人殺し____オレ、生まれて初めてアイクに会った時。あ、天使がいる。って思ったんだ。
ちょうど沈んでいく途中の西日がお前の背後から差し込んで、まるで日光に照らされたステンドグラスみたいにアイクの髪がきらきら光ってて。
よろしく。ってその右の手のひらが差し出された瞬間、オレは、この人に救われるんだっていう強い確信を持った。
でも実際、アイクの手を握ると、そこには確かにぬるい温度があった。
ほっとするような暖かさじゃなくて、ゆっくりと夢から覚まされるような少し冷たいぬるさ。
その温度を感じて初めて、オレは自分が覚えた感覚が白昼夢のそれだってことに気が付いたんだ。
そんな出会いから一年近く時間が過ぎて、ミスタとアイクはお互いにはっきり友人だと言い切れる関係になった。
少し度の過ぎた友愛と、執着に似た粘ついた感情をスプーンでぐちゃぐちゃかき混ぜて、そっと匙を持ち上げた時に引く液体の糸。
それが、二人のことをがんじがらめに繋いでいる。
「ミスタ、どうしたの?」
ミスタは今、システム・キッチンの戸の内側にしまってあったシェフナイフを持っていた。
もっと言えば、眠っていたアイクにその刃先を向けている。
ゆるやかな眠りから寝室のドアの開く音で目を覚ましたアイクは、おそらく、少々目を見開いてミスタのことを見つめた。
というのも、日光は上体を起こしたアイクの右側から差し込んでおり、彼の左側のベッドサイドに立っているミスタには逆光で彼の表情が確認できなかった。
だから、ミスタはアイクの声音をおしはかって、その動揺の色を眺めて、彼の表情を推察するほかなかった。
何も履いていない足の裏が汗で粘ついている。
居心地の悪さからミスタが少しその位置をずらせば、ざらついた砂利が皮膚に擦れた。
小さく眉を顰める。それから、発声。
「どうしたのって?」
言外に不快感を滲ませた声。
ゆるく壁紙を振動させたその低く掠れた声は、二人の間のぬるいフローリングにそっと落下した。
「その包丁。僕のなんだけど」
白魚のような手。人差し指がミスタの手元を指した。
「あぁ、ごめん。借りるから」
決定事項を喉から押し出すみたいに言葉にする。
ミスタは今日、ここで、アイクのことを殺してしまおうと思っていた。
きっと遮二無二抵抗されるだろうけど、日がな机に向かっている彼よりは、探偵業であちこちを飛び回っているミスタの方が体力で勝る。
暴れられれば傷をつけることになって、彼はすぐに死ねずに苦しむかもしれない。
でも自分がアイクのビスクドールみたいな顔を苦痛に歪ませるんだと思うと、少し気分がよかった。
神聖なものを引きずり堕とすことに対する、精神的な興奮。
あぁ、オレがアイクを殺すんだよ。
神様、見てる? あなたのしもべを、今からオレが殺すんだ。
ミスタが今日この結論に至ったのには訳があった。
それもこれも、アイクが悪いのだ。
アイクが、オレのことを殺そうとするから。
以前、ミスタが頭の病院で心理検査を受けた時。
詳しい言い分がなんだったかはミスタ自身よく記憶していないけれど、随分な医者に当たってしまって、かなりひどくこき下ろされたことがある。
青少年期における人格の形成に著しい問題があって、分裂と欠如を起こしているだとか。
思い込みが激しいくせ視野狭窄のきらいがあるから、他人にアドバイスを受けたりカウンセリングを利用したりしてもそう改善が見込めないだとか。
しまいには、得てして妄想は自覚や自己改善が困難で、薬物治療が主流であるのに、本人が薬物治療に協力的でない(これはミスタが自分は病気なんかじゃないと考えていたことに起因する)ため、もう私にはお手上げです。なんてことすら言われた。
そこをなんとかしようと手を尽くして頑張るのがお医者サマのお仕事なんじゃないの。
仮にもこっちは客なのにさ。
