Last drop of my blood3目覚めの嵐。
それは夜の帳の中で殻を破ろうと閃光の罅を走らせる。
地下の大聖堂には雷光は届かず、ただ重い沈黙が時折雷鳴で揺らめくくらいであった。日本支部上層部も流石に管轄区域の本部からの来賓にモニター越しとはいかず、主祭壇前に設置されたテーブル前で彼らを出迎える。中央通路右手に日本支部の幹部祓魔官たちが控え、左手にエクソシスム・アクシズのアジア・オセアニア環太平洋本部のエクソシストたちが控え、緊迫感で沈黙が更に重く感じる空間になっていた。
「ようこそ。遠路遥々おいでくださいました。枢機卿」
日本側から歓迎の言葉が掛けられるが、枢機卿は微動だにしない。初老とは思えない鋭い眼差しが出迎えた3人の大司教に突き刺さる。
「私は有限なる時間を最も尊ぶ。本題に入りたい」
「……御意」
テーブルにつくと早速一人の日本人の名前が挙げられた。
「乙骨憂太はどこにいる?」
上層部は沈黙したままだった。乙骨に疑わしい気配があると報告を受け、尾行中に悪魔との戦闘が勃発したのがひと月前。本部には乙骨への尾行は伏せて、遭遇した受肉体の祓魔としか報告していない。そして五条に一回目の処刑執行を命じたのがおよそ2週間前。乙骨の生得的資質が発覚したのが日付変更前の昼。余りにも本部の動きが早すぎる。
「彼は特級悪魔の加護を受けた危険人物だ。現在処刑対象として監視を続けている」
「ではその身柄は本部が預かろう」
枢機卿の提案に上層部は揃って目を伏せる。上層部三人は示し合わずとも同じことを考えたに違いない。
早く乙骨憂太を処刑しなければ、と。
「それはちょーっと無理なご相談ですね。アンドレイ枢機卿」
相対するテーブルの中央に一瞬にして現れたのは、この場で知らない者はいない特級祓魔官の五条であった。
「ご無沙汰してます。あ、紹介しますよ」
五条が隠していた腕を緩め、キャソックと一体化していた乙骨がアンドレイに振り返る。
「乙骨憂太くんでーす」
聖堂内に響く能天気な声で、厳粛な雰囲気との落差を激しくされた乙骨は戸惑い五条と周囲を見回す。まだ青年になりかけの姿に聖堂が漸く騒然となった。
「五条悟、何をしている!」
背後から怒りに震える声が掛かった。
処刑を再度命じたはずだとは言えず、大司教達は歯噛みする。
「いやぁ丁度いいところで枢機卿がいらっしゃったんで、彼の所属を決めて貰おうかなと思いまして」
エクソシスト、日本では祓魔官達は基本所属は居住地であることが前提だが、人員のバランスや能力を考慮し、本部が所属を決めることがある。
「あ、ご安心ください。何処の所属になろうと僕がちゃんと一人前の祓魔官になるまで指導しますんで」
笑みを貼り付けた五条が乙骨の肩に手を添える。アンドレイが眉を顰めた。
「つまりそなたが乙骨憂太の指導をする為、所属は本部であろうと日本に在住させる、ということか?」
「えぇ、仰る通りです。本部よりも僕の側の方が安全です。枢機卿もそう思いますよね?それに彼のポテンシャルを開花できるのは僕以外にいないでしょう?」
背後を向けたままの五条が勝手に話を進めてしまい、危機感を募らせた大司教の一人が机に拳をめり込ませた。
「勝手なことを!その者は特級…!」
「枢機卿とのお話の最中なんでね。お静かに」
五条が殺意を込めた一瞥を投げると大司教は竦み上がって息さえ止めてしまう。アンドレイは白髪交じりの髭を指先で撫でながらその様子を眺めて逡巡する。
「……ふむ。今この時を以て乙骨憂太はアジア・オセアニア環太平洋本部所属のエクソシストとして登録する。私の部下を預けるが召喚命令には必ず応じること。また万が一でも部下が死亡した場合、五条悟、そなたは無条件で死刑に処す」
全部は聞き取れずとも五条の名前の後に、唱えられた「Death」という単語に乙骨は目を瞠る。真逆に五条は満足そうに笑みを零していた。
「その条件、喜んで受けますよ」
(死…?死って……五条さんが?)
