【たまにはメンテナンスを】
「司くん……」
心配そうに眉尻を下げた類の両手で、ぎゅっと手を握られる。
放課後の屋上だ。類に呼び出されてここに来てからこちら、ずっと同じ問答と同じ会話を続けている。今日はフェニランでの練習も休みの日だから時間はあるが、いい加減にうんざりだった。
オレはややオーバーにため息をついて繰り返す。
「何度も言うが、本当に何もない」
「嘘だ。じゃあどうして、今日一日そんなに口数が少ないんだい?」
「いや普通に喋っていたが……」
自分の行動の記憶をざっと遡って思い出してみたものの、類に言われるほど黙っていたような覚えはない。友人に話しかけられた世間話にも応えたし、授業中、教師に当てられた問題にもそつなく答えた。廊下ですれ違った冬弥と彰人には、逆にオレの方から話しかけたりもした。──極めていつも通り、だったはずだ。
だが、類は引き下がらない。ゆるゆると首を左右に振って、より必死にオレの手を握りしめた。
「朝から一度も君の声が聞こえてこなかった。あんまりにも聞こえてこないから、てっきり休みかと思ったくらいなんだよ。それにお昼だって一緒に食べたけど上の空だったじゃないか。とても普通には見えないよ」
「それはショーのことで考え事をしていたと言っただろう」
「司くん……」
何度聞いたかしれない、不安で彩られた声をもらして。類の両腕がオレを包み込むように抱き締めた。
「ロボットにメンテナンスが必要なように、人間にだってメンテナンスが必要なんだよ。身体の具合が悪ければ言ってほしいんだ。つらいことがあるなら──」
「っ……だから、オレはなんともないんだっ!」
ついつい声を荒げて、目の前の胸板を突き飛ばすように押し返してしまった。苛立っていたから──なんて、言い訳だ。腕の戒めから脱出し、大きく後ろに一歩下がって悲しそうな類の顔が見えた瞬間に、オレは自分がやったことを客観的に理解して。死ぬほど後悔した。
──すまない──
すぐさま謝罪を告げようとした、その時。
あれほど悲哀を滲ませていた柳眉が──ギッと鋭角につり上がった。
美人を怒らせると怖いというが、まさにそれだ。なまじ整った顔立ちだけに、背筋に冷たいものが走るほどの迫力がある。もちろん、その表情だけで類の内心は容易に想像がついたが、だからといって今さらどうにかなるものではなく。結局、言いかけた謝罪の言葉すら喉に詰まらせて口をパクパクさせていると──突然腕を伸ばしてきた類は、有無を言わせぬ力でオレを抱き寄せて。強引に唇で口を塞いできた。
「んぅっ!?」
うめいても、もがいても。唇は離れない。
それどころか舌が無理矢理に唇を割って口内へ入ってきて、蹂躙し始める。
「んンぅっ、ん、んむーっ!」
──やめろ類、離せ!
音だけになるそんな言葉が通じるわけもない。類の舌は頬の内側を撫で、オレの舌を弄び続ける。ざらりとした熱いそれに触れられる度に緩い快感が背筋をざわつかせて──そして、その舌先がオレの奥歯へ触れた。直後だ。
──ズキィィィン!!
「っぅううぅぅうう!?」
一気に脳天を貫いた激痛に完全に凍りつく。そんなオレの様子に何か気づいたらしい類は、やっと唇を離して舌を退かせた。
「…………司くん。君、まさか」
「ぉ……ぉ、ぅ、うぉぅぅ……」
痛みの余韻もあったが、もはや言葉を紡ごうと口を動かすだけでズキズキと痛みが走る始末で、まるで獣の鳴き声のようなものしか発せられない。限界点を越えた痛みで押し出された生理的な涙に滲む視界の中、安堵に表情を緩ませた類がふぅと息をはいた。
「なるほど。虫歯、我慢してたんだね」
「はぅ、ぁ、うぅうぅ……」
「確かに以前から気になる箇所はあったけれど、まさかそこまで深くなっていたとはね」
「う……いっえ、いあおあ……?」
──知っていたのか?
母音だけで紡いだ言葉だったが、類は簡単に理解したらしい。しっかりと首を縦に振った。
「知っていたというか、頻繁にディープキスをしている内に必然的に気づいたと言うべきかな。もっと早く教えてあげれば良かったね」
「うー…………」
全く意味がないとわかっていたが、痛みを訴えるところを頬肉越しに押さえて呻いていると、類はくすりと笑った。
「でも、メンテナンスが必要って言葉が嘘でないのはわかっただろう? まぁかくいう僕も、人のことは言えな……──っ!」
心底、気を緩ませてしまっていたのだろう。言葉の途中で、しまった、と言わんばかりの顔で慌てて手で口を塞いだ。類にしてはひどく珍しい事だった。
──人のことは言えない、か。
途中で断たれたその言葉を頭の中で何度も何度も繰り返すオレを、橙色の夕日を浴びて濃くなったシトリンの瞳が恐る恐る見やる。
「……司くん。今のは」
「ふ……はは、ハーッハッハッハ!」
「司くん──」
「じっとしていろ、類ぃぃぃ!!」
類の首根っこにがっしりと腕を回して、今度はオレの方から唇を重ねる。そして同じように舌を類の口内へねじ込み、雑に歯列をなぞっていくと、オレとは真逆の位置の──親知らずだろうか──辺りをつついた瞬間。類の喉で絶叫がほとばしった。
「んんんんんぅぅうぅ!?」
声が収まったのを見計らって唇を解放してやる。と、類もオレと同様に頬をぐっと押さえながら──目に大粒の涙を浮かべて、言った。
「っ……つ、司くん」
「……なんだ」
「…………一緒に、歯医者に行こうじゃないか」
「……ああ……そうだな」
暮れなずむ屋上で。
オレと類はスマホを片手に、学校から一番近い歯医者へ早速予約を入れたのだった。