その頃、かなり精神の具合が悪かったミスタには、不眠・抑うつ・躁・幻覚・妄想・離人症・解離性健忘・解離性同一障害なんかの症状が出ていた。
マァ言ってしまえば役満である。
統合失調症なのか、双極性障害なのか、パーソナリティ障害なのか、解離性障害なのか、それともその複数か。
行く先々で診断名が二転三転し、それに伴って医者の対応も処方箋もコロコロ変わるもんだから、ミスタはうんざりして、現状にほとほと疲れ切ってしまった。
何日もベッドに横たわって、人とも会わずに朝も夜も関係ないような生活を送っていると、不意に頭の中で声がするのだ。
ぐわんぐわんと奇妙に歪められたやまびこのような声が、何重にもなって何事かを呟いている。
それがあまりにもうるさくて眠れないから、ミスタはよく薬を飲んだ。
処方薬とか、市販薬とか、そこらのクラブや路地裏で出回っているのとか。
朝起きたらベッドサイドにストックしてある通販で頼んだ安いウィスキーやウォッカで適当な錠剤を流し込んで、体をシーツに沈める。
そうして力を抜いて横になっていれば徐々に脳髄がぼやけていって、体が重くなったり、軽くなったり、熱くなったり、ひどく冷えたりする。
閉じた目の裏で部屋が綺麗にパッキングされたり、薄く皮膚を抜けて差し込んでくる光がエンジェル・リングみたいに大層うつくしく輝いたりする。
そんな生活を送っていれば健康さなどどんどんすり減っていくもので、ついにある日バッドトリップを起こしたミスタは、寝室でしっちゃかめっちゃかに暴れまわり、隣の部屋の住人に警察と救急車を呼ばれた。
バカの薬の飲み方をしていたために血液検査でバグみたいな値が出て、内科を併設している病院の精神科に医療保護入院。
体の方の病名は急性薬物中毒と薬剤性肝障害の混合(肝細胞障害型・胆汁うっ滞型の混合の意)型。
頭の方は、その時幻聴が顕著に出ていたため統合失調症と解離性同一性障害の診断がついた。
いやに清潔な閉鎖病棟。そこでの管理区分が施錠から始まったミスタは、入院してから二週間経ってようやく、病棟内での自由行動が認められた。
断薬の禁断症状が和らぎ始めたためである。
そして、恐る恐る訪れた薄く薬品の匂いが漂う共同スペースで、初めて会った青年がアイクだった。
ミスタより一ヶ月早くこの病棟に入院していたアイクは、ミスタにいろんなことを教えてくれた。
入浴のルールだとか、少し贅沢な食事が出る曜日だとか、感じの悪い厳しいナースの名前、逆に対応がやわらかだったり甘かったりするナースの名前、看護師の交代の仕組みに、病棟内の人間関係、暗黙のルール、それから、自分のこと。
いわく彼は作家で、物語のキーになる描写を書く上で、違法薬物を服用した時の様子がどうしても必要だったと。
リアルな感覚を知るために自分で試してみたら、量を間違えてしまったらしくいつの間にか運ばれてここにいたのだそうだ。
ミスタはこうなってからあまり本を手に取ることがなかったので彼の名前を知らなかったけれど、そこそこ名の売れた文豪だという。
売店に宛てて書類を書けば書籍類は取り寄せが可能だと教えてもらったので、ミスタはその日のうちに看護師から所定の紙をもらってアイクの代表作の名前を書いた。
しかし一週間ほど経って届いた小説はかなり難解で、どうも目が滑ってしまってうまく読めなかったから、ミスタは正直にそれを伝えて裏表紙にサインだけ書いてもらった。
アイクは嫌な顔ひとつせず、さらさらとブルーブラックのボールペンでサインを書いてくれた。
ミスタはその様子を見て、なるほど作家というのは本当なんだな、とそこで初めて実感した訳である。
ハードカバーのサイン本は、退院してしばらく経った今もミスタの家の本棚にしまってある。
落ち着いてからなんとか一度は終いまで読んでみた。
しかしミスタにも技巧の凝らされた非常に上等な文章だということはわかったけれど、ついぞ完璧に理解ができた気はしなかった。
