【ツカサ・イン・ワンツーランド】
目を覚ますと、そこは雪国──
ではなく。見も知らぬ外国の庭園のような場所だった。辺りにはうっすらとした霧がかかっているが、手入れされて整った植木や、綺麗に咲き誇った様々な色のバラが植わっているのが見える。しかし、周囲にそれ以上の情報は無い。ぼんやりとする頭を軽く左右に振ってもみるが、痛みなどがないのを確認出来ただけで状況に変化はなかった。
「なんだここは? オレは一体……?」
目を閉じて記憶を漁る。
……思い出せない。何をしていたのか。どこにいたのか。一人だったのか、誰かといたのかさえ、さっぱりだ。
唯一確かなのは、
(オレが『天馬司』だということだけだ)
神高の二年で、ワンダーランズ×ショウタイムの座長。それだけははっきりと思い出せる。果たしてそんなパーソナルデータが今この場で役に立つのかは謎だが、まあ全く何もわからないよりはマシだろう。少なくとも探す対象を定められる。
──ひとまず、顔見知りがいないかを探してみるとしよう。
そう決めて立ち上がった時だった。脚がいやにスースーとするのに気がついた。だがこれは目線を下ろしてみればすぐに原因が知れた。
オレが着ていたのは制服でもショー衣装でも、ましてや私服でもない。水色のドレスに、襟とフリルがついた白いエプロンだったのだ。さらに、縦縞模様の入ったストッキングに、黒いストラップシューズ……。
間違いない。この格好は『アリス』だ。
(だが何故こんな格好を……?)
ドレスの裾をつまんで、くるりと一回転する。服の寸法も靴のサイズもぴったりなようだ。動くのに何ら問題はない。
アリスの格好で何かを演じている最中だったのだろうか。男のオレが少女を演じるというのはワンダーステージでのショーでもやったことはないが、少女役もこなせてこそのスターだ。その必要があればオレはやるだろうし、全くあり得ない話でもない。
──ダメだ。まったくわからん。
大きくため息をついて背伸びをした。とりあえず、立ち止まっていても埒があかない。
(適当に歩いてみるか)
見回すと、植木の壁で出来た道が左右に延びていた。どちらも道の先まではうかがい知れない。オレは人差し指を立てて──ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な──と歌を口ずさみながら左右を交互に指さし、歌い終わりと同時に手の動きを止めた。結果、指をさしていたのは……左方向。解決の糸口があればいいが、と決まった方向へさっさと歩き出した。
が。
二メートルも歩いていない内に、背後──選ばなかった右方向から声が近付いてきた。
「まずい、徹夜していたせいで寝過ごしてしまったよ、これは遅刻……おっと間に合ったみたいだ。やあ司くん!」
誰何するどころか、振り向かなくても声の主が知れた。これは間違いなく知っている相手だ。いま聞いた言葉を素直に信じるなら向こうがオレを目当てにやってきたようだが、そのうきうきした声になんとなく嫌な予感がして、つい怪訝に振り向いてしまった。
そこにいたのは、やっぱり類だった。ただしオレとは違って黒のタキシード姿で白いウサギの耳をつけており、ついでにやたらと大きな袋を担いでいる。
「…………やっぱり類か」
「おや、顔色が良くないね。どうかしたのかい?」
「いやちょっと嫌な予感がだな」
「そうかい? 僕は楽しい予感しかしないよ?」
「お前はそうだろうな」
半眼でうめくと、類はポケットから懐中時計を取り出して一人うなずいた。
「時刻はちょっと過ぎてしまっているけれど、それはご愛嬌。そろそろ物語を始めようじゃないか」
「物語? 類はここがどこか知っているのか?」
と、類は袋をどさっという音と共に地面におろし、舞台上の挨拶よろしく大きく両手を広げた。
「フフッ。おかしなことを聞くね。ここは僕達のセカイ──不思議で愉快なワンツーランドじゃないか!」
「わ、わんつー……?」
「そうだとも。君もその格好で気づかないかい?」
言われるがままに改めて自分の服装を見ると、類が楽しそうに笑って軽快に手を打ち鳴らした。
「そう! 君はとても可愛いんだよ!」
