空でもどこでも もし自分の誕生日より特別な日があるとすれば、それは愛する人の誕生日しかないだろう。だってその人がこの世界に生まれてこなければ、付き合い始めた記念日も、プロポーズした日も、結婚記念日だって存在し得ない。記念日の悦びは、祝福する相手がいてこそ成り立つものだ。
マーヴの誕生日は二人で海外で過ごすと決めていた。旅行なんて久々で、計画する時から楽しみは膨らむばかりだった。西海岸より暖かい島に降り立てば、ゆったりと二人だけの時間を過ごし、完璧な休暇と呼べそうな幸せな日々だった。だけど一つだけ、この休暇で思い通りにいかないことが残っている。
「ブラッドリー、僕は君さえいればどこで誕生日を迎えたって幸せだよ」
そう慰めるように言って、マーヴはアームレストにのせた俺の左手に自身の右手を重ねた。
ここは旅客機の中。俺の右側では、他の乗客を案内するためフライトアテンダントが忙しなく通路を行き来している。
バースデー休暇の唯一の穴、それはマーヴの誕生日を空の上で迎えなければいけないことだった。この休暇の最終日こそがマーヴの誕生日なのだ。しかも動き続ける機内で、どこの標準時を採用するのか? それも一つの問題だった。結局はマーヴの提案で、母国の太平洋標準時を採用して誕生日を迎えることになった。サンディエゴの二人の家がマーヴの誕生日を迎える頃、俺は広い座席を分けるパーテーションを越えてマーヴを祝福する。
「それに、雲の上で誕生日を迎えるなんて僕たちらしいじゃないか」
たしかにアビエイターらしいけど、これは旅客機だし、座っているのも操縦席じゃない。それなら俺は地上でもう少し豪華に祝いたかった。俺の内心を察してマーヴは小さく笑った。そして俺の薬指の指輪を弄りながら慰めの言葉を続ける。
「僕は上空ならどこでも心地良いよ」
「マーヴ……ほんと優しいんだね」
「本気で言っているんだよ」
「でもこの席からじゃ景色が見えないよ」
「そりゃあ、君が僕と隣り合って座りたがったからだろう? 窓際には一人用のシートしかないからって」
おっしゃる通り。だけどマーヴは少しも気にしていない様子で、俺の指輪に軽くキスをした。
「ブラッドショー様、離陸前のお飲み物はいかがですか?」
一人の乗務員がマーヴの隣の通路で立ち止まった。手にのせたトレーにはグラスに入ったシャンパンとオレンジジュース。
「どうする、ブラッド?」
「ん〜……シャンパンをもらえますか」
「それじゃあ僕も」
乗客員はにこやかにシャンパンを二杯、マーヴに手渡した。マーヴはグラスを受け取って礼を言い、一つを俺にまわした。
「ほら、ここでもシャンパンを飲みながら優雅に過ごせるじゃないか。素晴らしい誕生日だよ」
マーヴは自分のグラスをこちらに傾けた。俺は自分のグラスの縁を軽くマーヴのグラスにぶつけて応えた。二人同時にシャンパンに口をつけ、顔を見合わせる。
「うん、これはこれでいいかも」
「だろう?」
マーヴは得意げに笑い、ミニテーブルにグラスを置いた。二人の真横では続々と乗客が通り過ぎていく。離陸まではまだ時間がかかりそうだ。
「ブラッドリー、そこまで悔やむからには今の家の時間は把握しているんだろうね?」
「えっと、ちょっと待って……」
スマートフォンを取り出し時計アプリを開くと、マーヴはわざとらしく心配そうな表情で俺を覗き込んだ。
「なんだか僕の誕生日は忘れられてしまいそうだな」
「もう、大丈夫だって。あと何時間かはあるよ、俺を信じて」
誕生日がこの休暇のメインイベントなのに、忘れるなんてありえない。マーヴだってわかってるくせに。
いつの間にか通路を通り過ぎる乗客の数がまばらになっていた。客室乗務員は荷物入れのドアを閉め、乗客のシートベルトを確認して回る。前方のシートからはシャンパンとオレンジジュースのグラスが回収された。そろそろ飛び立つ準備に入るらしい。
マーヴは一瞬、鼻歌を歌った。俺と目が合うと照れたようにはにかみ、俺のシートベルトを確認した。
「心配なら僕の手を握るか?」
サービスのシャンパンは酔うほどの量は注がれていないのに、マーヴは浮ついた声で俺に話しかけた。
「マーヴ、ずいぶんご機嫌だね。マーヴこそ他人に操縦を任せちゃって大丈夫?」
「君こそ僕に操縦させたくないだろ、だったら君が操縦したらどうだ?」
「俺はやだよ、F-18でいい」
二人して真剣に冗談をぶつけ合う。マーヴはまた一瞬、気分良く鼻歌を歌った。さっきと同じ曲の同じフレーズ。
「やっぱり飛び立つ前の時間は格別にわくわくするね」
「たしかにするけど、次に陸に降りる時にはもう休暇も終わってるんだよ」
まさかマーヴは早く仕事に戻りたいの? 機内の空気を吸ったら、操縦桿が恋しくなった?
