Gimme Gimme Gimme! なんだかんだで、ここの人間たちはそれなりにアクティブな方だと思う。フェイスは自室の扉の前で、ぼんやりと誰もいないリビングを見渡した。
オフといえば専らクラブへ通っている自分だって、客観的に見ればアクティブな人間に含まれるかもしれないが、今日は違った。贔屓のクラブはここ十日の間に内装工事と設備の点検があるとのことで、フェイスのDJとしての活動はやむなく休止中だった。それは何故か。クラブなら他にもあるが、他の施設は夜毎フェイスのファンが群れをなしてやってくることに慣れていない。つまりのやむなくである。特に予定もない休日、フェイスはゆっくりたっぷりと睡眠をとり、リビングに差し込むのは正午過ぎの光だった。ブランチを済ませたあとはレコードを整理しようかと考えつつ、フェイスが一歩を踏み出すか踏み出さないかという瞬間、玄関代わりに外へと続く扉が開く音がした。
帰宅したのはディノだった。今日は野球観戦に行くと聞いていたが、プレイボールはそれほど早い時間だったのだろうか。
「おかえり。試合、もう終わったの?」
「……」
フェイスは不思議に思ったことをそのまま聞いただけだが、ディノは答えない。部屋に入ってきてからずっと無言というのも珍しいことだった。試合が中止にでもなって落ち込んでいるのかもしれない。フェイスがもう一度問おうとしたとき、ディノはようやく動きを見せた。肩から下ろした、というより落としたリュックサックが床にぶつかり重い音を立てた。
「フェイス……」
「なに、どうしたの? とりあえず座りなよ」
ディノは相変わらず何も言わない。ただならぬ雰囲気を感じて心がざわついたが、緊急というわけでもなさそうだ。一旦腰を落ち着かせるよう促すと、フェイス自身もソファに座る。その場に落とした荷物を拾おうともせず、ディノはゆっくり部屋の中央まで進んだ。険しい顔が何を意味しているのか全く見当もつかなかったが、フェイスはすぐにその意図を知ることになった。突然ソファの座面に押し倒され、自身の上にディノが覆い被さったからだ。
「わ、何……ディノ?」
動揺を伝えても、ディノは退こうとしない。いよいよ恐怖さえ覚え始めたフェイスがその眼を見つめると、意外にもディノの表情は緩み、花が咲くように和らいだ。
「にひ、フェイス……かわいい」
「え……っ」
不意に、言葉を奪われた。ディノは水分補給をする犬のようにフェイスの唇に舌を這わせ、口内に割り入ろうとする。まさかの状況に判断が遅れたフェイスが我に返り、その胸を押し返すと、生温かいものは離れていった。
「ちょっと、何なの? もしかして酔ってる……?」
「お酒? 飲んでないよ」
「なら──」
どうしたの、という問いかけは再び閉じ込められてしまった。今度は口を開いていたので、ディノはいとも簡単にフェイスの中へ侵入してくる。こんなことは初めてだった。昼下がりのリビングは共同生活の場だ。ここで求められることなど一度もなかった。混乱は絡め取られ、心は柔らかい感触と温度に惹かれていくが、明らかに何かがおかしい。
「ん、ねえ……ディノ、っ……まって、やだ」
「……嫌?」
悲しげな顔が傾ぐ。ディノは状況に全く違和感を抱いていない様子で、受け入れまいとするフェイスの態度に傷付いているようだった。
「嫌、っていうか、こんなとこで……突然どうしたの?」
「フェイスに触りたいなあって思って」
言いながら、ディノの手がフェイスの腰から胸辺りを撫でる。明るいリビングで、皆が座るソファの上で、脳が茹だってしまいそうだった。フェイスからの質問が止むと、ディノの頭がフェイスの首筋に埋まる。ここまでと止めなければならない理由や意味が分かっていても、危ない橋のラインは徐々に後退していき、その愛撫を味わってしまう。音を立ててフェイスの肌に触れるディノの唾液が空気に触れてひんやりと冷たくなり、そしてだんだんと乾いていく感触。
「……っ、ディノ、駄目、だってば」
