【ちょぎにゃん】夕焼け第33回毎月ちょぎにゃん祭り
お題「夕焼け」
「猫殺しくん」
本丸で使用する野菜のほとんどの生産を担っていると言っても過言ではないくらい、広大な土地で作られた畑の一角。井戸水を引いて野菜の泥落としであったり自分たちの汚れを落とすために作られた水場で、ひとり黙々と明日の朝餉に使われる予定の白菜を洗っていた南泉の手元に影が落ちた。
時刻は酉の刻に入って四半時過ぎたというくらいだろうか。年が変わり少し日が長くなったとはいえ、まだまだ明るい時間は短い。いまも赤い夕陽がほとんど山に隠れてしまっている。夜目の効く南泉は特に困りもしないが、直に図体のでかい刀たちが大人しく本丸に引っ込む真っ暗な夜がくるだろう。
これを洗い終えれば今日の畑当番も終わり。同じ当番についていた他の刀たちは先に洗い終えた野菜を本丸に運んでくれていて、それが終われば道具を片付けに戻ってくるだろう。だから南泉はそれまでに白菜を綺麗にしたうえで、冷たい井戸水で冷えて真っ赤になった手を何とかしなければいけなかったのだが、思いがけない来客によりそれが叶いそうにないことを悟り小さく息を吐いた。
「どうしたんだよ、化け物斬り」
南泉の呪いについて揶揄してくる相手に返す呼び名を口にすると、ずいぶん久しぶりに呼んだなと頭の隅で思う。南泉がこの呼び名を口にしていないということは、相手が南泉のことをきちんと名で呼んでいたということになる。
そういえば年末からこっちにかけて初期刀や近侍を含む事務方が、やれ資材の確認だのやれ宴の手配だのやれ小判が足りないだの、戦績報告書がどうだの内番の当番表がどうだのと慌ただしくしていて、それなりに刀たちの休暇について五月蝿いうちの本丸にしては珍しくその体制が崩れていた。
だから単純に顔を合わせて軽口を叩く時間がなかったのだというとまあそれも一理あるのかもしれないが、結局のところ働きすぎで休息と睡眠不足。ようはこの刀は今とてつもなく疲れが溜まっているのだ。
ここで変に言葉遊びに興じては後々面倒なことになるだけだと、呼び名を返しただけでその後は特に何も言うでもなく南泉の傍に置いてある笊の中から、赤く熟れたピンポン玉ほどの大きさの赤茄子を一つ摘まみ、いつのまにか南泉と同じように腰を下ろしてした山姥切の口の中へ放り込んでやる。
赤茄子と言うと夏の野菜らしいが、そういった時期というものには本丸のある空間では左右されないらしかった。もちろん太陽の光や雨といった自然環境も野菜の出来に多少は関係があるらしいが、本丸における野菜などの生産の一番の要は主の霊力なんだそうだ。
つまり、主の霊力が満ちたこの空間においては真冬であっても甘い赤茄子が大量に収穫できるし、いま南泉が山姥切の口に放り込んだものは赤茄子の中でも特に甘さに特化した品種らしくフルーツトマトと呼ばれる類いのものらしい。
主は脳疲労にはチョコレート、などとよく言っているが生憎南泉はそんなものを持ち歩いていないので、苦し紛れの代替品ではあるがまあ何もないよりはましだろう。現に山姥切の口から特に文句は出なかったし、ゆっくりと咀嚼した後のみ込んだその口角は少し上がっているように見える。
(まあコイツが物を差し出されて大人しく口を開ける方がおかしいんだけどにゃ)
警戒心だとか信頼だとか、そういうものではなく単にこの刀の矜持だとかそういったもので人の好意を素直に受け取ろうとしないのだ。施しは受けないとかそういうことなんだろうか。この刀の屈折した心を理解することは南泉には出来ないけれど、普段の山姥切であれば「餌付けされるのは僕ではなく君の方がいいんじゃないのかい?」くらいのことは言ってくる。それだけは断言出来る。
そんなコイツが南泉のすることに何の嫌味もなく大人しく従う、それが疲れて思考を放棄しているからというよりは甘えているのだと気付いたのはいつ頃だっただろうか。素直に助けを求められない山姥切が不器用ながらもほんの少しだけ南泉を頼りにしてくる、少しだけ擦り寄ってくる、少しだけ我が儘を言ってくる。
その時によって事は違えど、そのどれもが山姥切なりの南泉への甘えだと気付いたとき、胸の奥がどうしようもなく五月蝿く拍動して熱くなって妙に叫び出したい心地になって、これが愛しいなのだと思ったのだ。
