催眠主へし へし切長谷部という刀剣男士は、一見生真面目そうでとっつきにくそうな印象があるが、一度身内とみなすと、急に色んなガードが緩くなるかわいいやつだ。
今日も戸を開け放したまま、机の上に広げたままの本を見て、そんなことを思う。実質長谷部の個室みたいになっている近侍部屋とは言え、俺を含め出入りは自由なんだからもう少し気を付けたらいいのに。とはいえ、せっかく緩んだガードをまた強固にさせるのも、もったいないような。見るのも悪いなと思いつつ、何せ堂々と広げてあるのでつい表紙を見てしまう。
『素人にも刀剣男士にも簡単にできる!害のない催眠術のかけかた』
……これまたあやしい本を手に入れたもんだ。政府の公認マークが入っているから、万事屋あたりで買ったんだろう。公認マークが入っているからって信用しすぎるのもよくないぞ。
彼が『これで貴方も審神者と恋仲!政府特別監修刀別解説完全収録パーフェクトマニュアル』というふざけたタイトルの本に付箋を付けてまで愛読していたことを思い出す。俺にバレて顔を真っ赤にしていたのは記憶に新しい。少し、考えるが、まあいいか、と触れずにおくことにした。あまりあの手の本に書いてあることを鵜呑みにするなよ、と前も伝えているし、主であり恋仲でもあるとはいえ、娯楽にまでいちいち首をつっこまれてはさすがに鬱陶しいだろう。
と、結論付けたのは、正直俺には関係ないだろうと高を括っていたからだった。
本は公認マークが入っていたとは言えジョークグッズの一種のようだったし、机の上に粗雑に置かれていた。真剣に読むようなものじゃないものな、と思って、その瞬間まで存在も忘れていたくらいだ。
「主、ちょっと、よろしいですか」
「ん、なに?」
一日の仕事を終え、明日の予定を確認し、さあそれぞれの部屋に戻るか、というところでおもむろに長谷部が紐にくくった五円玉を目の間にぶら下げる、その瞬間までは。
「……なに?」
躊躇ったのも、また一瞬だけだった。長谷部は緊張した表情で、ゆっくり五円玉を揺らしている。
「ええと、この五円玉を、見ていて下さい」
「……うん」
長谷部、嘘だろ、という気持ちはもちろんあった。真に受けちゃったのか、あんなに怪しい本の内容を。
しかし、長谷部が俺に催眠術をかけてなにをするつもりなのか、そっちの方が気になる。
五円玉はゆっくりと、右、左、右、左と揺れている。長谷部は真剣そのものという顔で五円玉を目で追っている。なんだか長谷部の方が術にかかりそうだな、と笑いそうになるのを我慢して、俺もその五円玉を、というより長谷部の目線を追いかける。
「主は、段々……段々……ええと……」
決めてなかったのか。何でこういう時に急に手際が悪くなるんだ。
「っ段々、俺と……手を繋ぎたくなる……!」
「……」
噴き出さずに済んだのはほとんど奇跡といってもいい。どうにか、声が漏れる前に俺は五円玉をぶら下げてない方の長谷部の手を握った。膝の上で、硬く握りしめられていた拳の上から、そっと自分の手を重ねる。
「! !!」
長谷部はみるみるうちに真っ赤になって、五円玉も不安定に揺れた。
恋仲になったのはつい最近のことで、主と臣下である時間の方が長いということもあって、あまりそれらしい触れ合いはまだしていなかった。俺はもっと触れたいし色々したいと思っていたけど、なんだ、長谷部も同じ気持ちだったのか。面映ゆい気持ちになりながら、俺はそっと長谷部の顔を覗きこんだ。長谷部は、口元を綻ばせ――それからさっと手を退けた。
え、と声に出す暇もなかった。揺れていた五円玉を素早く懐にしまい、呆然とする俺の目の前でぱん! と手を叩く。はい、おしまい、とでもいうように。実際、それが本に書かれている手順の最後なのだろう。あとは何事もなかったように、
「それでは、おやすみなさい、主」
そう言っていつものように立ち上がろうとするので、今度こそ「おい」と声が出る。立ち上がりかけた長谷部の腕をしっかり掴むと、明らかに狼狽した様子だった。
「ななななな何か?」
「何、今の」
「はて……? なんのことやら……」
大根演技すぎる。
「いくらなんでも本に書いてあることを鵜呑みにし過ぎだろ。そう簡単に催眠術かけられてたまるか」
狼狽していた顔がみるみる内に真っ赤になっていく。
「で、では先程は、術が効いたわけでは……?」
「ない。というか、手くらい、いつでも繋ぐし……」
へなへなと力が抜けたかのように座り込んだ長谷部の腕から手を滑らせ、もう一度手を掴み、指を絡ませる。びく、と肩が揺れた。
「……変な本に頼る前に、言って欲しいんだけどな」
「も、申し訳、」
「あっ、いや、違う、謝って欲しいわけじゃない……俺も言葉が足りなかった」
目を離すと変な方向に振り切るのはこれが一度目ではなかった。もちろんそんな長谷部を揶揄うのも嫌いじゃないけど、そればかりなのもよくはない。
「……他に、俺にして欲しいことないの」
いい機会だし、と手をにぎにぎと戯れるように握ってみる。長谷部は恐る恐るといったように顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめた。
「して欲しいこと、ですか」
「何でもいいよ」
「なんでも……」
視線がまたそらされ、うろうろと彷徨う。数秒考えた後、「では」と長谷部は再び口を開いた。
「だ、」
「だ?」
「抱き、しめて頂けませんか、こう、ぎゅっと」
短刀にたまにそうしているのが羨ましかったと、照れたように言う。
抱き締めるだけ? それだけ? 何でもって言っているのに???
そう、考えたのもほんの数秒だった。何でもいい、と言った手前、他にないのかなんて言えない。
「……こう?」
短刀を抱きあげることは確かにあるけど、ほんの戯れというか、遊びの延長というか……とにかく、羨ましがられるようなものではない。そう思いながら長谷部の背中に手を回し、ぎゅうと抱き寄せると、腕の中からは「ひぇ」と声にならない声がして、やはりこれが本当に望まれていることなのかはよく分からなかった。
おしまい