稀代の天才。サッカーに愛された男。
そう持て囃された凪誠士郎の引退会見は、ふたつの意味で世間を騒がせた。
「突然ですが、今日を持ちまして現役のサッカー選手を引退します」
そう淡々とした表情で話す凪に、玲王は目を丸くする。その引退会見は中継されていたこともあり、SNSでは阿鼻叫喚の嵐だった。『早すぎる』『もっと凪のプレーが見たかった』『日本は失ってはいけないものを失った……。それは凪誠士郎だ』そんな言葉が濁流のようにタイムライン上を駆け抜けていく。
サッカー選手としてのプレイヤー寿命は年々上がり、三十歳を超えても現役でプレーする選手がいる中、凪は二十八歳にしてその輝かしいサッカー人生に幕を閉じた。それも、なんの前触れもなく突然に。ちょうど、在籍しているチームの契約が切れようかというタイミングで、次は何処へ行くのかとみんなが期待しているときだった。
きっと今日の会見は、移籍先の話になるのだろう。何処のチームが彼のハートを射止めたのか。受け取る予定の年俸は? 今後の目標は?
そういった話が聞けると期待していたのに、まさかの引退会見にマスコミたちも動揺していた。
「……えっと、それは本当でしょうか?」
「うん、ほんと」
「何処かのチームへ移るのではなく?」
「ううん、引退は引退だよ」
会場のざわめきが薄っぺらい液晶画面を通してでも伝わってくる。凪は、相変わらず覇気のない顔でカメラを見据えると、もう一度「凪誠士郎は、今日で現役のサッカー選手を引退します」と言った。
「それは……どうして…………」
動揺のあまり、マスコミの言葉が崩れる。だが、それを指摘する者も咎める者もいなかった。それほどまでに、会場は異様な空気に包まれていた。
「ずっと決めてたから。俺の目標はワールドカップで優勝することだったんだよね。でもそれは数年前に叶えちゃったし、今年もなんとか叶えられたから……。今度は別の夢を叶えたいなって」
凪の口から出たW杯の言葉に、玲王の耳がぴくりと反応する。
いまだに目を閉じれば、ピッチの熱と観客席から伝わる興奮、そして歓喜の声が鼓膜の裏で響く。それぐらい凪と二人で叶えた夢は鮮烈で、忘れられないものだった。
そう、こうして執務室のテレビで凪の引退会見を見ている玲王も、四年前に同様の会見を開いている。元々、金杯を手にする夢が叶ったら、すっぱりと引退するつもりでいた。そして引退後の今は、家業である御影コーポレーションを継ぎ、スポーツ振興を通してビジネスを発展させるべく、日々奔走している。W杯の夢を叶えたいま、目下の夢は事業の拡大とスポーツの発展だった。
だけど凪はどうだ。年齢的にも能力的にもまだまだやれる。だから、玲王自身も驚きだった。
そもそもそんな話、凪から一言も聞いてない。相談すら受けてねぇ……。
「では、その別の夢というのは……?」
リポーターの女性が声を震わせながら問う。凪はよくぞ聞いてくれましたとばかりに目を輝かせると、カメラに向かってひらひらと手を振った。
「ねぇ、レオ。これ見てる? 忙しいから見てないかな? まぁ、いいや。とにかく約束は守ったから、レオも俺との約束、ちゃんと守ってね」
「……は?」
突然、画面の向こうから名指しで話しかけられて、持っていたスマホと資料がバサバサと床に落ちる。
『レオって誰ですか?』『もしかして、ずっと仲が良いと言われている元日本代表選手の御影玲王さんですか?』『約束って?』と矢継ぎ早に質問してくるマスコミに、凪は心底面倒くさそうにため息をつくと、玲王、と画面越しに呼びかけた。
「そういうわけだから、俺のこと待っててね。よろしく」
※※※
凪の会見が終わったあと、玲王の携帯はずっと震えっぱなしだった。
あの凪の会見なに? っていうか、凪から現役を辞めるって聞いてたのかよ? つーか、凪とどんな約束したの?