だからこんなになる前にきちんと休めよなとは思うものの、南泉はこの時間があまり嫌いではない。ただ、タイミングがあるだろうと今は少し思ってしまう。まだ静かなものだがっほどなくしたら他の刀たちが賑やかに戻ってくるだろう。
そうなれば山姥切は体裁を保つことに尽力をつくして隠してしまう。そして夕餉だ風呂だと慌ただしく一日を終える準備をしているうちに、南泉にすらこの顔を隠してしまうのだ。
だからこそ今ここで何かしら甘えさせてやりたいと思うものの、何が出来るわけでもなく。苦し紛れの赤茄子はもう使えないだろう。
山姥切に赤茄子をやったとき以外はずっと手を動かし続けていたお陰で大量の白菜も洗い終えたし、洗っては直接運搬用の荷車に積んでいたので他の刀たちが戻ってくればこれを引いて運んでくれるだろう。崩れるだろうかと思いながら赤茄子を入れている笊も載せておいた。
片付けもほとんど済んでいるので戻るまでそのままにしておけと言われたので、勝手に手を出すと五月蝿いのもあってお言葉に甘えることにして、南泉の作業は終わった。恐らくこのまま山姥切を連れて本丸に戻っても何の文句も言われないだろうが、流石にそれは躊躇われた。
ああでもないこうでもないとうんうん唸っていれば、突然音もなく掬い取られる南泉の手。冷たく凍えて赤くなったそれに少しの刺激も遠慮したかったが、山姥切の手はどこまでも優しく、そしていつもは冷たく感じる相手の手がほんのりと温かく感じられて自身の手が思っていたよりずっと冷えていたことを知った。
「水仕事用の手袋が用意されているだろ」
「あー、あれ窮屈じゃねえ?どうも合わなくてつけるの嫌なんだよにゃあ」
「サイズは合っているのかい?窮屈でもつけておかないとしもやけになるよ」
「あれって手入れで治んねえのか?」
「水仕事で手が荒れたから手入れしてくれだなんて言ったら近侍殿がなんて言うだろうね」
「ぜってー許可が下りねえやつだな」
くすくすと笑う南泉に山姥切もつられて笑い、それがまた面白くてどうにもとまらない。これだけ噂されていれば、かの刀は今頃くしゃみで大忙しじゃないだろうか。
「南泉が痛い思いも辛い思いもするのは嫌だからね、きちんと対策をしてケアするんだよ」
甘いミルクに蜂蜜と砂糖を溶かしたような、甘い甘い声に内心ゲ、と声を上げる。大人しくされるがままになっていたから気付かなかったが、今回の山姥切はどうも甘やかしたい方らしい。
毒が飛んでこない時点で気付くべきだったか。このときの山姥切はどうにも甘くて普段との違いに慣れない南泉は気疲れを起こしてしまう。分かりやすく言えば素直で優しい山姥切なんぞ、南泉の知る山姥切長義ではないと拒否反応を起こしてしまう。もっと分かりやすく言えば、本当に居た堪れない。
血流を促すためなのか労わられているのか、やわやわとどこまでも優しく南泉の手を揉んでいる山姥切がこちらをちらりと見やりどうにも嬉しそうに相貌を緩ませる。
「なんだ、にゃ」
「夕焼けに負けないくらい赤いなと思ってね」
何をとは言われずとも、想像はつく。南泉の顔か耳の話だろう。もしかしたらその両方かもしれない。
「うっせえ」
「そうやって素直に照れてる君は可愛いね」
「あー!もうお前、バグ起こしてるみたいになってんにゃ!」
「失礼な、誤作動なんて起こしてないだろう」
「分かった分かった、もう戻ろうぜ。いま戻って来られたら何言われるか分かったもんじゃねえ」
「当番は終わりかい?」
「荷車運んどいたら先に戻っても文句は言われねえだろ」
「じゃあ俺が押してあげよう」
「いらねえから!お前疲れてんだろ、疲労増やそうとすんな!」
「南泉も一日当番で疲れているだろう?身体も冷えているしね、早く戻ろうか」
山姥切はただ疲労が溜まっているだけで、別に酔っぱらっているわけでもなく。正気は失っているかもしれないが記憶は失わないのだ。つまり今こんな風に砂糖吐いていても、いつもの山姥切に戻った時に全てを覚えているわけで。
いつもの毒を吐く山姥切が、今の自分を振り返った時にひどく八つ当たりをしてくるところまでがこの状態の時の常であり。それを慰めることを思えば重たいため息しか出てこないけれど。
とりあえず今日は飲ませてでもさっさと寝かそうと心に決めて荷車の梶棒を掴んだ。