【僕は猫である】
どこで生まれ、どこをどう歩いてきたのか、どれくらいの間そうしていたのかもわからない。本当に全く自分が何も覚えていないことに──僕は唐突に気がついた。他に理解していた事といえば、自分が空腹であることだった。お腹が空いて空いて仕方なくて、時折鼻を鳴らしては、自分の勘を頼りに歩き続けていた。
そして、ある天気の良い昼間。僕は今までの灰色で硬い地面とは違う、たくさんの短い草が生えた土を踏んだ。瑞々しい緑のにおいを思いきり吸い込みながら、よたよたと歩を進めていく。
ここにはご飯があるだろうか。
それに、身体を休められる場所があるだろうか……。
ずっと歩きづめだった僕にとって、それは切実な願いだった。最悪すぐにご飯にはありつけなくても、ひとまずは落ち着いて身体を休められる場所が欲しい。一旦足を止め、危険がありそうかどうかの確認をしようと、においを嗅ぎなおした。
──と。
とても覚えのあるにおいが僕の鼻をくすぐった。
(なんのにおいだっけ……?)
導かれるように、においが強くなる方へと歩く。
不思議なにおいだった。あったかくて、優しくて、うれしいにおい。おいしそう……でないのは残念だけれど、こんな落ち着くにおいなら良い寝床にはありつけるかもしれない。
期待に胸を膨らませて、たし、と一歩を踏んだ時。唐突に頭の上で大きな声がした。
「ん? ……猫?」
びっくりして思わず硬直してしまった僕の両脇を何かががっしりと掴むやいなや、高く持ち上げられてしまう。
(た、たかっ、え、一体なんなんだい!?)
訳が分からずに呆然としていると、目の前に顔が現れた。
お日様の光を集めたようなきらきらした髪に、夕日に溶かした飴玉みたいな色の瞳の──人間。その目がじいっと僕を見つめた後、腕の中に抱き直してから、こてんと首をかしげた。
「校内で猫とは珍しいが……お前、一体どこから迷いこんできたんだ?」
「司くん? どうかしたのかい?」
また別の声。同時に、違う顔が視界にひょいと現れた。
紫陽花みたいな紫の上に、緑と青の間みたいな色が雨だれみたいに二筋だけ入った変な髪と、淡いお月さまの光を閉じこめてあるような瞳。その目の横には赤い線までついている。なんだかやたらとハデな人間だ。細かなまばたきを繰り返すそいつも僕を見てくる。
「おや、迷子かな」
「学校の中庭を迷子じゃない猫が歩くのか……?」
「フフ、猫は自由だからね。他の猫のテリトリーだったり危険でさえなければ、どこでも歩くとも」
そう言うとハデ人間が僕をひょいと持ち上げて、宙にぶらさげたままで僕を眺める。
「ふむ……オスだね。生後三ヶ月か四ヶ月、というところかな」
「類、わかるのか?」
「少し知識がある程度さ。生き物は好きだからね」
類と呼ばれたハデ人間は、顔も言葉も大したことじゃない風を装っていて。でも(さっき司くんと呼ばれていた人間は気づいていないようだけど)そのハデ人間がかもしだす空気は明らかにでれっと柔らかくなっている。
その様子を間近で見ていた僕は──
はっきり言って、不快だった。
(ハデな君、いい加減に離してくれないかな!?)
──ふしゃーっ!
思いきり牙を剥き、爪も出して全力で威嚇する。目を丸くする、ハデ人間。すると司くんがハデ人間の手から僕を取り戻してくれた。
「ほら嫌がっているぞ」
そう言って僕を抱きかかえる、司くん。すると辿ってきた不思議なにおいが、ふんわりと僕を包み込んだ。どうやらあれは司くんのにおいだったようだ。そうと分かると、尚更安心できるにおいに感じられた。顔をこすりつけると勝手に喉がごろごろと鳴る。
と、ハデ人間が腕組みをしてうめいた。
「……僕と違って、やけになつかれているね」
「未来のスターたるオレの魅力は、子猫すらも虜にしてしまうというわけだなっ。さすがはオレ!」
「本当にそうならいいけれどね。……その猫を見ていると、僕はなぜかもやもやした気分になってくるよ」
僕と似たようなことを言いながら、ハデ人間の眉間にシワがよった。司くんは僕の頭や喉元、身体をやさしく撫でさすりながら笑う。
「なんだ類、ヤキモチか?」
「僕が、猫に?」
「なにせこいつは類に似ているからな。毛は紫がかっているしメッシュっぽい柄もあるし、瞳の色もそっくりだ」
(…………!?)
