雨とせっけんと恋の薫り/ひめあん長い間の両片想い期間が過ぎ、先日ふとしたことで想いを伝えて晴れて恋人という関係になった。
プロデューサーことあんずはアイドルとは恋愛をしないを信条にしていたようで、周囲のアイドルのほとんどが気付いていたというのに頑なに告白はしてこなかった。彼女が見ているのはあくまで『HiMERU』なのだと、『俺』の気持ちは伝えないでいようと思っていたこともあり、ただただ周りがやきもきしていた矢先のことだった。
未だ彼女は『俺』のことを『HiMERU』だと思っている。そして彼女が好きになったのも、『俺が演じるHiMERUという側面』なんだろう。だから今は、真実を伝えるつもりはない。彼女の前では大衆同様、同い年のHiMERUくん、でいるつもりだ。
時が来たら真実を伝えて別れを告げ、彼女の前から姿を消せばいい。ただそれまでは蜂蜜のような甘美な時間に浸っていてもいいだろう。
ある雨の日の夕方。いつものように弟のお見舞いに病院に行った帰り道。一旦借りているマンションに立ち寄ろうと傘を差して歩いていると、少し遠くにジャケットを傘代わりにして小走りしているあんずが目に入った。
確かに今日は降水確率も低かった。自分も最近通り雨が多いためたまたま鞄に折り畳み傘を入れていたから運良く雨に濡れずに済んでいるだけだ。
少し離れたあんずを目で追っている間に雨足が強くなる。家に帰る途中だろうか。ここから駅まではまだ距離がある。このまま傘なしでは駅に着く頃には目も当てられないくらいびしょ濡れになってしまうだろう。
そんな姿を人前に晒すのは、恋人として見過ごすわけにはいかない。
「あんずさん!」
少し大きな声を出して呼び止めると同時に駆け出した。驚いたようにあんずは立ち止まりこちらを振り向いた。
「ひ、HiMERUくん?」
追いついて傘を差し出すと、少しは雨がマシだろう木陰へ腕を引っ張って連れて行く。
「たまたま見かけたものですから。…結構濡れているじゃありませんか。その格好で帰るつもりだったのですか?」
「だ、だって、傘忘れちゃったし…雨宿りするところもなくて」
言っている間にあんずは可愛らしいくしゃみをする。
「…この後は家へ帰るだけですか?」
「う、うん。今まで現場に同行してたんだけど、終わったから…」
濡れているスーツのジャケットを取り上げて、代わりに自分が着ていたジャケットを肩にかけてやる。
「…借りている部屋がすぐ近くにあるので、そこで雨宿りしていきませんか。そのままでは風邪をひいてしまうかもしれませんし」
「え?」
「…それに、そのまま帰られると、恋人としても見過ごせないのですよ」
トントン、と自分の胸元を指差すと、あんずも自分の胸元に目を向けてハッとして腕で胸元を隠した。濡れた白シャツの下が透けている。途端に顔を赤くして俯いたあんずは、小さく「お願いします」と呟いた。
何回かデートはしたが、家に招くのは初めてだった。家に誰かを入れることは考えていなかったため、事前準備など当然出来ておらず『HiMERUらしさ』を再現した部屋にはなっていない。最低限の生活が出来ればいい殺風景な部屋だ。
「ひとまずシャワーでも浴びてください。服は近くのランドリーで乾燥機にかけますので。代わりに俺の服を貸し出します」
「拭いて着替えるだけで大丈夫だよ?」
「雨で冷えたでしょう。風邪をひかれては困りますし、念の為ですよ」
タオルと適当なTシャツと、ウエストがゴムのものならなんとか履けるだろうと、要が玲明学園で着ていた学校のジャージを引っ張り出した。
浴室のドアを閉めると、濡れた衣服を持ってコインランドリーに向かう。上がったらリビングで待っているように、何かあったらすぐ連絡するようにと伝えた。
乾燥を待っている間に部屋をなんとかするために買い出しに行きたかったが、あいにく近くにはコンビニとドラッグストアくらいしかないし、今からどうこうしようと思っても無駄な足掻きだろう。
といっても今後万が一のことを考え、ドラッグストアに立ち寄り諸々と食糧を買ってランドリーに戻り、乾いた服を回収して家に戻った。
時間にすると40分程度だっただろうか。自室へ戻ると大きめの自分の服を着たあんずに出迎えられて、あまりの麗しさに一瞬くらりとする。
所謂『彼シャツ』状態のそれは破壊力が強すぎた。よりにもよって襟が大きく開いているTシャツを渡してしまっていたらしく、襟は肩から落ちそうだしジャージは丈が長いのか数回折ってもだぼついている。仕事ではひとつに結ばれている髪も、今は降ろされていていつもとは別人のようだった。