「俺は帰るなんて嫌だね」
「でもこの中にずっとはいられないんだぞ」
「わかってるし……」
子どもじゃないんだから、それくらいの聞き分けはある。帰りたくなくても帰るのが、大人というものだ。
マーヴは満面の笑みを浮かべたまま、機内の放送を聞いたり目の前のモニターを見つめて最後の非日常を楽しんでいた。まあ、厳密に言えば空を飛ぶことこそがマーヴ(と俺)の日常で、離陸許可を待つ時間も二人にとってはもはやその一部だ。だけどもっと厳密に言うなら、旅客機の乗客になることは休暇でなければありえない。だったらこれは非日常と呼んだっていいはず。二人が望んだ、優雅な休暇の最後の一コマ。
帰りの便は定刻より少し遅れて出発した。しかしマーヴの誕生日を祝う場所に変更はなかった。機体はあっという間に雲の上まで駆け上がり、高度が安定するとシートベルトサインが消えた。見るとマーヴはすでにヘッドホンをつけ、リモコンを握って帰りのお供になる映画を物色している。あっそう、もうそれぞれの時間を過ごすわけね。なら俺も何か観るもの探そうかな。とはいえ西海岸が24時ちょうどを指す瞬間を逃すわけにはいかない。そう考えると新しい映画に集中できる気がせず、結局行きの機内で観たのと同じ映画を再生することにした。普段なら必ずドリンクとスナックを用意するところだが、そんなことすらも頭からすっかり抜け落ちていた。太平洋標準時が今何時なのか、それより大切なことはこの瞬間には存在しなかった。
やがて機内は消灯時間になり、周囲を見渡してもモニターが点灯していたり読書灯の明かりが漏れている座席は少なくなっていた。多くの乗客がシートを倒し、ブランケットをかぶり眠っている。マーヴと俺とを隔てるパーテーションは開けたままで、マーヴが観ているモニターの光はこちらまで届いている。身を起こして隣を覗くと、マーヴはちゃんと起きて映画を観ていた。マーヴはちらりと俺を見やって微笑んだ。もうすぐ日付が変わる。
そしてその時がやってきた。時計アプリのサンディエゴの時間が24時00分になった時、俺はスマートフォンを閉じ、しばらく前から無音にしていたヘッドホンを外した。それからマーヴの席に軽く身を乗り出した。気がついたマーヴは俺の表情を読み、ようやくその時が来たことを察してヘッドホンを外した。
「マーヴ、誕生日おめでとう」
俺と同じように身を起こしたマーヴは嬉しそうに笑い、俺にキスをした。
「ありがとう、ブラッドリー」
指輪をはめたマーヴの手が俺の頬に優しく触れた。
「ほらね、忘れなかったでしょ」
俺は頬に触れる温かい彼の手を取り、その甲に軽くキスを落とした。
「マーヴ、生まれてきてくれてありがとう」
こんな台詞、エンジンの轟音が響く機内で話すものではないのかもしれないが、これが言いたくてずっと待っていた。マーヴは俺の声に耳を傾けながら、目でも俺の唇を読んでいた。
「君が僕を生かしてくれているんだよ」
マーヴは微かに首を横に振り、エンジン音にかき消されそうな声で答えた。
「こんなに歳をとった僕の誕生日を、君だけが特別なものにしてくれる」
それからマーヴの唇が俺の頬に優しく触れた。
「“歳をとった”って……マーヴ、何歳になったの?」
「言わなきゃダメか?」
「ううん、知ってるからいい」
思わず笑うと、マーヴは困ったように眉を下げた。
「きっと君はどこにいようと、僕を祝福し損ねることはないんだろうね」
「当たり前でしょ? 世界で一番大切な人の、一年で一番大切な日なんだから」