「……類。すまん、さしものオレもついていけんのだが」
「おや」
目をぱちくりさせる、類。服装がいつもと違うだけだと思ったが、もしかしてこの類はオレの知っている『神代類』ではないのだろうか。だとしたら、いよいよこの場所の謎が深まってくるのだが。
「類。聞きたいんだが、これはアリスではないのか?」
青いドレスの裾をつまんで小首をかしげる。類は演出をつける時によくみせるアレな顔で──あぁやっぱり可愛いねぇ!──力説したが、オレの冷ややかな視線に気付くなり咳払いをして誤魔化してきた。
「うん、ベースはアリスだね。ただ、このワンツーランドには僕と君の二人だけだから」
「だから?」
反復すると、類がぴしっとオレを指差した。
「君がアリスで、僕がその他全部だ」
「待て待て待て待てぇ!? お前が忙しすぎるだろう!?」
「仕方がないよ。アリスである君が他の役をしたら、場面が成り立たなくなってしまうじゃないか」
かといって他に誰もいないしね。
そう言いながら類が袋を開けて、ごそごそと中を漁る。取り出されたのは小さなカップケーキと謎の小瓶、それに怪しい水玉模様の赤いキノコ。それらが地面へ整然と並べられる。最後に猫耳を取り出した類はウサギの耳とそれを付け替えた後に再び咳払いした。
「まぁそういうわけで僕一人だから色々とはしょらせてもらうけれど、とりあえずアリスは色々食べるからね。君の嫌いな虫は省いて、大まかに揃えさせてもらったよ」
「む、虫に関しては感謝する。だがこれは全部食べられるものなのか?」
何故かはっきりと思い出せないが、腹痛で大変な目に遇ったことがある気がする。もっとも、そんな記憶がなかったとしても食べられるかどうかの確認は大事だろう。まともそうな外見はカップケーキだけだが──と答えを待っていると、類は袋の中から猫の尻尾も取り出してお尻に装着しながら、視線を空中へ彷徨わせた。
「そうだねぇ。適当に持ってきたんだけど……消費期限が半月切れたカップケーキと、僕が適当に調合した薬入りの小瓶、それと来る途中にすれ違った配管工からもらった赤いキノコだから──大丈夫じゃないかな?」
「その説明のどこに大丈夫な要素があったぁあああ!?」
全力でツッコむが、類の耳には──届いているはずなのだが完全に無視された。袋からつばの広い帽子を取り出した類は、指先でくるくる回して笑う。
「知ってるかい、司くん。消費期限は安全に食べられる期間の表示だけれど、それを過ぎて食べたからといって問題はないんだよ」
「ん? そ、そうだったか?」
「ああ。何かあっても自己責任になるだけさ♡」
「問題大有りだなーーーー!?」
と、帽子を回すのを止めて地面に置いた類が、また袋に手を突っ込んだ。
次に出してきたのはトランプ柄のウェストコートだ。類はおもむろに黒いジャケットを脱ぐと、それを身につけて大きく息を吐き出す。オレは足元に放置された食べ物(ではなかった物)とウサギの耳、帽子、黒いジャケットを眺めて首をひねった。
「……類。さっきから何をしてるんだ?」
「え? だから他の役だよ」
「他の?」
「ほら、最初は白ウサギだっただろう? それからチェシャ猫。三月ウサギは省略して帽子屋。そしてこれが庭師兼、兵士だ」
次々指を指して説明していく類の言葉に、なるほど、と納得する。物語と全く同じ展開で全部をこなすのであれば大変だが、こういうやり方でなら複数の役が可能というわけだ。もっとも、さすがにたくさんの客を前にしたショーでは、この手法は通じない気もするが。
──だが、そうなると次は何が来るのか。
昔読んだきりのおぼろげなアリスの話を思い返しつつ、類を見やる。
「そうなると、次はハートの女王か?」
「そうなんだけど、裁判のくだり位はやっておきたいんだよ」
「ここまでお前の着せ替えだけで話が進んでいるしな」
「だからちょっと裁判所を急ごしらえで──ああ、この植木をどうにかすればいけそうだね」
類が袋に手を入れる。また何かの小道具かと呑気に眺めていたオレの前で引っ張り出されたのは、どこに入っていたのかと思うサイズの鉈だ。予想もしていなかった道具の登場に、知らずひきつった声がもれる。