「…あの、HiMERUくん?」
「い、いえ、なんでもありません。服、大きかったでしょうか?」
「大丈夫!HiMERUくんの服だしサイズ合わないのはしょうがないし…。あ、乾燥ありがとう。着替えたら帰ろうと思うけど…」
「ちょ、ちょっと待ってください。…せっかく来たのですから、ゆっくりしていきませんか。外はまだ雨もパラついていますし」
「そう?迷惑じゃなければ…」
「むしろ、いてほしいのですよ」
付き合いたてのカップルのような初々しさについ顔に熱が集まるが、事実なのだから仕方ない。
こんなに純粋な感情を持って接するのは久しぶりで、心の奥で失敗したくない、嫌われたくない、誤解されたくないと思考が渦巻いて行動や言動がワンテンポ遅れがちだ。
むしろ騙している方なのだから誤解は当然な上、いずれ嫌われることになるんだろうと少し先の未来を想像しては心の矛盾を抱えている。
玄関からリビングに移動して、あんずをソファに促した。とりあえず、と珈琲を淹れてソファの前のテーブルに置く。
「殺風景な部屋で申し訳ありません。たまにしか帰らないものですから」
「ううん。でも、寮に移ったのにまだ契約してるんだね?」
「……ええ。またいつ解雇するという話になるかわかりませんし」
「そんな、解雇なんてされないよ」
「だといいのですが。…それに、契約したままで良かったこともありますしね。…こうやって、あなたを招いて二人きりになることが出来た」
「…っ」
「変なことはしませんのでご心配なく。あなたのことは大切にしたいのですよ。こんな風になし崩しでなく」
顔を赤くするあんずの頭にそっと唇を寄せると、びくりと身動ぎをされた。
「……HiMERUくんってほんとに高校生?なんだかすごく色々経験してますって感じで…悔しい」
「…紛れもなく高校生ですが…。ガツガツして嫌われても嫌ですしね」
一瞬ドキリとして、張りぼての笑顔で取り繕う。
「…本当?」
「なんの疑りなのですか」
「…だって、HiMERUくんって大人っぽいし、落ち着いてるし、ミステリアスだし、モテるんだろうし…経験、いっぱいありそうだなー…って」
「…あったら、どうするんですか?」
「……えっちだなーって…思う…」
「………」
あんずの口から男心を擽る単語が聞こえて思考が停止する。煽りとも取れるその言葉に、つい意地悪をしたくなってそっと頬に手を伸ばした。
「…試してみますか?」
低めの声色で囁くと、赤みがかっていた頬が更に赤くなり、口をぱくぱくさせて肩を押し返される。
「うっ嘘!うそうそ!冗談です!ごめんなさい!こっ心の準備が…っ!」
「わかっていますよ」
抵抗して服が乱れ、Tシャツの襟が片方の肩から落ちている。下着の紐が見えないことに、その下を想像してドクンと胸が鳴る。覗く白い肌に指を這わせて肩に近い部分にそっと顔を近づけると唇を寄せ、強く吸い付くと赤い花が咲いた。
「…っ?」
そっと服を直し、訳がわからないと頭にハテナを浮かべるあんずの頬を指でそっとなぞる。
「…キスはしてもいいですか?」
「えっ?き、聞かなくても…、ど、どうぞ」
ぎゅっと目を瞑るのが可愛くてつい顔が綻んでしまう。一緒にきつく閉じた唇を指先で撫でて力を抜かせると、何度目かのキスをする。ぺろりと唇を舐めて、少し口が開いたのを見計らって舌を差し入れる。
あまりやりすぎるとこれ以上もしたくなってしまう。息が荒くなる前に唇を離し、とろんとした顔のあんずの瞳を見つめた。
「…っやっぱり…HiMERUくんは年相応じゃないと思う…」
照れ隠しなのか少しむくれるあんずの頭を抱き寄せる。
「そう思われるなら、それでも構いませんが。…今日はすみません。このような形で連れてきてしまって」
「ううん。HiMERUくんのおかげで助かったし…。あ、借りた服、洗って返すから持って帰るね」
「脱ぎっぱなしで構いませんよ。そのまま置いていってください」
「…あの、ね。シャワーから出て服着た時に、HiMERUくんの匂いでいっぱいでドキドキしたけど、安心もしたの。こうやって抱き合った時みたいに、HiMERUくんでいっぱいになっちゃって」
また男心を擽る発言をされて反応に困る。もっと自分の色に染めてやりたい気持ちと、現場のスタッフや共通の知人のアイドル——特にCrazy:Bの面々はそういったことに目敏いのでやりすぎると冷やかされるだろうなと思う。
