さに怖じ気づいたのか、早々に通話を切ろうとする暁人の声に被せるように尋ねる。
「今、どこだ?」
暁人が告げた場所を脳内の地図で検索する。
「すぐに行くからそこで待ってろ」
「え?いや、もう家に帰るから…」
「帰るな。いいから待ってろ」
困惑する気配が伝わってくる。俺の意図が掴めないのだろう。
「KK、怒ってる?」
常識外れの時間に電話したことを咎められると思ったのか、恐る恐るという感じで聞いてくる。
「違う、そうじゃねぇ。俺が声だけじゃ満足出来ねぇんだ。いいからそこを動くな」
時間が勿体無いと一方的に通話を打ちきり、其処らにある服を掴む。
まだ、夜が明けたばかりだ。完全な朝になるまでは、あともう少しの猶予がある。例えほんの僅かな時間でもいい。あいつを側に置いて独占したい。
どう切り出せば、あいつは俺と一緒に住んでくれるかは、道々で考えるとしよう。今は一瞬でも早く、あいつの顔を見たかった。
[待ってるから、早く来て!]
放り出した端末の通知欄にはそう表示されていた。