そんなメッセージが途切れることなく送られてくる。ブルーロック時代のメンツで組んだグループチャットも、元チームメイトで組んだグループチャットも本人を置き去りにして大盛り上がりだ。そんな中、ぴこんと見慣れたアイコンが表示される。凪だ。
『やっと会見終わった〜。レオ、空港にいるから迎えよろしく』
そう送られてきたメッセージに目眩がする。こんな、公の場でメッセージを送られたら断れない。案の定、迎えに行ってやれよ! と数名から冷やかしのメッセージが届いていた。
「ったく、なんなんだよアイツ……」
相変わらずのマイペースっぷりに呆れてしまう。だけど、それ以上に玲王は困惑していた。これから凪を迎えに行くとして、どんな顔で彼に会えばいいのか分からないからだ。
凪とは頻繁にテキストや通話で連絡を取っていたが、直接会うのは数年ぶりだった。互いに忙しく、オフのタイミングが合わなかったから……というのは建前で、四年前から凪とは物理的な距離を置いている。
別に凪のことが嫌いなわけじゃない。むしろ、好きだ。好きだからこそ困るのだ。凪を追いかけているうちはよかったが、そのベクトルが自分にも向いていると気付いたとき、どうしたらいいのか分からなくなった。友愛を超えた情を凪からぶつけられて、柄にもなく逃げ出したのだ。
凪に好かれているのは嬉しい。傍に居たいと思うし、触れてみたいとも思う。だけど、
「どうしても無理なんだよなぁ……」
だって、あの凪が明確な下心を持って迫ってくるんだぞ? 逃げ出したくもなるわ。といより、ただ恥ずかしくて逃げ回っているだけなのだが。
「……ばぁや」
内線で付き人であるばぁやに繋ぐ。今でも優秀な付き人として健在するばぁやは、常にワンコールで電話に出てくれた。
「はい、なんでしょう」
「ちょっと凪のこと迎えに行ってくる」
「分かりました。お車はどうされますか?」
「いい。自分で出す」
「そうですか。ちなみに、お帰りは……」
「明日……かな。電話は全部、総務に回しておいて」
「分かりました。では、お気をつけて」
プツンと内線が切れたとき、なんで明日なんて言っちまったかなぁ、と少しだけ後悔した。これじゃあ、期待しているみたいだ。
玲王は苦笑いを零すと、近くにあった車のキーを掴んだ。
※※※
「あっ、レオだ。うぇーい、久しぶりー」
「お、まえ、なんで……!」
迎えのロータリーに着いてすぐ、凪が何食わぬ顔でエントランスから出てきた。さっきまで空港の中で引退会見をしていた選手とは思えない、堂々とした登場だ。よくまぁ、正面玄関から出てこれたものである。
「この車、新しいね。変えたんだ?」
凪はオープンカーを見るなり、すぐに助手席に滑り込んできた。しかし、トランクはそのまま。言外にトランクを積んで欲しいとアピールしてくる。
玲王はため息をつくと、一度車を降りて後部座席にトランクを放った。その間、凪は早速とばかりにスマホでゲームを起動している。
こっちはいろいろとヤキモキしていたというのに、いつもと変わらない態度の凪に頭が痛くなってきた。
「……こんなヤツ、迎えに来なきゃよかった」
「うぇー、そんなこと言わないでよ。俺はずっとレオに会いたかったんだから」
「だったらこっち見ろよ」
その一言で、凪がダッシュボードにスマホを放る。覗き込むように顔を見つめられて、じわじわと頬が熱くなるのを感じた。凪の刺すような視線に耐えきれず、慌てて顔を逸らす。
「ほら、じっと見たら見たで恥ずかしがるじゃん」
「うるせぇ!」
「とにかく、早く行こう。そろそろマスコミに見つかっちゃう」
「ハァ!? ちゃんと終わらせてきたんじゃないのかよ!?」
「いや? トイレに行くから、って適当に嘘ついて撒いてきた」
「それを早く言え!」
急いで車を回し、空港のロータリーを抜ける。
いつまで経っても飄々とした態度に、怒りを通り越して呆れてしまった。あー、風気持ちぃーと目を閉じる凪に、しゅるしゅると出かかった文句も喉の奥に引っ込んでしまう。気付けばすっかり凪のペースに呑まれていた。
「つーか、こっちでの生活はどうするんだよ?」
「暫くはホテル暮らししようかなって思ってる」
「で、そのホテルは?」
「取ってない」
「……だろうな」
そういうことをするような奴じゃない。こうして御影玲王にピックアップされたら、あとはどうにかなると思っている。そして、実際にどうにかなってしまうから良くなかった。つくづく凪に対しては甘いよなぁと思いながらも、カードキーを渡す。
「なに? これ」
「お前の部屋の鍵。うちが経営してるホテルの最上階を押さえておいた」
「さすが、レオ。かっこいー」