以前少し抱きしめただけなのにその後会った椎名に「姐さんの匂いがするっす!」と言い当てられた。今日彼女が椎名と会うことがあれば自分の匂いがすると言われるのだろうかと想像して、少しの優越感に浸る。
「…変な匂いでなければいいのですか」
「ううん。なんていうか…爽やかな…お風呂上がりみたいな?」
「…そう、ですか」
「…照れてる?」
「あまり変なことを言わないでください」
「…今日、助けてくれたのがHiMERUくんで良かった。ごめんね。このあとの予定もあったかもしれないのに…」
「いえ。こちらももう寮に帰るだけでしたので」
次に二人で会う約束もなく、学校も違うため普段会う機会はそう多くない。今日偶然出会えたことは、内心とても嬉しくて心が弾んでいる。
「次はもっと過ごしやすい空間にしておきます」
「次って…」
「その時は、あんずさんも覚悟して来てくれますか?」
「へっ!?え?あ、ぅあ、は、はい…」
「…次の予定、決めてしまいませんか?あんずさんももうすぐ長期休暇でしょう?仕事が空いた時…はあまりないかもしれませんが、隙間を見つけて泊まりにきませんか」
「い、いいの?」
「ええ、もちろん」
プロデューサー業が忙しいのは重々承知の上だ。お互い突然仕事が入ったり予定が変わったりするため、日付は決め打ちせず候補日をいくつか挙げておく。
「お互い遠慮してなかなか誘わないでしょう?本当は、仕事終わりの僅かな時間でも会いたいと思っているのですよ」
「そうだよね…。でも、夜遅くなった時とかHiMERUくん事務所に顔出してくれるよね。差し入れ持って来てくれるし、ありがとうね」
「あまり遅い時間まで残っていると聞くと心配になるのですよ。それに…顔が見たい口実、といいますか」
「え」
「…お忙しいのは、承知しているのですが。顔を見るだけでもいいのでこれからは会いたい、という理由だけで連絡してもいいでしょうか」
「…うん。もちろん」
まだ付き合ってそう長くはない。元々アイドルとプロデューサーという関係で出会ったこともあり、まだまだ遠慮しているところがたくさんある。仕事で助けられている分、もっと甘えてほしいし、頼られたい。私服姿の彼女を見たこともまだ数回しかなく、自分だけに向ける顔ももっと見たいと思う。
『次』があるのがたまらなく嬉しくなってきて、つい顔が綻んでしまう。
「…次が楽しみですね。何をして過ごしましょうか?」
「…っそ、そうだよね。考えとく…ね?」
本心を言えば彼女の柔肌を楽しんでいるだけで一日過ごせそうだが、とてもそんなことは口に出来ないので心の中で留めておく。
そうしてしばらくゆっくりした後、雨も上がった様子を見計らって彼女を駅まで送り届けた。もう日も暮れかけていたが、雨上がりの街は自分の心と同じように爽やかな空気を漂わせていた。
寮の自室に帰ると、同室の嵐がすでに帰ってきていた。軽く挨拶を交わし鞄を下ろしたところで着信音が鳴り、スマホを見るとあんずからのメッセージだった。
「電話?」
「いえ、メッセージですのでお気遣いなく…あんずさ…プロデューサーからですね」
急ぎの要件だろうかと何の気なしにメッセージを開く。が、メッセージを読み終わった時には顔に熱が集まっているのがわかって、緩みそうな口元を手で覆う。
『今帰ったよ。帰るまで雨降らなかったから、念の為借りた傘も使わなくて済んでよかった。明日、傘を返すって口実で会いに行ってもいい?さっきお別れしたばっかりなのにまた顔見たくなっちゃって』
たまらずベッドにうつ伏せでダイブして枕に顔を埋める。こんな緩み切った顔を嵐に見られるわけにはいかない。
「きゃっ どうしたのHiMERUくん?…何かいいことでもあった?」
それでも着信音が鳴ったのは嵐も知っているので、こんな状態になったのは先ほどの着信のせいだろうと気づかれるのは容易かった。
「……なんでもないのです。こちらはお気になさらず」
枕に顔を埋めたままボソボソと喋ると、『いいわね〜若いって!』と自分と年も変わらないのにテンション高めに周りにハートマークを飛ばしながら茶化される。
自分でもこんな風に冷静でいられなくなることに戸惑っている。恋とは、愛とは、こんなにも心を乱すものだったのか。明日会えると思うと途端に明日が待ち遠しくなる。
さすがに息苦しくなってきてごろんと仰向けに転がると、照明の眩しさに目が眩んだ。