話は戻って。入院から数ヶ月の間、ミスタは閉鎖病棟での生活を粛々とこなした。
夜中に病棟内を徘徊する老人があちこちの扉を叩いて回るのも。
週に一度は看護師の対応に不満を持った患者がキレて暴れ回るのも。
明らかに入院費には見合わない吐瀉物みたいな病院食も。
精神薬は処方しないと言い切った医師が真っ赤な嘘をついているのも。
全部見ないふりをした。
体に錆がくるんじゃないかってくらい退屈な日々。
けれど、アイクさえいれば、それも大して苦にはならなかった。
騒音で寝付けなくなったと言って共同スペースのソファでおしゃべりをしたり。
聞くに堪えない怒鳴り声の影でこっそり目配せをして肩をすくめ合ったり。
売店から購入したお菓子を口直しに分け合って食べたり。
陰で医者の不平不満を言って盛り上がったり。
なんだかティーンの学生に戻ったみたいな日々だった。
周囲の環境の異常さと、酷く密接した関係性が一層それを助長していた。
保護入院から任意入院に切り替わってからは、一時間の外出で近くのコンビニに通販で配達するよう頼んでいた薬を受け取って、二人で飲んでから病院に帰ってみたり、小遣い稼ぎにタバコの密輸入をしてみたり、まぁそれなりに自由で気楽な生活を送った。
任意入院が始まって数週間後。
ミスタは入院時のトラブルでアパートメントを追い出されたから、担当になった生活相談員に勧められるままグループホームに入居することを決めた。
アイクは退院後は元の住まいに戻るらしかった。
物置にしている部屋があるから僕の家に来たら? とも誘われたけれど、医者や生活相談員がいい顔をしないだろうなと思ったので、名残惜しくも断った。
君たちはやや共依存関係に陥っているみたいだから、これから社会生活を送っていくつもりがあるなら彼とは距離を置きなさい、とオブラートに包んで再三言われていたからである。
その時はまだ、すっぱり彼と関係を断ってしまう道も十分に考えることができた。
側にアイクのいない未来が見えていた。
けれども。
入居予定のグループホームや、障がい者の社会復帰のための作業所に見学に行ったり、実際に外泊をしてみたりするうちに、ミスタにはアイクと離れるということが考えられなくなった。
ふとした時に、アイクの声を、表情を、彼が纏うその香りを思い出すのだ。
そうして、あの閉鎖病棟での羊水の日々がフラッシュバックする。
今まで感じたことのないような強烈な郷愁の念が脳味噌の皺の一本一本までをも満たして、全てを投げ出し彼に走って会いに行きたくなってしまうのだ。
外泊を終えて病棟に帰ってきた時、あたたかい慈母の微笑みをたたえて、一言、おかえりとアイクが言うのを見ると、酷くたまらない気持ちになった。
思わず涙をこぼしてしまったことさえあった。
しかし一度グループホームへの入居を決めてしまったのに、手続きが始まってから発言を取り消すのは難しく、結局ミスタは退院後アイクと別れることとなった。
そうと決まってしまってからは、アイクと互いに示し合わせ、退院の日を一日違いに組んで、ミスタは朝起きてからベッドに入る直前まで、アイクと共に生活した。
おはようからおやすみまで、入浴の時ですら同じ時間に。
一種病的なものを感じさせる執着であった。
そんな蜜月の日々も、二週間も経てば終わりを告げた。
アイクは予定通りに、ミスタより一日早く病院を去ることとなった。
他の患者や看護師が、退院おめでとう、だとか、元気でね、だとか、適当な言葉でアイクのことを見送る中、ミスタだけが本心で彼との別れを惜しんでいた。
魂の一部を取っていかれるような喪失感。
今彼のキャリーバッグを壊したり、彼のことを殴ったり、彼の医者に泣き縋ったりすれば、アイクと一緒にいられる時間は伸びるんだろうか。
そんな馬鹿なことを考えすらした。
しかし当然ながらそんなことはなく、ミスタには、彼のことをぎゅうときつく抱きしめて、また会おうねと涙交じりの声で伝えるしかできなかった。