乙骨が五条を見上げたとき、聖堂の雰囲気が一転したことを感じる。思惑が錯綜した聖堂内は乙骨に視線が集中していた。
「……っ」
今の枢機卿の提案で乙骨を巡る状況が三つ巴から四つ巴に変化した。
「同じ本部所属なら歓迎パーティーでもしようか?」
皮肉を込めた一人のエクソシストの発言に本部側のエクソシスト達は盛り上がり始める。英語、マンダリン、ヒンディー語、マレー語などの様々な言語が乙骨に集中豪雨のように降り注ぐ。
「それはいい案だ。なぁユータ?」
「この地下は辛気くさい。我々の滞在先でどうだ?」
好き勝手に話し始めたエクソシスト達がそれぞれの言語でパーティー開催を仕向ける中、日本の祓魔官達も応戦する。
「新入りの歓迎パーティーなんて聞いたことない」
「そんなことをしてるから腑抜けたエクソシストが多いんだ!」
「他の支部からの派遣要請に接待受けてるお前たちが言える義理か?」
「ユータ!広い視野には広い交友関係だ!もう我々は友人だ!な!もてなしたいんだ!」
乙骨を日本側から引き離そうとする本部側とそれを阻止したい日本側の問答が厳かな聖堂内に溢れ、どの言葉も視線も乙骨に恐怖を与えた。ショーで浴びる視線や言葉とは全く違う。それらは乙骨の内部を暴こうと鋭い爪のように彼の輪郭を掻き毟った。
「……tacete」
五条の地を這うような声に聖堂はあるべき沈黙を取り戻し、視線と言葉の洪水で溺れそうだった乙骨は呼吸を取り戻せた。
「じゃ、そういうことで。帰ろっか」
静まり返った聖堂の中で五条の明るい声が木霊する。乙骨の前に出た五条が牽制で睨みを効かせている間は身動きが取れなかった大衆が、彼が背後を向けると動き出す。
英語で「待て」と言葉を発したエクソシストが鞭を振るうが、五条にボディが届く直前でピタリと止まる。
「じゃあね」
「わ…!」
五条が乙骨の背後に手を回して肩を掴むと見せ付けるように抱き寄せて、乙骨から見えないように、それはそれはいい笑顔を浮かべて大衆の前から忽然と消えた。
春寒を挟みながらも冬は静かに去り、春は瞬く間に彩りを運ぶ。それも早足で通り過ぎていった。早すぎる春の後に訪れた夏は湿気と強い日差しを腰を据えて届けいた。
『13:30 新宿御苑』
昨日送られたメッセージに従い、駐車場に停めたセダンの助手席から降りて五条は一人で新宿御苑の中を進む。大木戸門から入園してほど近い玉藻池の畔で日傘を差している少女を見つけた。
「やぁ」
「あっちに休憩所があるの、座りましょう」
少女に促されて五条は休憩所まで無言で歩く。
「私も人払いはしてるから」
少女が屋根の下に入ると日傘を畳み、庭を眺められるベンチに座ると五条は自動販売機で飲み物を選びはじめる。
「憂太は?」
「駐車場にいるよ。寝てるけど」
「そう」
五条から宙を伝うように渡されたスマホを受け取り、少女はギャラリーを眺める。ギャラリーの写真は五条が撮った乙骨の写真や動画が収められている。
「友達、できたのね」
スワイプして出てきた画像には乙骨と同じマンションに住む同年代の友人が一緒に映っている。
「あぁ祓魔塾の子たち。夜間の祓魔実戦で組んだり、任務も一緒に行ってるよ」
「良かった」
少女は安堵の微笑みを浮かべ次の画像へスワイプする。
「エクソシスト達の動向は?」
「そうだねぇ。とりあえず日本支部の憂太の処刑は撤回された。あんなに処刑処刑って言ってたのが嘘みたいに憂太の警護に手厚くなってくれてる」
五条がプリンシェイクのボタンを押して、取り出し口を覗き込む。少女は先程とは違った色の笑みを浮かべていた。
「日本支部は貴方という駒で、好きに動けていたし他の支部にはない権限も得ていた。憂太が悪魔側に渡る以上に本部や他の人間に渡る方を避けたい。けれど貴方を失うわけにはいかない。だから憂太を守るしかない」
ドリンクを素早く振った五条が少女が座るベンチの端に腰掛ける。
「そ!憂太が本部に渡ったら途中経過はどうあれ、パワーバランス変わっちゃうけど、僕の抹消を免れるなら背に腹は代えられないからね」
「……これだから人間は」
呆れきった少女の声は冷めた声音だ。だが、次の乙骨の画像が表示されると表情だけは穏やかになる。