文字通り自分がどこにいようと、俺はマーヴを一番に祝う人間になり続ける。永久に歳をとることがなくなっても、この世界に存在したことを思い出すため、マーヴに“おめでとう”を伝え続ける。……うん、先走りすぎたな。その日が来るのはまだまだ先だ。どうも誕生日という日は、幸せなだけじゃなく感傷的にもなってしまうみたいだ。
「ワインでも飲む? 夫が誕生日なんだって言えば、たぶん最高級品を出してくれるかも」
それから二人はささやかなバースデーパーティーを開いた。周囲は寝静まり、窓の外も真っ暗で、とうとう起きているのは俺とマーヴだけだった。まるで貸切みたいな機内で、他愛無い話や休暇の思い出話で笑い合った。しばらくすると二人揃って眠気に意識を奪われかけ、あくびをした後おやすみのキスをした。眠りに落ちる前、俺はもう一度マーヴに祝福の言葉をかけたが、たぶんその声はエンジンの音に紛れて届かなかった。
空港に着いたのは夜中だった。もしかすると明け方と呼ぶ人もいるかもしれない。到着ロビーに出た客は皆一様に疲れた表情で、夜が明けるのをその場で待つか、タクシーや迎えを呼んでいた。大きなスーツケースを押しながら、マーヴは立ち止まって俺を振り返った。
「よし、帰るかブラッドリー」
マーヴは同じ姿勢で固まった身体をほぐしながら周囲を見渡し、駐車場への出口を探した。
「待って、帰る前にトイレ行ってくる」
「了解」
自分のスーツケースをマーヴに預け、足早にその場を離れた。
しばらくして戻ると、マーヴは館内のマップをじっと見つめていた。
「お待たせ」
「ああ、おかえり。小腹空かないか? すぐ向こうに二十四時間営業の──」
振り返ったマーヴは、俺の手に握られた物を目にして言葉を詰まらせた。美しく重なる赤い花びらと、微かに漂う妖艶な香り。マーヴは目を素早く瞬かせ、続くはずの言葉を探して薄く口を開いた。
「誕生日おめでとう、マーヴ」
「……あ、ありがとう……」
マーヴは小さな声で答え、バラのブーケを受け取った。ここが地上で良かった。機内だったらエンジン音にかき消されていたかも。
「こんな時間に開いている花屋があるんだね」
「うん、そうみたい。花はまだ色々残ってたから、一番綺麗なやつにしてみた」
本当は、休暇の二日目にはこうすることを決めていた。もはや夜中なのか明け方なのか誰にもわからない時間になってしまったが、とにかくどんな時間にも営業している花屋があることも当然知っていた。花屋からマーヴの元へ戻る間、ブーケを後ろ手に隠して大切な人を出迎える人々を横目に、彼らと同じような胸の高鳴りを感じていた。マーヴは花束を覗き込み、息を漏らして笑った。
「……うん、きっとこれが一番綺麗だね」
そしてマーヴは軽く息を吸い込んでバラの香りを胸にため、ブーケを持つ手を俺の首へと回した。
「君のおかげで最高の誕生日だ」
「……それ、去年も言ってた」
「毎年更新してるんだよ」
俺とマーヴは同時に笑い出し、唇を重ねた。そのままマーヴの踵が浮き上がるほど、強く彼を抱きしめた。
もっと良い誕生日の過ごし方はたしかにある。透き通るの水面が輝く楽園でその日を迎えたかったが、この世には望み通りにいかないこともある。だけど、それを嘆いて終わりじゃない。マーヴの特別な日はどこにいたって必ずやってくる。その時にマーヴの一番近くにいて、一番初めにマーヴを祝福できるのは? そうだ、俺しかいない。どんな方法でも、マーヴに“おめでとう”が言えたら成功だ。
「……俺お腹空いちゃった」
「僕もだよ」
「食べる所があるんだよね?」
「ああ、あっちにね」
「スーツケース貸して、二つとも。バックパックもおろしていいよ」
マーヴはバラのブーケだけを照れくさそうに抱え、真夜中のカフェテリアへ歩き始めた。
誕生日おめでとう、マーヴ。また二人一緒の一年が始まるね。