その時のアイクの潤んだ琥珀の瞳の様子が、ミスタの脳裏には今も鮮明に焼き付いている。
眉尻の下がった、泣き出しそうな笑顔。どこか宗教画の雰囲気を持った微笑み。
売店に売っている、ミスタが使っているのと同じ洗剤の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、十数秒も経っただろうか、ようやくミスタは彼を離してやることができた。
厚い扉が完全に閉まってしまうその瞬間まで、ミスタはずっとアイクのことを見つめていた。
彼の一挙一動を網膜に焼き付けていた。
まるで今生の別れとも言わんばかりの仕草である。
それほどまでに、この入院生活の数ヶ月間でミスタはアイクに依存していた。
その日の夕食はいつにも増して味がなくて、ミスタは砂の食感がする食品サンプルを食べているみたいだと思った。
軽い解離が起きていたのか、その後のことはあまり覚えていない。
ただ言われるがままに荷造りをして、言われるがまま書類にサインをして、入院費を払い、病院を出た。多分、そうなのだと思う。
数ヶ月ぶりに晴れて自由の身になったというのに、その実感は全くと言っていいほど湧かない。
逆に心臓をぐるぐると鎖で巻かれているような、えも言われぬ閉塞感が感覚を支配していた。
生活相談員と施設の職員に伴われてグループホームについてから一言目、ミスタは公衆電話の場所を聞いた。
長い入院生活の間携帯料金の支払いが滞っていたために、スマートフォンの電話機能が使えないのである。
彼らが一通りの説明を終えてようやく一人になった。
その途端、教えられた公衆電話の元へ向かい、急いでミスタはアイクへ電話をかけた。
一コール、二コール、三コール。
ややあって少しこもったアイクの声が鼓膜を揺らした瞬間、ミスタはようやく呼吸をすることができた。
それから世間話も手短に会う約束を取り付けて、受話器を置いて、電話の前でへたり込む。
そこで初めてミスタは、あぁ、もうオレはアイクなしじゃ生きていけないんだと気付いたわけである。
アイクと何度か会ううちに、二人はより親密な関係になった。
何度か体を繋げることもあった。
それでもなんでだか恋人になろうと言い出す気にはなれなくて、ミスタとアイクは未だ歪な友人関係にある。
ミスタが彼に抱いている感情は恋慕というより崇拝に近く、カップルなんていう俗な関係に彼を押し込めてしまうのは酷く失礼なことのような気がした。
生まれて初めて、ミスタは友人の上位が恋人ではないことを知った。啓蒙にも似た気付きだった。
ベッドの中で、アイクはミスタに向かっていつも同じ話をする。
ミスタ、君は精神が参ってしまって、今おかしくなっているんだよ。
僕が君のことをまともに戻してあげるから。
たとえこれから頭の中でどんな声が聞こえても、決して返事をしちゃあいけないよ。
決して真剣に取りあっちゃあいけないよ。
そう言ってその細く滑らかな指でミスタの髪を愛おしげにすくのだ。
その感触に意識を向けると、なんだか脳がぼやけてきて、ミスタは酷く幸せな気分になる。
ヘロインを静脈に打ち込んだ時みたいに、全身が薄く倦怠感に包まれて、多幸感が脳髄をノックするのだ。
けれど、少し経ってから思い出すと、決まって強い違和感に苛まれる。
アイクはオレのことをすっかり洗脳してしまうつもりなんじゃないか。
アイクなしじゃ生きていけないよう、依存させようとしているんじゃないか。
頭が冷えて、そう認識できるようになる。
ひょっとしたら食べ物や飲み物に、チャイナホワイトか何かを混ぜ込んでいるのかもしれない。
あれは錠剤や粉末でも出回っているから、十分に可能性がある。
そんな疑念さえ抱くほどに、アイクの言葉はどこまでも甘美で、酷い中毒性をたたえていた。
アイクはアイツのことを消そうとしている。
