その熱と滴に溺れたい 狭く入り組んだ路地裏のその先で、パキ、パキリ、と何かが凍り付くような音が響く。それは凡そ、コンクリートの狭間にぽつりとある空き地で響く筈のない、異質な音であったが、この世には常識的な認識から外れた事が起き得るのだという事を、音の中心に居る人影はよく知っていた。
「これで終いだ!」
最後に、バキリ、と一際大きな音を鳴らして、凍り付いた異形は動き出せぬままに砕け散った。澱んでいた辺りの空気がすう、と晴れ、空き地に静寂が戻る。
KKは念の為霊視をし、空き地の穢れが綺麗になった事を確認すると小さく息をついた。
「お疲れ」
KKと同じく穢れの浄化と異形との戦闘を済ませた暁人が、隣から声をかける。その声や姿が隣にあるのが当たり前になって、どれだけの時が過ぎたのか。
あまりにも数奇な出会いから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
「怪我はないか」
「大丈夫。そんなに数も居なかったし」
何ともない事を示す為か、暁人がひら、と手を振る。まだ成長の余地は大いにあるとはいえ、随分頼もしくなったものだと、KKは年若い相棒を見やった。
「怪我とかはないけど、もう汗でびっしょりだよ。これからの季節はこのジャケットきついね」
ふう、と暁人が気怠げな溜息をつく。そう言われてKKもじっとりとした感触が纏わりついているのを思い出し、同じく憂鬱な呻きを漏らした。
二人の出会いは夏の最中だ。そこへ一巡しそうという事は、夏の兆しがもう始まっているという事で。
すっかり日も沈み切った深夜だというのに、穢れとは違うむっとした熱気が空気に混じっている。そんな中できっちりと装備をしたまま異形相手に大立ち回りをしていれば、結果は考えるまでもない。後半、二人共が氷のチャージラッシュばかり使っていたのは、偶然ではないだろう。
「まったくだ。けど、奴らとやり合うのに無防備でいる訳にもいかねえしな」
「そうだよね。やだなあ、洗濯地味に大変だし」
どうにも所帯じみた愚痴を零しながら、暁人がごそりとボディバッグを探る。そこから小さめのタオルが出てきて、相変わらず用意がいいなとKKは相棒のまめさに何度目かの感心をした。
元々大雑把な気質であるのと、もうずっと一人でやってきた事もあり、KKにそんな配慮は無い。雨に濡れようが、汗や泥にまみれようが、そんなKKを気に掛ける様な人間はいなかったし、一人淡々とアジトに戻ってシャワーでも浴びるだけだった。
暁人との出会いは、KKに色々な新しいもの、もう失くしたと思っていたものをもたらした。
――この、どうにもその姿に惹きつけられてしまう想いも。
KKはひっそりと、汗を拭く暁人の手元を目で追う。ぬぐうそばから輪郭を流れ落ちる滴が、乏しい街灯の光を反射して拡散する。きらきらと、まるで暁人を彩る煌めきの様に思えて、そんな自分にだいぶ頭が茹ってるな、と呆れ果てる。
唯一無二の相棒、共にこの世の危機を乗り越えた戦友、それらの他にどうにも度し難い熱をこの青年へ抱き始めたのは、一体いつからだったろうか。
共にいる事が自然になった最近のような気もするし、もしかしたら、あの出会った夜からそうだったような気もする。想いに溺れきってしまった今となっては、考えても詮無いことではあるが。
思考を逸らそうとしても、どうしても目は暁人を追ってしまう。他人の汗など、忌避する事の方が大半だろうに、暁人が流すその滴は輝いて見えた。
そういえばあの夜も、ふとした瞬間ショーウインドウか何かに映った、暁人の長い睫毛に散った雨粒がはっとする程美しく思えたな、と、その情景を思い浮かべる。やはり、この熱はあの夜から既に芽生え始めていたのかもしれない。
身の内で燃える熱と、外から炙ってくる熱気が、KKの理性を鈍くする。手を伸ばしてはならないと諫めるのに、そんな資格は無いと思うのに、気付けば熱くなったKKの指先が、暁人の額に流れる滴を掬っていた。
びく、と肩を揺らした暁人に、KKはハッと我に返る。やってしまったと後悔してももう遅い。堪え性の無い自分が恨めしい。
「な、なに?」
「いや、目に入りそうだったからよ…。悪い」
とっさに誤魔化してみるが、暁人の視線を見返せない。先程までとは違う、冷たい汗が背に滲んだ。煮詰まるばかりの感情と、あの夜の二人で一体だった感覚の記憶が、暁人との距離を図り難くさせる。誰よりも近くに居たいのに、その衝動の所為で遠ざかる事になるなんて、本末転倒もいいところだ。
「も、もう!KKはすぐそうやって手とか袖で拭くんだから!汚れるだろ、KKの分もタオルあるから、ほら!」
ずい、と瞬く間にバックから引き出したタオルを押し付けられる。大人しく受け取って、厄介な熱気を払おうとKKは顔をぞんざいに拭う。けれど、そうして視界を遮断したからだろうか。次の瞬間、ぽつりと零された呟きを、KKの耳は拾ってしまった。
「…別に、KKになら…触られるの、嫌じゃないけどさ」
隠した視線を、もう一度暁人へ戻す。俯き、半ばタオルで覆われた頬は、ほんのりと赤味を帯びていて。
それは、季節の熱気の所為なのか、それとも――
ついさっきの反省も後悔も忘れて、KKは暁人の手をぐいと引いた。驚きに開かれた瞳がKKを見る。頬と同じ色に染まる目元の、いつもより更に大きくなった瞳の中で、ちらちらと瞬いてくゆるのは。そこに宿る熱は。KKが抱くのと同じものだと、確かにそう見えた。
「……いいのか。お前が許すなら、俺はもっとお前に触れるぞ」
その奥深くまで、とまでは言葉にしなかったが、隠すのをやめて瞳に乗せる。きっと暁人には伝わる筈だ。今も、互いの魂の繋がりは切れてはいないのだから。
数瞬、暁人の瞳が惑う様に揺れる。逸らすのかと思ったが、その上質なべっ甲のような瞳は、ひたとKKを見つめ直した。そこには確かに、KKの身を焦がすのと同じ熱があって。
「…KKが、僕と同じ気持ちなら、いいよ」
掴んだ手に汗が滲む。二人のそれが混ざり合う。そのまま、溶け合えてしまえたらと夢想した。
KKは、抱え続けた想いを告げる。同じ言葉を囁いた暁人の唇に、湧き上がる渇望のまま喰らいつく。
互いの熱に流れ落ちるひと滴が、街灯の灯りにきらりと光った。