「逆に本部の大多数は憂太を何としても手に入れたい。僕の命を掛けて憂太の育成は保証したし、時が来たら必ず憂太は本部に召喚される。でも少数の僕の抹消を願ってやまない本部の連中は手が出せなくなる。だから今憂太の命を狙う輩も出てくる」
「それは本部も人間も関係ないでしょ?」
「あはは。そうだね。いや〜妬みって本当に怖いね」
「特級祓魔官の五条悟は簡単には殺せない。けど祓魔官になったばかりの憂太ならあるいは。あ、この写真ほしい」
乙骨がキャソックを着て佩刀している写真を五条に突きつける。
「プリントして送るよ。局留めで」
「そうして。……で、憂太はどうなの?」
少女はプリントしてほしい写真にお気に入りマークを付けていく。
「対悪魔なら昨日までに準1級まで祓魔してる。受肉体が元人間でその魂はもう存在しないことを理解したら真っ二つにしてくれたよ」
「そう。この半年でそこまで……。でも悪魔は私の加護である程度何とかなるけど問題なのは人間よ」
受肉体ではない人間が敵として現れたら。
乙骨は受肉体の悪魔と同じように屠れるだろうか。それが少女の懸念だ。
「私の加護は人間には発動しない」
「あ、やっぱり」
五条は思い出したかのように短く声を上げる。
「じゃあ一番最初に憂太を監視していた悪魔って君の配下だよね?僕が祓ったの」
「気にしてないわ。悪魔にとって仕える君主の命令は絶対。私の命令に殉死した子達は私の中で眠ってもらってるし」
五条が飲み終わった缶を自動販売機横のゴミ箱に捨てて少女に向き直る。
「ふーん。何にせよ憂太は大丈夫だよ。この半年間は僕のサポート付きの成果で報告してる。舐め腐った連中に負けるほど弱くない」
東屋を吹き抜ける風が蒸した空気を追い出してくれた。五条は少女に言い聞かせるようにもう一度開口した。
「憂太はもう大丈夫」
「…じゃあ貴方と今度会うのは暫く先ね」
「そっか」
五条はそれ以上言及せず、日差しに照らされる木々を見据える横顔を眺めた。
「憂太を離さないでね。すぐに何処かに連れて行かれちゃう子なの」
少女は視線を落としてスマホの画面を見つめる。そこには五条の撮影に気付いた乙骨がはにかむ様子が映されていた。少女は苦笑を浮かべてスマホを五条に返す。
「最後に、私のことを憂太に明かさないでいてくれてありがとう」
「え?何のこと?」
トボけた五条に少女は堪えきれなくて笑い出す。
「ふふ、貴方、結構可愛いところあるのね。まぁ私のためってわけじゃなくて憂太のためなんでしょうけど。そうね、憂太も薄々気付いているとは思う。でも……思い出は思い出のままが一番いいもの」
子供(実年齢はかなり年上だが)に笑われて、五条がほんの少し気恥ずかしそうに項を掻く。
「……憂太、見ていく?」
「ダメ。一目見たら最後。攫いたくなっちゃうもん」
少女は五条を振り返ることなく、日傘を差して休憩所を出ていった。
陽炎のように消えた少女を見送り、五条が待たせていた車に戻る。後部座席のドアを開き、そこで寝ている乙骨の頭部をゆっくりと自分の膝の上に乗せて座る。
「……あの……五条さん?」
その様子をバックミラーで凝視していた伊地知が恐る恐る声を掛けた。
どうしてそこに?座る?と混乱しているのが明らかである。
「ん?あぁ結界も限界だね。出して」
「……はい」
触らぬ五条悟に祟りなし。伊地知はそう脳内で唱えてパーキングブレーキを解除しゆっくりと車体を発進させる。
目元を隠す前髪を指先で梳いて耳に掛けると、現れた乙骨の表情に自然と目尻が下がる。その寝顔を撮影し素早く彼女に送る。彼女のスマホが使用できるのもあと僅かだろう。すぐに既読になりメッセージが飛んできた。
『ほんと貴方って子供ね!それも追加して!』
くっくっと笑いを零す五条がネットプリントの操作を始める。
「例の件、調査官からの報告が先程入りました」
伊地知の言葉にアップロードを待っているスマホからシートポケットに収納されていたタブレットに手を移す。
「結構時間かかったね。やっぱり本部に探りを入れるのは難しいか」
「それもあるのですが、どうやら本部や支部の人間以外が関わっていたようで」