そんなことが一ヶ月も続けば、ミスタは十分に察することができた。
アイクは、彼の、リアスのことを消してしまおうとしている。
ミスタの脳内に同居している、魂の片割れ。
解離性同一障害のおかげで生まれた、もう一つの人格を。
_____リアスは、オレのことを助けてくれるんだ。
あのね。オレは神様に使命を与えられてるんだよ。
この俗世がすっかり汚れちまったもんだから、その要因をなくすために、主はオレを遣わしたの。
それに薄々気付いてるから、周りの奴らは俺が来ると咳払いしたり、口元に手を持っていったりして合図を取り合ってるんだ。
オレの言ってること分かる? 分かるよな。
先生ならオレの言うことの全部を理解できるって、そう思ったから打ち明けてるんだ。
信じてくれよ、声が聞こえるんだ。
ああ、リアスがいるのもそのためで。
オレが良心やらなんやらで躊躇してる時、助言や手助けをしてくれるわけ。
そういうこと。だからオレは病気なんかじゃない。薬もいらない。
(第二回カウンセリング記録より、一部抜粋。原文ママ)
そうして、退院してから二ヶ月が経った時。ミスタは不意に気付きを得た。
……あ。オレはアイクを殺さなきゃいけない。
神様がオレにくれたリアスを殺そうとするアイクは、オレが殺さなくちゃいけないんだ。
そうと分かってからは、早かった。
新しくメンタルクリニックに通って強い睡眠薬を処方してもらい、筋弛緩剤は通販で購入した。
どうすればいいかは全部リアスが教えてくれた。
アイクが気をゆるませる瞬間も、薬を盛る日も、凶器も、人間の刺し方も。
この役目をきちんと果たせるなら、そのあとどうなっったって構わなかった。
僅かに震える手で、刃を上に向けて、持ち手をタオルで巻いた包丁を強く握る。
刺した反動で手が傷つくのを危惧してのことだ。
ミスタは薄暗いアイクの瞳をじっと見据えて口を開く。
彼の長いまつ毛が目元に影を落としているのが見えた。
「アイクは死ななきゃいけないんだよ。神様がそう言ってるの。オレには分かるんだ」
「そういう声に耳を貸しちゃいけないって言ったよね」
少し早まったアイクの息が部屋に篭った空気を揺らす。
「リアスのことを消そうとしてるでしょ。ダメだよ、そんなことしちゃあ」
オレが神様に頼まれたことを果たすために必要な存在なんだ。
今もミスタの耳には輪郭をはっきりと持った彼の声が聞こえていた。
耳を貸す必要はない。刺せ。
脳が揺れる。確信が温度を持っている。
不意にアイクが呼吸だけでゆるやかに笑った。
「綺麗な瞳だね、ミスタ」
みぃん、みーーん、と薄い蝉の鳴き声が窓ガラスを揺らし始める。
奇妙に歪んだ、その耳鳴りにも似た音を聞いて、ミスタはなんだか泣き出したくなった。
「僕よりその男の方が素敵なの?」
ほとんど動かないアイクの指先がぴくんと痙攣する。
その僅かな動きを見た瞬間、ミスタの口内は干からびたように乾いた。
粘っこい少量の唾液が気味悪く舌に絡まる。
「ボカァ、君にじゅうぶん優しくしてきてやったよね。
君が幻聴に苛まれてどんなに暴れても、薬を打ちたくて僕のことを殴ったり蹴ったりしても、ずうっと優しくしていたよね」
限界まで弛緩した筋肉のせいで、首の座っていない赤子のような仕草でアイクは首を傾げた。
聞くな、殺せ、ひと突きだ、皆殺しだ、執行だ。
蝉の声と同じトーンでリアスがわんわん叫ぶ。
アイクの語尾が滲む。
奇妙なマーブルが形成され、その色が舌の根っこを舐めている。
「殺すんだ、ひと突きだよ、腹を刺して、ねじるんだ」
「かわいいなあぁ、ミスタ。奴隷みたいに、ペットみたいに、そいつの言うことを聞いてやっているんだね」
主人は君なのに。
違う。だって、手助けをしてくれるんだ。だって、だって。
誰に聞かせるでもないのに何度もミスタは言い訳をする。
日に透けるアイクの髪がきらきらと輝いていた。
残酷なまでに美しい輝き・聖歌の輝き。