司くんの言葉に僕は思わず耳を疑った。まさかそんな、僕の容姿がこのハデ人間にそっくりだなんて。でもそういえば、僕は自分がどんな姿なのか知らない。そんなこと欠片ほども気にならなかったからだ。
唯一、毛色だけは今すぐに確認出来るけれど──と改めてまじまじと見た僕の身体は灰色で。……そして、本当に濃く紫がかっていた。なら瞳もそうなのだろうし、そうと分かったらもう自分の目で確認をするのも嫌だ。
ただとりあえず、
(それはとんでもないブジョクだよ、司くん!)
──にぃーっ、にっにぁ、にぃーっ!
必死で訴える。司くんはしばらくきょとんとして、ぷっと吹き出した。
「なんだ、類に似てると言われるのも嫌なのか?」
「フフッ面白いね。……さて保健所に連絡しようか」
冷たい目のまま口だけ笑ういびつな表情でポケットをごそごそし始めたハデ人間の手を、司くんが慌てて掴んで止める。
「まっ、まてまてまてっ! とりあえず先に飼い主を探してやるべきだろうがっ」
「首輪も無いし野良猫……いや野良猫以外にありえないよ僕の直感がそう全力で告げてるんだ保健所行きだって」
「死んだ魚のような目に早口で、一体何を言い出すんだお前は!?」
すると、ハデ人間は黙ったままうるっと目を潤ませて司くんの両肩を掴んだ。司くんのきりっとつり上がった眉の眉尻が、心底困ったように下がった。
「類……本当に大丈夫か? また寝てないんじゃないだろうな。さっきから情緒がおかしいぞ……」
「昨夜なら夕食を食べた後すぐに寝落ちしたよ! ……ねぇ司くん、司くんは僕のことは好きかい?」
「だ、だからなんなんだその質問はっ」
首をひねる、司くん。でもその頬は顕著に赤く染まっていく。
「……す……好きに決まっているだろう。その、っこ──恋人、なんだからな」
恋人。言葉の意味が今一つわからずに鳴くのをやめた僕を、ハデ人間はちらりと見下ろしてきたと思うと、どこか勝ち誇ったような笑みを口の端に浮かべ──また目を潤ませて司くんの方を向いた。
つまり、泣きそうに見えるあれは演技。
……嘘ということだ。
(司くんっ、だまされちゃダメだ!)
──にぁっ、ににっにぁー!
司くんの身体をぺしぺし叩くも、その瞳はこちらを見てくれない。それどころか一層ハデ人間の方を熱く見つめて、僕の声など全く聞こえてもいないように見える。
「フフッ良かった。……そう、僕は猫に嫉妬していたんだよ。相手が動物だろうが無機物だろうが、恋人の視線を突然奪われて嫉妬しない男がいると思うかい?」
「う……そ、それは悪かった」
「いいよ。今はこうして、僕だけを映してくれているしね」
さっきまでの弱々しい仮面などもう必要ないとばかりに、いつの間にかそれを脱ぎ捨てしれっとするハデ人間は、片手で司くんの頬を撫でながら熱っぽく囁く。司くんも司くんで、んっ、とかすかに声をもらして肩をすぼめたりしていて、すっかりハデ人間の思惑通りだ。
なんて奴だろう。不思議ないいにおいのする司くんをこんな風にだますなんて、きっと悪い奴であるに違いない。こいつが一体何を企んでいるのかはわからない……が。
──僕が司くんを守らなくては!──
そう決意した僕は、いつでも腕から飛び出せるように身体をもぞもぞさせて体勢を整えた。
「それで、類。この子猫のことなんだが……」
「おや。僕はまだ嫉妬の炎に胸を焦がしているのに、君はもう目をそらしてしまうんだね」
「そんなことを言われてもな……。オレにどうしろと」
「そうだね。欲しいのは──君からの誓約の口づけ、といったところかな」