だが類は気付かなかったのか、綺麗に揃えられていた植木の壁を鉈でざっくんざっくんと勢いよく蹴散らし始めた。
「あ、ちなみに! これは! 庭師だよ!」
「そ、そうか」
「やる事が……やる事が多い……!」
「あー……アリス以外の全部をやればそうだろうな……」
それでも息を切らさず、汗ひとつもかかずにやっている辺りは類だ。もしオレだったら、さすがに鉈を振り回している間に大分と息切れを起こしていそうだ。今でもそれなりに動けているつもりだが、類の演出に応えきる為にはやはりもっと体力作りが必要だろうか。……そんなことを考えながら見れば、この赤いキノコは体力がつきそうにも思える。
一か八か試してみるか。
誘惑にごくりと喉を鳴らした、直後。
「さあ出来た。裁判所だ!」
「早くないか!? ……って、これは……テーブル、か?」
緑の壁のようだった植木は三分の二ほど削られていた。削られていたが、それだけだった。それならと目を細めて頑張って見れば、長テーブルくらいになら見えなくはなかった。が、それにしてもそれだけだった。
オレは頭に浮かべていた裁判所の風景をそっと頭の奥にしまいこみ、類の肩に優しく手を置いた。
「類。今度、オレも一緒に作るからな」
「ありがとう司くん。でも、アリスである君の手はわずらわせないよ。僕の演出でこれを裁判所に変えてみせる……!」
意気込んだ類が袋をひっつかんだかと思うと、突然まっ逆さまにひっくり返した。この袋のどこに入っていたんだと驚くほどの数の品々が地面にばらまかれる。類はそこから小さな王冠をかぶったぬいぐるみ──いつも使っている紫のドローンと同じ形をしている──と、にわとりのぬいぐるみを取ると、長方形の植木を挟んで向かい合う形に設置した。
仕上げに植木の上へ力強くバインダーを置き、胸を張る。
「これでどうだい!?」
「……何かの受け付けの係の人と、来訪者だな」
「司くん! 考えるんじゃない、感じるんだ! 超アリス人たる君になら出来るはずだよ!」
「突然金髪になる戦闘民族みたいな役だったか、アリスは……?」
一応、言われたことを踏まえて注視する。
確かに何もないよりは──あくまで全く何もないよりかは──そう見えてこないこともない、気が、しなくもないかもしれない。が。
──どのみち、全く訳がわからん。
類には悪いが完全にお手上げだ。というか今思い出したが、そもそもこうしてアリスの物語をなぞることに何の意味があるのかもオレはわかっていない。そういえば類から答えを引き出す前に、なし崩しで流されてしまっていた。話を戻さなければ。
「類、とりあえず裁判はこれでいいとして」
どうすればここから出られるんだ。
そう尋ねようとしたのに、うんうん頷いた類は何故かウサギの耳を拾い上げて再装着すると猫耳を投げ捨て、オレの手を握って歩き始めた。
「お、おい類っ、一体どこに」
「目玉にしていた裁判のくだりは終わったからね。ここから第二幕だよ」
「二幕!? まだ何かあるのか!?」
途中に見えた、植木の壁に強引にねじ込まれたような手鏡が気になったものの。鼻唄混じりで先導する類に引っ張られながら辿り着いたのは、ほんの十メートルほど歩いた所だった。もちろん景色もさっきまでと何も変わらない。ただただ庭園の中で、それ以外は何も見えない。
類はオレの手を解放するとまた両手を広げて仰々しく一礼し、翻したその手で植木の壁を指し示した。
「ということで、ここに卵を用意したよ。さぁこれをハンプティダンプティと思っておくれ!」
「……って、なんだこの卵はーーー!?」
植木の壁に絶妙なバランスで立っていたのは、軽く人間の子供サイズはありそうな卵だ。黒い帽子をくっつけられてマジックで顔も書かれている為、遠目にみれば動く卵に……見えるのかもしれない。だが一番の問題は、こんな恐竜の卵のような物は間違いなく現実に存在し得ないことだった。
「どこからこんなものを持ってきた!?」
「ああ、森の方に怪鳥の夫婦がいてね。僕が勝手にトゥイードルディとトゥイードルダムって名前をつけたんだけど、その巣に丁度良い大きさのそれがあったからちょっと拝借したんだ」
──キシャァァアアア!