本部に誰が乙骨の情報を流したのか。あまりに早い本部の動きに、支部の大司教達も内通者を水面下で探したが見つからなかったという。
「……第三者?」
五条は先程までの機嫌の良さを濯いだ無表情でタブレットに映る報告書を読み進めていった。
空調が効いた寝室。クイーンサイズのベッドサイドを、カーテンの隙間から差し込む夕陽が赤く染めていた。
乙骨が目を覚ますと最近は当然のように隣に五条が眠っている。
ショートスリーパーという彼は乙骨が目覚める3時間くらい前に一緒に寝始めるらしい。そうだとしても乙骨としては夜に眠ってほしいと思って何度も進言したが、五条はどのタイミングで寝ても同じだよと取り合ってくれない。
(普通睡眠は夜に取るものだし、僕に合わせなくても……)
自分のために五条が変化を強いられているのはどうしても嫌だった。
(僕のせいだ)
自分の命は五条の命に直結している。当時の五条曰く、処刑の命令に背き続けて、乙骨と引き離されるのを阻止するためにはああするしかなかったと。またこれで召喚までに最大2年の猶予は稼げたとも言っていた。思いもよらない方法で五条が自分を守ろうとしてくれたことに乙骨は感謝とは裏腹に悲しい気持ちになった。
(強くなりたい)
祓魔塾の同期生達と体術、剣術を磨き、魔力の使い方を五条に教わり、鍛錬に明け暮れた数ヶ月であったが、結果が伴っても乙骨の不安は拭えない。自分のことだけだったら、こんな気持ちになることはなかっただろう。
「五条さん」
控え目に声を掛けるが目覚める気配がない。五条は乙骨と一緒に眠ると寝過ごしてしまうと言っていたが、今日もそのようだ。このまま寝かせてやりたいところだが、19:30から任務が入っている。繋いだ手は五条に起きてもらわないと外れないのだ。
「五条さん、すみません。任務があるので」
優しくその肩を擦って様子見すると、ゆっくりと瞼が開かれて、微睡みから抜け出せない蒼の瞳が溶けていた。
「ん…、何時?」
「18:15ですね」
時刻を告げると五条は身体を起こして繋いでいた手を放す。自由になった乙骨はまだ眠そうな五条に首を傾げる。
「昼間、何かあったんですか?」
「ん〜。ちょっとね」
五条は疲弊していると目覚めが悪いと最近分かるようになった。こうして言葉を濁して教えてくれないことが多いが、自分に関わることなのだろうと察する。
「憂太」
「はい?」
ベッドサイドから立ち上がると声を掛けられ振り返る。五条も乙骨を追いかけるように立ち上がった。
「今日は憂太の同行には行けない。ちょっと野暮用ができちゃった。でもそろそろ単独もイケると思ってたから」
「……はい!」
「いつも教えてる通りにやって来れば大丈夫だから」
五条は常に乙骨の任務に同行していた。つまり今回初めての単独任務になる。五条の枷を軽くできる気がして、乙骨の気持ちは浮ついていた。
タオルドライした髪のまま乙骨はクローゼットからキャソックを取り出す。
インバネスコートが取り付けられたキャソックは末広がりのコートが上半身のボディーラインを隠してくれるとはいえ逆に腰の細さが目立つ。加えて腰に白のストラがセットされるので否応にも目を引くだろう。
支部で顔を挨拶を交わした祓魔官の七海はビジネススーツの上にキャソックを羽織っていたし、五条のキャソックもスリットが大きく入っていて(本人曰く蹴りやすいから)それぞれの好みに合わせてカスタマイズされていた。
七海や五条のような大人っぽい着こなしにも憧れるが、自分のために五条が用意してくれたキャソックが一番気に入っている。
キャソックに袖を通した乙骨が刀袋を肩に掛けて玄関に向かう。五条が廊下の壁に凭れてその様子を眺めていた。
「五条さんもこれから出掛けるんですか?」
「うん。もしかしたら夜明けまでに戻ってこれないかも。構わず寝てて」
「分かりました。じゃあ、行ってきます!」
「……いってらっしゃい」
まるで学校にでも行くように乙骨が明るく玄関から出ていくのを五条は苦笑を浮かべながら見送った。
新宿3丁目。
飲み屋が多く集う通りの一角は暑い季節という事もあり、外で飲む席が増えていた。とある店先のテーブルで男性二人がハイボールで乾杯を終えて今夜のショーの出演者のSNSをチェックしていた。