びくんっと司くんの身体が揺れた。準備済みの爪がうっかり飛び出して傷つけてしまわないように注意しつつ、僕は二人のやり取りを見上げる。
「おまっ……こ、ここは学校だぞっ?」
「そうだねぇ。でもこの前、屋上で甘い声で僕をおねだりしてきたのは誰だったかな」
「うぐっ……し、しかしここは人目にもつきやすいし」
「大丈夫だよ。中庭の中でも死角になる、あまり人の通らない場所だって言っただろう?」
立て続けに即答で切り返してくるハデ人間に、司くんはとうとう呻きをもらすばかりになって。やがて渋々と──耳まで真っ赤になっているせいか、なぜかそれも嘘っぽく見えてしまったのだが──吐き捨てるように言った。
「し、仕方のない奴だっ。一度だけだぞ!」
「わかっているとも。──はい、どうぞ」
ハデ人間は目を閉じると少しだけ背中を曲げて、司くんに顔を近づける。司くんもごくりと唾を飲み込んだ後、ハデ人間へと顔を恐る恐る近づけていく。……その身体は小さく震えていて。それを無意識に誤魔化そうとしているのか、腕の中の僕の身体にほんのわずかだけ指先が食い込む。ああ、かわいそうな司くん。きっと怖いんだろう。
それなのに、このハデ人間ときたら何も考えずに目をつむって──と、改めてそちらに目をやって。僕は自分の失態を知った。
唇が触れあいそうになって司くんがぎゅっと目をつむった瞬間。本当にうっすらとだけハデ人間の目が開いて、様子をうかがったからだ。
ハデ人間は言葉通り一方的に待つ気だったのではない。このタイミングこそを狙っていたのだ。
(罠だったのか……!?)
僕が絶句したと同時に、二人の唇が重なって。
さらに次の瞬間。
司くんの肩に置かれていた手が──司くんの後頭部へと回され、わずかに唇を浮かせたハデ人間が口を開いた顔を大きく斜めに倒した。
その覚えのある体勢に、僕は本能で悟る。
──こいつは司くんを食べる気なのだ、と。
(っ、僕の司くんからっ、離れろ──!!)
──にっにぃ、にぁぁああ!
開いた口が届くギリギリのタイミングで、僕は司くんの腕の中から飛び出した。そして、むき出しで目の前にあるハデ人間の腕にがぶりっと牙を突き立てる。
「っ、いっっっ~~~~!?」
声にならない声をあげて司くんから離れた、ハデ人間。いやいや、これも嘘かもしれない。もう油断するものかと、僕はさらにあごに力を込めて腕にぶら下がり続ける。
司くんが慌てて目を開けて僕達を見たのは、そんな時だ。司くんは見るなり血相を変えた。
「のわぁぁあ!? こ、こら離せ! 類の腕は食い物じゃないぞ!?」
──僕は頼まれたってこんなもの食べたくないよ。
そう言おうとして口がゆるんだところを、司くんの手で回収される。一方、腕にあいた僕の牙跡から血を流すハデ人間は、低い声でフフフと笑った後にぎろりと明確に敵意のこもった目で僕を睨んできた。
「…………司くん。やっぱりこの獣は保健所に」
「って目が据わってるが!? いいから先に怪我の手当てだっ。保健室に行くぞ!」
お前はここだ、と司くんの髪の色みたいな服の中に放り込まれる。そこはすごくあったかくて、あの不思議なにおいもいっぱいで──司くんを守れた達成感もあって、すっかり幸せな気分になった僕は完全に牙と爪を収めた。
ずっとここにいられたらいいなぁ、なんて夢を胸に思い描きながら。
その後、僕は司くんから名前をもらった。
名前は──『ルイ』──あのハデ人間と同じで少し嫌だったのだけど、司くんがあんまりにも楽しそうに、嬉しそうに笑うものだから。
僕は大人しく受け入れて。
そうして、僕達は一緒に過ごす事となった。