「うん、ごめん……」
言葉とは裏腹に、ディノの手がフェイスの部屋着と素肌の隙間を縫おうと布地を探り出したとき、再び部屋の入り口が開く音が聞こえ、フェイスはすんでのところでディノを押しのけ、ソファの前に棒立ちになることに成功した。ほぼ同時に、ジュニアがリビングへ姿を現す。
「おい、クソDJ、いるか?」
「どうしたのおチビちゃんそんなにあわてて」
「どうしたもこうしたもねー……ってディノ! いたー!」
ディノはフェイスに押しのけられたあと、自力で起き上がったらしい。ぼんやりとした顔でメンティー二人を眺めている。
「ディノ、大丈夫か? とりあえずキースに連絡しねえと」
ジュニアが手早くコールする。フェイスはすでに何となくの予感を持っていた。
「あ、キースか? 見つけた、リビングにいた! え? サブスタンスも見つけた? オーケー、とりあえず博士んとこに連れてく」
そういえばフェイスの携帯端末は枕元で、電源を切ってしまっていたことを思い出す。切羽詰まった様子のジュニアとその通話先のキースからの断片的な情報だけで、何が起きているかはおおよそ理解できた気がした。
「ねえ、まさかとは思うんだけど……」
「サブスタンスだ! クソDJお前、今まで寝てたのか?」
「……ごめんって、次から気をつけるから、詳しく教えてよ」
鼻息荒い同期に頭を下げて、フェイスは研究室への道すがら、詳細を聞き出すことに成功した。ディノはサブスタンスという単語を聞いてほんのわずかに自我を取り戻したらしい。まだぼんやりとしているが、いたずらをして叱られた子犬のようにおとなしく二人の後をついてくる。
事の発端は野球観戦が行われるスタジアムから検出されたサブスタンス。レベルは低く、気分が高揚した上に日常生活におけるちょっとした欲求を抑えられなくなる、アルコールのような効果を持つもののようだ。スタジアムでは酒類も売られているため発覚は遅れそうなものだが、玩具店を丸ごと買い占める勢いのスーパーヒーローが目撃されたことから【HELIOS】へ連絡があった――能力のおかげで影響が増したのだろう。
一緒にいたはずのディノが行方不明なので、キースはイエローウエストのピザ屋を巡り、ジュニアと手分けして捜索に当たっていた、ということだった。
「なんか……本当にごめん」
「イヤ、まあオフだったからっていうのもあるけど……何が起きるかわからねーんだから、気を付けろよ」
さまざまな思いの入り混じったフェイスの謝罪を、ジュニアは軽く受け入れてくれる。ノヴァ博士にディノを引き渡したころ、無事にサブスタンスを回収処理したと、キースから連絡が入った。
「ほんっとうに、ごめんな」
「もう、わかったってば、次謝ったら二度と許さないから」
お詫びのショコラ、その紙袋が床につくほど深く頭を下げて、ディノは本日幾度目かの謝罪の言葉を口にした。
丸一日の入院後、特に後遺症もなく復活したヒーローのうち、ジェイ・キッドマンは綺麗に先日の記憶が抜け落ちていたそうだが、ディノは普段酒にも酔わないせいか、自身を喪失していた間のことをはっきりと覚えていた。
「我を忘れて襲いかかるなんて、動物みたいだ、本当に、その……フェ、フェイス……!」
謝罪の言葉も出せず、ディノは情けない声でフェイスの名を呼ぶ。自責の念で相当なダメージを負っているようだ。フェイスはリビングの床に触れそうなショコラを救出し、それからディノの両頬を支え、前を向かせた。
「……あのさあ、俺、嫌じゃなかったよ」
「えっ」
「場所が場所だったし、驚いたけど……ディノにああいうことされるのが、駄目だったってわけじゃないから」
「フェイス……」
「それに」
そこでフェイスは口を噤んだ。これ以上は告げなくても良いことかと首を振る。ディノに意識させない方が、圧倒的に得だからだ。不思議そうなディノの顔を見て、優越感は何度もせり上がってくる。
ディノの日常生活における、ちょっとした欲求について――フェイスは、ピザに勝ったのだ。