その話が聞こえたかのようなタイミングで、空をつんざくような甲高い鳴き声が響き渡る。類の言う怪鳥とやらの怒りの声に違いない。しかもその声は徐々にこちらへと近付いてきていた。
もはや行く宛もない事など気にしていられない。慌てて走り出した。一方、しれっと並走してきた類は大して危機も感じていない飄々とした笑顔。オレは声の方角を指さして叫んだ。
「名前はともかく、アリスに怪鳥なんて出てきたか!? しかも夫婦だぞ!?」
「ここは不思議と愉快の国、ワンツーランドだよ。いると思えば何でもいるとも!」
「いると思うないないと思え、あと盗んでくるなーーー!!」
「僕が罪を犯したっていうのかい!? ひどい、濡れ衣だよ! 僕は借りてきただけなのに!」
「どうやって借りた!?」
「『拝啓。お子様をお借りします。敬具』……っていう書き置きを残してきたのさ!」
「む、それならば……って鳥が字を読めるかあぁぁああ!!」
右に左にとむちゃくちゃに道を曲がりながら、全速力で駆け抜ける。しかし、声はどんどん近付いてきた。もはや学校のチャイムほどの大きさで聞こえてくる声に戦慄して声の方を見上げると、淡い水色の空をバックに、片翼四メートルはありそうな二羽の怪鳥が──これまた向こうも全速力らしい速度で追ってきていた。
──ああ、これは確かにあの卵の親だな。
妙なことに納得してしまう。
「……いやいやいやあれは怪鳥というかモンスターだろうが!?」
「一狩りいくかい?」
「オトモも装備もないアリスがハンターになれるかぁぁああ!!」
「オトモなら僕がなれるよ! ほら、猫耳があるからね!」
「そーいう問題ではないからなーーー!?」
どこから取り出したのか、また片手に新たな猫耳をスタンバイしていた類が残念そうに眉尻を下げて──なぜかそのまま頭につけた。重なったウサギ耳と猫耳が、走る振動でばちんばちんぶつかり合っている。存外、うるさい。
だが音など些細な問題だった。ぐんぐん距離を詰めてくる、怪鳥。その巨体が作る影が、とうとうオレ達に被さってきてしまった。
もうダメだ、食われる──!
「!?」
オレはぎゅっと目をつむった──
◆
「…………ん、……つかさ……ん、──司くんっ?」
「んあぁぁあっ!?」
つむっていた目を開いて飛び起きると、間近にあったシトリンの瞳がぱちくりと小刻みにまばたきを繰り返した。
「大丈夫かい、司くん?」
「類っ! 怪鳥は! 夫婦は! オレの手足はあるか!?」
「フフッ。意味がよくわからないけれど、手足はあるよ」
ほら、とオレの手をすくいあげた類の唇が手の甲に落ちる。その柔らかい感触といつも通りの類に、口から飛び出しそうなほどバクバクしていた心臓が落ち着きを取り戻していく。よくよく周りを見てみれば、オレ達がいるのはあのワンツーランドとかいう謎の場所ではなく、見慣れたワンダーランドのセカイだった。
……そうだ。確かオレは、緑化委員会の仕事で少し遅くなるという類をセカイで待っていた。そこで空き時間を有効に活用しようと、ルカがよく昼寝をしている芝生の上で脚本のノートを広げたはいいが、ここ最近の寝不足がたたって寝こけてしまっていたらしい。その証拠に、傍らにはミミズがのたくったような字が走ったノートが落ちていた。
「司くん? 随分うなされていたし、どこか具合でも良くないのかい?」
心配げに表情を曇らせた類が──いつぞやのオレと同じく、熱を測ろうとしたのだろう──額をこつんと当ててきた。しかし、もちろん体調に問題がないオレは苦笑いで類の胸をぽんぽんと軽く叩いた。
「身体はなんともない。……ちょっと疲れる悪夢を見てな」
「ああ、それで。体調に問題がないならいいけれど、あまり無理はしないようにね」
今度は額に、ちゅ、と口づけされる。夢の中の類はとんでもない方向に暴走しきりで心臓がもたないと思ったが、現実の類は類で二人きりの時にはやたらとキスの雨を降らせてくるのだから、違う意味で心臓に悪い。
「わ、わかった。心配させてしまって悪かったな」
熱くなる顔を誤魔化すように深くうつむいてノートを拾い上げる。ふふっと吐息で笑うのが聞こえてきたが、敢えて聞こえていないフリをしていると類はそれ以上追及はしてこなかった。代わりに自分の鞄を開いて、中をごそごそ漁る。
「ああ、そうだ。今度のショーはおとぎ話とかそういった物をモチーフにしようという話だっただろう? おとぎ話とは少し違うけれど、これも有名な物語だからどうかと思って本を持ってきたんだ。司くんは読んだことあるかい?」
類が差し出してきたのは二冊の本だ。
──『不思議の国のアリス』。
──『鏡の国のアリス』。
オレはタイトルを数秒凝視した後、頭を抱え。きっぱり言いきった。
「違う話にするぞ」
結局。
オレ達の次のショーのモチーフは、えむと寧々が選んだおとぎ話に決まったのだった。