はじまりの赤(そよいと未満) 思春期特有の二次性徴と共に。あるいは、筋トレを習慣にすると決めて、メニューをひとつずつ増やすごとに。
俺の身長は面白いほどに伸びていき、折れそうに細かった身体のパーツは見栄えする形で厚みを増していった。
トレーニングでは重量のある機器を扱うから手のひらには硬さが出て、握力測定の数値の新記録をたたき出せば達成感で密やかに拳を握りしめた。
望みに見合う努力をすれば、容易く成果が表れる。そういうものだと思っていた。だからこそ、「あれがしたい」「こうなりたい」などと宣いながらちっとも変わらない連中は全員例外なく、口先だけで行動が伴わない不誠実な奴だと決めつけてかかっていた。
そうした過程で、俺は自分の傲慢さを痛感することになる。
努力の分だけ容易く欲しい身体を手に入れた俺が如何に恵まれていたのか。同じメニューを同じ回数だけこなしても、等しく同じ身体が手に入るとは限らない。そんな当たり前のことを理解していなかったのだ。
そもそも同性であっても、鍛えられた大きな体躯を望まない人だっている。仮に望んでいたとて、俺と同じメニューをこなすことが最適解とは限らない。個人差があるからこそ、努力が実を結ばないことすら珍しくないと思い知って。
本当の意味で理解したのはもしかすると、ごく最近のことなのかもしれない。
* * *
(――思ったより派手についたな)
未明に帰宅して、いの一番に上着を脱ぎ、洗面台に放り込んでから蛇口を捻る。
勢い任せで叩きつけるように吹き出した水が、じわりじわりと鮮血を浮かび上がらせていく。初めて作戦を共にした新人……もとい、オーナー代理のものだ。
「弥代衣都……ね」
有望な新人、と含みを持たせて笑む誓さんを思い出し、こういうことだったかと腹落ちした気がした。
ざざざ、と、尚もとめどない水音に耳を傾けながら考える。
単純に自己犠牲が強いだけではない。彼女はただ冷静に、あの瞬間の最適解を提示した。合理性を根拠として自らの身を差し出した、あの瞬間の凄み。たとえ倫理的に間違いだったとしても、あの瞬間だけは余計な口を挟むべきではなかっただろう。見る人から見れば傲慢で、尊大な言動。腹を括った奴が見せた度胸に応えるべく立ち回り、連携して、それから紆余曲折を経て弥代と合流した。
程なくして区切りがついてからふと見やって、静かに驚愕したのだ。
最後までマロを離さなかった弥代の手が、あまりにも小さくて。
もしかしたら昔の俺は、弥代のような人物を疎ましく感じていたかもしれない。
身の程を知れよ。体格差をもっと考えろよ。そうでも言って無謀さを説き、突き放していただろう。
けれど弥代はやり遂げた。本人としては不本意な結果だっただろうが、作戦は成功したのだ。
……笑えねえな、と独り言ちる。救出の過程で弥代を担いだ時は特段意識しなかったし……何だったら、負傷でその手が血まみれな事自体は、何とも思わなかったはずなんだが、と。世間的には冷たい反応だろうが、何しろ、仕事柄少しの流血くらいで動揺できるような性質ではなかったので。
何がともあれ、あんなにも小さな手のひらで、自分の仕事を成し遂げた代理。弥代は純粋に、凄い奴だったな、と思う。上着に付着した鮮血は、弥代が苦しみながらも役割を全うした証でもある。
だからだろう。ほんの僅か、血を洗うのが惜しいと思えた。
馬鹿らしいなと自らを鼻で笑いながら、俺は洗濯用の固形石鹸を無造作に湿りきった上着へ擦り付ける。
ざざざざ、と流れる水音が僅かにくぐもって同時に、洗面台に汲んだ水がうっすらと色づきはじめる。
叩きつけられた水音と石鹸の清廉な匂いに紛れて、弥代の血は跡形もなく消え失せた。