猫のいる生活ソファに一匹の猫がいた。いつからそこにいたのか知らぬ間に。猫はソファの上にいくつも並べている赤色のクッションの上でぐったりとうなだれていた。その毛並みは泥や血で斑色に汚れていて、本来の毛色が何色なのかわからないくらいだった。
「おい、大丈夫か?!」
オートロックの高層マンションの上階、ネズミすら侵入が難しいこの部屋にどうやって入ってきたのかとか、体の汚れに反してクッション以外に一切汚れがないことの違和感だとか、そんなことを気にする時間もない。ここ数日、窓の外で春先の冷たい雨がシトシトと降り続けていたせいかその姿はまるで凍えているようにも見える。わずかに腹や胸を上下させている猫の呼吸が今にも止まってしまいそうで、例え見知らぬ猫だとしてもその命が消えてしまうことが辛くて悲しくてたまらなかった。
それはミゲル・オハラは善人であったから。
急いでミゲルは寝室へと向かうと、プラスチック製の無機質なボックスを持ち出すと今現在は全く重要じゃない書類を床にぶちまけて空になったボックスを持ち猫のもとへ急ぐ。両手でクッションごと猫を持ち上げるとボックスの中に収めた。持ち上げた瞬間、猫が苦しそうに「ンンンッ…」と一鳴きしたものだから、ミゲルはほとんど反射的に体を動かすことができなくなってしまう。
「……君、大丈夫?」
大丈夫なわけないと返事が返ってくるはずもなく、そもそも本来活発であるはずの猫が尻尾すら動かせずきいるのだから大丈夫であるはずもない。しかしミゲルに抱えられたところで現状が改善するわけでもなく。
「大丈夫、きっと君は大丈夫。」
猫と己を励ますように言葉を言い続けた。両手に持ったボックスを揺らさないように、それでもできる限り急いで車へと向かった。重力に反するように滑り走り出した車の助手席には猫の入ったボックスがある。揺れてくれるなと願いながらアクセルを踏み込む。安全運転とはほど遠いとわかっていたが、それでも助手席にあるボックスの中、傷ついた猫に片手を添えずにはいられなかった。
「もうすぐだよ、頑張れ。」
泥と血でガサついた冷たい毛並みに血の気が引いてしまいそうだったが、その奥に温かい体温と呼吸を指先に感じられたからなんとか取り乱さずにすんでいる。猫を励ましたいと思っているのに反対に猫のかすかな体温に励まされる自分が情けない。
初めて足を踏み入れた動物病院を珍しがる余裕なんて少しもなくて、ミゲルは急いで駆け込むのだった。
「数日の入院で回復するでしょう。」
獣医からそんな話を聞いてミゲルはやっと安心することができた。何があったのかと獣医に聞かれてもたったが、数時間前に出会ったばかりの猫についてミゲルが答えられることは少ない。何を聞かれても曖昧に濁すしかできなかったが。
「あなたの猫ですか?」
獣医にそう聞かれたときになぜだか「知らない」とは言ってしまいたくなくて、とっさに「そうだ」と答えてしまったのは、この猫に対して情のようなものが湧いてきていたからだった。
数日後、病院に迎えに行くとそこには数日前とは全く違った猫がいた。その猫は珍しい青毛をしていて美しく、それでいて数日前は気づかなかったが猫は風格すら感じるほどに大きかった。獣医の話すところによると、この青毛の猫は警戒心が強いようで意識を取り戻してから一度も人への警戒心を解くことがなかったそうだ。猫にしてみれば命の恩人であるとかなんて関係ないことで、そんなに警戒心が強いのであれば爪でも立てられるかもしれないとミゲルはこわごわ手を伸ばしたが、意外なことに猫はあっさりと大人しくミゲルの腕の中に抱えられてしまった。「やっぱり飼い主さんには懐いてしますね」なんて獣医は笑いながら言っていたが、ミゲルはわけが分からずに頭の上に「?」を浮かべるばかりだった。猫は呼吸をするたびにゴロゴロと噂に聞く音まで喉から鳴らすのだからミゲルはさらに「?」を浮かべてしまう。
「一応完治したか検査するので来週また連れてきてください。ええと、……そういえば名前を聞いてしませんでしたね。」
「あ、ああ、ミゲルだ。」
このときミゲルは混乱していた。だから獣医が名前を聞いたのは猫の名前だったのだと、猫用の診察券を受け取けとるまで気づくことができなかった。
うっかり猫の名前が自分と同じになってしまったことになんだか妙な気持ちになったり、誰もこのことに疑問を持たなかったのか?と思ったりもしたが、ミゲルの用意した猫用のバスケット訂正するのも面倒に思えてしまって。
こうして猫の名前は晴れてミゲルと同じ「ミゲル」になった。
猫との生活はミゲルが想像していたよりも平穏で充実感に満ちていた。病み上がりの猫をまだ娘に会わせない方が良いだろうと彼女には秘密にしていたことも童心を思い出したみたいで楽しくて、ミゲルは時間があれば猫を構うことに時間を割いてしまうのだった。ミゲルがネットや本で知った猫の情報はなぜか猫のミゲルにはまったく役に立たなくて、しかし猫のミゲルとのゆっくりとした穏やかな歩み寄りにミゲルの好奇心はくすぐられ、猫との時間が楽しくてしかたがなかった。
そんな猫のミゲルはミゲルの直ぐ側で丸くなっている。眠ってはいないようで、青毛と同じく珍しい赤色の瞳をうっすらまぶたの隙間から覗かせていた。窓から差し込む春の温かな日差しを含んだ青毛がキラキラと輝いていた。ミゲルはそのキラキラとした毛並みにふんわりと手を当てて撫でる。
猫は首にミゲルが見たこともない時計のような首輪をしており、ときどき不規則に光ってはなにかを発信か受信しているようだったが、ミゲルはそれが一体なんなのかはまるでわからない。ただ首輪が光るたびにこの猫には帰るべき場所があるのではないかと、なんとなく察してしまう。
猫のミゲルはミゲルに撫でられながら気持ちよさそうに喉を鳴らしている。手のひらに伝わってくる猫の毛並みに含まれた春の陽気の温もりに幸せを感じずにはいられなくて。だからこそミゲルは、まだ数日も共に過ごしていないというのに、いずれ来るだろう猫のミゲルとの別れを想像して寂しさを覚えてしまうのだった。