お酌 朱塗りの椀や漆塗りの小皿はどれも下ろしたばかりとみえて、見事な艶を帯びている。何しろ改装したての旅館なのだ。建物に合わせ、新しく買い求められたのであろうことは察しがついた。器のそれぞれには贅と粋を凝らした料理がこまごまと盛られ、いかにも華やかな正月の風情を醸し出している。
本来なら貴重な休日を堪能できる年末年始になるはずだったが、こんな贅沢な食事で饗されるのなら休日出勤も悪くはない。そんな膳を見下ろしているシンノウの目の前に、ふと影がさした。顔を上げる。そこには酒気漂う宴会場には似つかわしくない、学生服姿の少年が立っていた。
「おや、問題児くんじゃないか」
ギュウマオウに集められたアルバイトのメンバーたちの中には、彼を含め高校生が数人交じっていることはシンノウも知っていた。未成年たちは未成年たちだけで夕飯を済ませ、もう部屋に引き取って休んでいるか、広い大浴場を堪能しているはずだ。この大広間での宴会には酒も出すから、大人たちしか入れないようにしたと、ギュウマオウは言っていたというのに。
「どうしたんだ? どこかケガでもしたのか?」
わざわざ自分のところにやってきたのだ。何か用があるのだろう。保険医としての仕事を求められているのかと思えば、途端に背筋も伸びる。とっさに相手の全身を確かめたが制服の着こなしもいつも通り、外傷は見受けられなかった。じゃあいったい何のために――
「酒、飲んでるんだよね」
「え? まあ、そうだが……」
「お酌をしに来たんだ」
ぽつりとそれだけ言って、彼は膳の端に置かれている徳利に手を伸ばした。
「酌って、そんな……」
シンノウは困って辺りを見渡す。宴もたけなわ、すっかり温まった席は賑やかで、こちらの状況に気付いている者はひとりもいなさそうだ。自分の席を離れ、親しい友人や仲間内で集まっている者も多い。ギュウマオウも部下に囲まれ、よく響く笑い声を上げてくつろいでいた。
「君がそんなことをしなくたっていいんだぜ? 別に手酌でだって酒は飲めるんだからよ」
目をかけている生徒がわざわざ自分のところへ来てくれたというのが、嬉しくないと言えば嘘になる。それはさておき、酒をつがせるのもどうかと思ってしまうのもまた事実だ。
遠慮する台詞を告げたものの、彼は握った徳利から手を離すそぶりは見せない。言い出したら聞かない性格であることを思い出し、シンノウは仕方なく猪口を手に取った。ゆっくりと徳利が差し出される。
(おいおい、手が震えてるじゃねぇか)
慣れていないのだろう。慣れていたらいたで、問題なのだが。ぎこちない手つきで彼は徳利を傾ける。なめらかな水のような酒が、少しずつ、猪口を満たしてゆく。
七分目ほどまでついで、彼はやっと徳利を引いた。真一文字に引き結んでいた唇をほどき、安堵の息を漏らす。零さないようにと気を張っていたのであろうことが分かった。
猪口を口へ運べば、爽やかな香りが口の中に広がる。シンノウが少しずつ酒を味わうのを、彼はそこに座ったままじっと見つめていた。
「……先生の着物、かっこいいね」
「ん、これか?」
シンノウは軽く片手を広げてみせる。師走も半ばの頃、昔のよしみでひとつ頼まれてくれとギュウマオウから連絡を受け、仕事の内容もよくよく聞いた。引き受けることに異論はない。ぜひ協力させてくれと返事を寄こしつつ、せっかくの新年だからなと、冗談のつもりでちょっとしたわがままを口にしてみた。豪気で羽振りのいいギュウマオウのことだ。それくらい造作もないことだと二つ返事で請け合ってくれ、仕立てられたのがこの羽織袴というわけだった。
「この柄、オレらしくていいだろう?」
サイズはもちろん、柄も特注。特別に描いてもらったものだ。いつもの深緑ではなく、羽織の色に合わせてシックな色使いにしてもらった。自分でデザインを頼んだものが褒められれば悪い気はしない。思わず口元がゆるんだ。目の前の生徒は深く頷く。
「いつもの迷彩柄みたい。先生の着物姿って初めて見たけど、かっこよく着こなしてるし、すごく似合ってる」
言いながら、彼の視線はどんどん下へとおりていく。羽織の裾の辺りに釘付けだ。けれどそれは着物をまじまじと見つめたいというよりも、シンノウと目を合わせないためのように見えた。
「いつも以上に見とれちゃうな」
蚊の鳴くような声が畳に落ちる。今や深く俯いた彼の頬は、疑いようもなく赤く染まっていた。
「おやシンノウ君! ひとり抜け駆けか? 酒の席に彼をはべらせていい雰囲気だな!」
突然大きな声が飛んできて、二人はびくりと肩を跳ねさせた。広間の向こう、ギュウマオウがこちらを見てがははと笑っている。周りの部下も楽しそうにしながら、冷やかしの声を寄こしてみせた。
「はべらせてって……人聞き、いや牛聞きが悪いぜ!」
ひとまず叫び返してから、当の生徒へと視線を戻す。彼はまだここにいたいらしく、もじもじとしながらも立ち上がる様子は見せなかった。さてこれはどうしたものだろうと、シンノウはひとり頭を悩ませた。