花を贈る 弟のことは、隣の部屋に待たせたきり忘れていた。
報告など、どうせ聞かなくても分かっている。戦地に送り出した弟は、今回もまた無事に帰ってきた。そのこと自体がすでに報告――戦は我が方の勝利で終わったという報告――であるのだから。
積み上がった書類へ粛々と目を通し、机の上がおおかた綺麗になった辺りで不意に弟のことを思い出した。他の者を通じて「用事が片付かないからまだ会えない」と返答はしておいたが、帰るようには言っていない。きっと愚直に、通された一室で待ち続けているのだろう。机を片付け、立ち上がった。
応接室を覗けば、案の定弟の丸い頭が視界に映る。背中を向けた恰好で、ソファに腰を下ろしていた。小生が部屋に入るなり飛び上がってこちらを振り向くかと思っていたが、ドアノブを回しても革靴のかかとが音を立てても相手は微動だにしない。おそるおそる近付き、表情を窺う。
「……ああ」
瞼をぴったりと閉ざし、弟は眠っていた。
身に着けた制服に汚れはない。どうやら戦場からまっすぐここへ来たわけではなく、一度戻って着替えたらしい。そこらじゅうに血しぶきをつけて帰ってきたらどうしようかと思っていたところだ。思わずこっそりと息を吐く。戦場の風に煽られた髪の先が、ぱさぱさと悲しく乾いていたのには気付かなかったことにした。
頬にひとつ、四角く切ったガーゼを当てている。衛生兵の手当てが雑なのか本人が気にしないのか、ガーゼが傷を覆い切っていない。どうやら切り傷を作ったらしい。厚く塗られた膏薬で傷口に蓋をされてはいるものの、ガーゼの端からは赤く細い線が覗いている。思わず顔をしかめた。
弟は一向に目を覚まさない。その膝に毛布だけはかけていたから及第点だ。我がギルドの主要な戦力が風邪でも引いたらどうするのかと苦言を呈さなくとも良い。
「また君は、無事に帰ってきたのかね」
ひっそりと呟いた声が、弟のからだに落ちていく。
比較的小規模の隊を任せ、戦地へと送り出した。敵方の大将の性格や内部の情報からして、今回は迅速に攻めるのが何よりの得策だ。ゆえに機敏に作戦を実行できる少人数で、というのが本当に最善の策なのか建前からのそれだったのか、今となってはよく思い出せない。
別の者からの報告によると、弟は暴れるだけ暴れて、一人でほとんど片をつけてしまったということらしかった。
当の本人は今、あどけない顔をして眠り続けている。白い肌を背景に、長いまつげが黒々として見えた。
――これは、仮の話だ。
もし仮に、ここで小生が弟のやわらかな皮膚に刀を沈めたとして。それですべてが終わるなら、こんな楽なことはなかった。
弟がこの世を去ったからといって、弟の存在が小生から離れることはない。弟の存在にとってかわって、今度は弟の不在が小生をさいなむ。周りは口々に「弟君なら」「弟君は」と口にするであろう。小生自身、何かを目に映すたび、弟のことを思うだろう。あれがどうした、何を言ったと。
『何度も何度も死地に赴かせるくらいなら、その手で屠ってしまえばいいではないか』
小生の内側から、ぞっとするような囁きが聞こえる。額に冷たい汗を流しながら、もう一人の小生は歯を食いしばって首を振る。
『それで済めば、苦労はしない』
弟の命を摘み取ったくらいで終わる話ではない。だから小生は身動きが取れない。弟の存在に怯えながら、弟に手を貸してもらい続けてるしか道がないのだ。
一度応接室を出ると、執務室から花瓶ごと取ってきて引き返す。弟の眠るソファの正面、テーブルの真ん中へそれを置いた。
椿が一輪、濃い紅色をして咲いている。花びらが揺れ、生の植物特有のつめたい気配が香った。
「ご苦労だったね。よく休むといい」
それだけ口にして、今度こそ部屋をあとにする。優秀な弟が本当に眠っていたのかそうでなかったのか、それは小生には分かりようのないことだ。焼き物の花瓶の、土肌のざらついた感触がいつまでも指先に残った。