「やっぱり今月も出ないんかな。ユギアくん」
元々SNSを持っていなかった彼の出演スケジュールはバーの店長が告知していたが、彼の名前が挙がることはこの半年間一度もなかった。
「あー…ユギアのショーがあるといつも一番前で見てた人いるじゃん」
ハイボールの肴に出されたフィッシュアンドチップスにモルトビネガーを垂らした男が眉間にシワを寄せて記憶を探る。
「あぁ、なんかちょっと変わった人いたね。関わらない方がよさそうな……」
モルトビネガーが掛けられたフィッシュをもうひとりの男が頷きながらナイフで切り分ける。
「そうそう。そいつ半年前くらいからピタリと来なくなったじゃん。ストーカーだったらしいぞ。ストーキング中に事故にあって入院してたらしい」
「マジか、やっば」
人の失態談は料理の旨味を増すようで追加の料理を頼み、油分を押し流すようにハイボールを呷る。
「そいつがちょっと前に退院して、店長に鬼電してきたんだって。店長参ってさ、ほらあのメロンソーダのイケメンいただろ?」
「あー、あの!メロンソーダ!」
「その彼氏にバレて引き取られた。ヤバい組の人だからユギアのことは忘れろって伝えたんだって」
「何処の任侠ゲーム?適当すぎるだろ!」
「だっろ?」
運ばれてきたバッファローチキンに手を伸ばすと肉汁が滴るのを構わず齧りつく。
「そうしたらさ、そいつ。僕のこと愛してるって言ったのに!将来誓いあったのに!とか訳わからんこと叫んで電話切ったらしくてさ」
「信じるんかーい!え〜?アイドルとか声優にそういう類のやつのリプ付いてるの読んだことあるけどユギアくんにもいるんだ?」
会話に盛り上がる二人は気付かない。これからピークタイムを迎えるの遠のく喧騒にも。日没とともに消えていく周囲のテーブルにも。
「店長は変に煽っちゃったからユギアくんに暫く来ないほうが良いって伝えたらしいんだよな」
「何だよ。そいつのせいか」
「いい迷惑だよな。月に1回しか会えないのに」
肉を骨から引き剥がし、取り残された軟骨をしゃぶる口元は油でテカっていた。
「ユギアくんに会いたいな〜」
「お前もヤバい類じゃん!」
皿に残されていた骨を手に取ってしゃぶっていることに本人たちは気付いていない。このような往来の場所で話す内容ではないと普段の彼らなら分かっているが、歯止めが効かないようで大きな声が周囲に響く。
「いや、ホント、ホント言うとハメたい。絶対ケツマンコとろとろだろ?」
「だよな?ああ〜ヤバイよ!泣かせたい!」
何かが壊れたように談笑する二人の肩を同時に叩く人物がテーブルの前に佇む。
「楽しそうだね。私もその話に混ぜてくれないか?」
切れ長の一重のクールな印象を与える男性が笑みを浮かべて二人を見下ろす。ポニーテールに纏めた黒髪が肩からはらりと落ちて、二人は漸く我に返った。
「え?」
「あれ?」
新宿三丁目のブリティッシュパブではなく、不気味なほど静かで仄暗い空間に自分たちがいることにようやく気付く。店から流れるサッカーの中継も隣の席の談笑も通りを挟んで行き交う車も、何一つそこにはなかった。二人は嫌な汗を浮かべながら長髪の男を見上げる。その背後にはさきほど二人が妄想の中で犯していた『ユギア』がしとどに濡れて微笑んでいた。
「色欲の王アスモデウスの懐にようこそ」
先程の爽やかな笑みが一転、残虐性を仄めかす笑みに変わり二人は突然のことに悲鳴すら挙げられずにその影に覆われた。
日もとっぷり沈んだ繁華街。
サッカー中継は録画らしく結果が分かりきっているものを熱心に見るものはいなかった。周囲の人間が、自分がここにいることに疑問を抱かないのと同じこと。確かに小細工は念の為したがしなくても同じだったのではないか。些末なことをこれ以上考える必要はない。男はそう目を伏せる。
「お兄さんよっぽどお腹空いてたんだね?何か追加する?」
店員が骨が残された皿と2つのグラスを下げる時にそう聞いてきた。
「いや、流石にお腹いっぱいだよ」
人の欲は絶えることはない。
絶えたときは人が滅んだ時だろう。
だから悪魔も人間が滅ぶまで絶えることはない。これは自然の摂理だ。
ならば己の欲の化身に飲まれて自滅するのも自然の摂理だろう。