声を上げて泣いてしまいたかった。
誰かに縋りたい。
神様、神様。御母の胸に、我らの父の御許に縋りついて、幼子のように泣きわめきたかった。
「ねぇ分かっている? 全てが妄想なんだよ」
ひ、とミスタの唇の間から、高い呼吸の音がこぼれ落ちる。
「お前はただの気違いで、精神異常者で、脳みそがダメになってしまっているから、神様の声なんかが聞こえるわけ」
治療計画書に記されたゴシック体の文字が脳内にずっとこびりついている。
統合失調症。解離性同一障害。
「本当はミスタはずっと一人なんだ。ジャンヌダルクと一緒。
聖人を気取った気狂い。脳に異常を持った不具者」
ストレスで心臓がばくばくとバグみたいに脈打っていた。全力疾走のテンポ。
酸素不足のせいでゆっくりと視界が黒に食まれていく。
「こっちにおいで。ナイフはサイドボードに置いて、ベッドの上に。」
拒絶から筋肉が硬直するより早く、ミスタは一歩を踏み出していた。
ガランとゆるんだ手のひらから包丁が落下する。
乗り上げるようにしてシーツをつかみ、体をベッドの上に。
身じろぎみたいに僅かに近付いたアイクが、ミスタの額にコツンと自分のおでこを合わせる。
「いい子だね。可哀想なミスタ、無理をしなくていいんだよ」
触れている皮膚から伝わってくる声の振動がミスタの脳みそを包み込んだ。
何度愛の言葉を吐いたって足りない、強烈な思慕の念が思考を支配する。
がくがくと膝が震えて、指先が震えて、横隔膜が痙攣するのが分かった。
「っ、ぐ……ゥ」
眩暈がするほどの激しい吐き気。
舌の根元を胃酸が焼いている。
緊張を和らげるためにさっき飲んだ精神薬の、かすかな苦味とケミカルな甘みが、酸性の刺激と共に味蕾を震わせる。
「、う……ッ」
コパ、と喉の奥が開く音。
数コンマの後、聞くに堪えない水音と共に清潔なシーツへ吐瀉物がぶちまけられる。
生理的な涙で滲む視界、落とした視線の先の吐物に、ミスタはスカイブルーを幻視した。
アイツの、リアスの瞳の色。
あ。死んだ。
唐突な気付きが思考をジャックする。
オレの、オレのリアスが死んでしまった。
酷く狂った頭の中から、彼はいなくなってしまった。
酸っぱい臭いを発する吐物へ、ほたほたと大粒の涙が落下していく。
オレはとうとう真実ひとりになってしまったんだ。
虫食いみたいに穴の空いたジェンガの塔。
それを支える一本が今、アイクの手によって抜き取られた。
「オレ、おれは……」
しゃくりあげるようなミスタの小さい嗚咽が、滑らかなシーツに染み込んだ。
震える両手をきつく組んで、手の甲に黒檀の爪が刺さって血が滲むまで強く力を込めて、瓦解してゆく精神をなんとか繋ぎ止める。
「可哀想で、かわいいミスタ。きっと僕が救ってあげるからね」
壊れかけのぬいぐるみを無理矢理にかがり縫いして、なんとかその形を保たせる。
そういう声音。
「きっと僕は君より長生きするよ。一秒だってミスタを一人にしない」
窓から差し込む光でアイクの輪郭が縁取られている。
あぁ、救われるってこういうことね。ミスタは思った。
こんなにも待ち望んでいたことなのに、ちっとも嬉しくなんてなかった。
感動よりも嫌悪が心臓を満たしていた。
奥歯でゴキブリの卵を噛み潰したみたいな気持ち。
でも、きっとオレはこの男から離れられない。
一度受容の甘美を味わってしまったからには、きっと逃げることはできない。
心身が依存しきってしまっているのだから。
薬物みたいだ、と思う。
へぶんにおいで。バイバイリアス。オレはお前より先に天国へ行くよ。
そうしてきっと死んだら地獄に落ちるんだ。
未だ酸味に塗れた唇をアイクのそれにぶつける。
ゆるんだ口唇の隙間から無理矢理に舌をねじ込んで、ヒルの交尾みたいなキスをした。
____ミスタ、知っている? 天使は悪魔とにんげんの血潮で身を洗い、そのうつくしさを保っているんだよ。