保健室 がらがらという音を響かせ、遠慮のない調子で引き戸が滑る。あー! と、俺を糾弾する声が低く上げられた。
「おいおい、まーだいるじゃねぇか。オレが戻る前に帰るようにって、そう言っただろう?」
言われた言葉は覚えていた。ここは保健室だ。心身の不調を訴える学生のための場所。あいにく俺は怪我もしていなければ頭も痛くない。至って健康体だ。ただ一点、胸の中からもやついた感覚を拭い去れないことだけを除いては。
前後を反対にした椅子をまたぐようにして座ったまま背もたれの上で腕を組み、そこへ顎を乗せる。まだ寮には戻りたくないというアピールをしてみせた俺を見下ろして、シンノウは盛大に鼻を鳴らした。
「まったく、仕方のねぇ問題児くんだなぁ」
シンノウの言うことはまさしく正しくて、俺は返す言葉もない。ぐっと押し黙ったまま、部屋の中のあちこちを見渡した。
外は北風ががんがんに吹き荒れる真冬でも、この保健室は絶対的に居心地がいい。大きな窓は南向きで、たっぷりの日の光を通してくれる。とろとろと炎の揺れる石油ストーブに、絶え間なくスチームをふき出している加湿器。グラウンドからも教室からも遠いこの部屋は、窓の外も廊下もほんとうに静かだ。
「具合が悪くないんなら、ここに用はないだろう? もう放課後なんだ。寮の部屋でのんびりするもよし、クラスメイトと街へ繰り出すもよし」
用事がなくはないよ、と言いたいのをぐっとこらえる。気になってる人を見つめていたい、っていう用事が。
俺が反論しなかったからか、シンノウは椅子にどっかりと腰かけ、机と向かい合ってしまった。おかげで俺の場所からは後ろ姿しか見えない。白衣を羽織った背中を少しばかり屈め、手元に広げた書類か何かを読み込んでいる。
「どう見えているのか知らないが、これでもお兄さんは結構忙しいんだからな。今月使った薬の代金を計算したり、いろんな書類を作ったり……」
「邪魔しないから、ここにいさせてよ」
思わず上げた声はかぼそくて震えていて、自分でもびっくりした。さすがのシンノウも驚いたらしく、勢いよく俺を振り向く。
「なんて顔をしてるんだよ……」
その唇からぽろりと言葉がこぼれ落ちる。自分じゃどんな顔をしているのか分からない。でもこれで相手の心が揺さぶれるならこっちのもんだ。できる限り今の表情をキープしようという気持ちだけ抱きながら、すみれ色の瞳を見つめ返した。
「分かったよ。もう気が済むまでここにいろ」
とうとうシンノウは匙を投げた。……そうやって俺を甘やかすから、俺はいつまでたってもシンノウのそばから離れられないのだ。
「ありがとう」
盛大なため息は隠す気もないらしく、シンノウはまた机に向き直った。
いてもいいとは言ってくれたけれど、構ってやるとは言われていない。しばらく、かりかりとペンを動かす音と、電卓のキーを叩く音が響く。色気のない音でも、気になっている人が立てている音だと思えばそれだけで胸がいっぱいになる。目を閉じて、その音に聞き入っていた。
「おうい、問題児くん」
突然耳に息が触れて、飛び上がるくらい驚いた。椅子の背にもたれかかっていつの間にか眠っていたらしい。跳ね起きた俺を前に、すぐそこに立っていたシンノウは一歩後ずさった。
「なんだ、びっくりした。ぶつかるかと思ったぜ」
いや、近い! 熱い息が耳とうなじに触れた感触がまざまざとよみがえってくる。寝こけている俺の顔を覗き込んでいたのかもしれない。思わず首元を手で包んだ。
「それで、問題児くんは、ほうじ茶と緑茶ならどっちが好きなんだ?」
「えっ……」
硬直する俺をよそに、シンノウは涼しい顔をしている。白衣のポケットから取り出したのはみかんだった。握りしめたその二つを、灯油ストーブの上へ乗せる。こっちを振り向いて、軽やかにウィンクを飛ばした。
「みかんが焼けるまで、お茶でも飲んで待ってたらどうだい? 今なら特別大サービス、お兄さんが淹れてあげよう」
「……先生!」
思わず立ち上がって、そのがっしりした首に抱きつく。
「こら。学校の中だぞ」
抱きしめ返されもしなかったけれど、引き剥がされもしなかった。期待してもいい? と、よこしまな思いが胸をうずめる。
「学校の中じゃなかったらいいってこと?」
「そういうことを言ってるんじゃない」
「なんだよ。言ったのはそっちじゃんか」
俺に、あんなことやこんなことだってしたくせに。学外でのあれこれを思い出して頬を膨らませる。苦いお説教をするみたいに、とん、と鼻先をつつかれた。
「いてっ」
思わず顔がくしゃくしゃになる。
「君がもうちょっとおとなしくしてくれると、お兄さんは嬉しいんだけどな」
台詞の割に、声は笑っていた。