「本当に思ってんのかよ? それ」
「思ってるよ。今も昔も、レオはずっとかっこいいよ。それに俺、レオのこと、」
「わーー! ストップ!!」
このあとに続く言葉を先読みして凪の言葉を封じる。凪は不服だと言わんばかりに玲王を見ると、放り投げていたスマホを手繰り寄せた。
「ねぇ、それ何度目? もういい加減、面倒くさいよ」
スマホの画面を操作し、今度こそ凪がゲームを始める。おりゃ、おりゃ、と集中して画面をタップする凪を横目に、玲王は安堵の息を零した。
本当に油断も隙もあったもんじゃない。気を抜くとすぐに口説いてくる。普段は言葉数も少なく、肝心なことほど話さないくせに。今日の引退会見のこととか特に。
そんな口下手な凪の言葉を封じるのはこれで三度目だった。なるべく、そういう空気にならないよう配慮した瞬間まで数えたら、両手の指を使っても足りない。
どうしても、そういう空気になるとムズムズする。それが、凪を困らせる行為になると分かっていても。
「そろそろさ、覚悟を決めてよね」
不意にかけられた凪の言葉にドキリとする。責めるような声音に、良心が痛まないわけじゃない。
前方の信号が青から黄色、黄色から赤へと変わっていく。玲王はゆっくりと車を減速させると、横断歩道の前で止まった。ちらりと横を見れば、感情の読めない目がふたつ、こちらに向けられている。
「俺はレオとの約束、守ったよ。だから、次はレオの番ね」
そう言う凪のスマホには、珍しく『YOU WIN』の文字が浮かんでいた。
※※※
今回、凪のためにと特別に手配した部屋は、御影コーポレーションが誇る五つ星ホテルのスウィートルームだった。なお、プライベート用の作りになっているため、御影グループの重役や海外から出張してきた社員にしか貸し出していない。
そんな特別な部屋を、凪のために一ヶ月も押さえた。そんなに長くは居ないだろうが念のためだ。逆に言えば、凪に出ていく意思がない限り、いくらでも宿泊期間は伸ばせる。
「なんか、すごく良いところだね」
「嫌だったか?」
「別に嫌じゃないけど、勿体ないなって」
凪が部屋を見渡して言う。
バスルームも洗面台も二つ、おまけにキッチンやワインセラーまで備え付けてある。もはや宿泊を目的としていない、生活するための部屋だ。ひとりでは持て余してしまうだろうなとは思ったが、だからといって凪に狭い部屋を用意する気にもなれなかった。だって、凪は自分にとって唯一の宝物で、おまけに今では日本の宝だ。"日本の宝"ってことに関しては、数時間前までの話だけれど。
「電話の使い方は分かるな? 受話器を上げたらすぐフロントに繋がる。食事も掃除も洗濯もなんでもフロントに言えば用意してくれるから」
「うん、ありがとう」
「じゃあ、俺はもう行く」
凪のトランクをソファの横に置き、さっさと踵を返す。
本当はもっとゆっくり話したいところだが、自分の心臓が持ちそうになかった。昔はあんなにベタベタと凪にくっついていたのに。凪をおんぶして、ご飯を食べさせてやって、寝起きでぽやぽやしている凪の服まで着替えさせてやっていたけれど、いま思い返すとかなりぶっ飛んだ行動だったと思う。よくまぁ、甲斐甲斐しく世話ができたものだ。そのときはまだ凪のことを純粋な目で見ていたから。だから、何でもできた。だけど、いまは違う。もうそのときの無垢な気持ちには戻れない。
「待って、玲王」
そんな簡単に行かせるかとばかりに、凪が腕を掴んでくる。さすがにそれはなくない? と凪が文句を言って、ソファに引っ張られた。
「玲王と約束したよね。もう一度、ワールドカップで優勝できたら、って」
また忘れちゃったの? と冷たい声で問われて、ビクッと肩が跳ね上がる。忘れるわけがない。自分で言ったから覚えている。四年前もこうして膝を突き合わせて凪と話をした。
「忘れてない……。けど、なんでまた優勝しちゃうんだよ…………」
「玲王が望んだからでしょ。正直、どこぞのお姫様だって、こんな無茶な要求してこないよ」
するりと頬を撫でる指が、半端に流れ落ちた髪を耳にかけていく。玲王が望むなら、なんだって持ってくるけど。と言いながらも、じわじわと体重をかけてくる凪に慌てて身をよじった。
「ま、待った!」
「ダメ、もう待たない」
珍しく切羽詰まった顔で凪が追いかけてくる。こつんと互いの額が触れた。
「次は俺の夢を叶えてよ」
「……夢って、」
「俺、玲王のことが好き。最後まで一緒にいて、って言ったけど、サッカーのことだけじゃなくって、これからの人生もずっとずっと一緒にいて欲しい」
「……っ」
凪からのストレートな告白に、ぶわっと体が熱くなる。
この言葉をずっと封じてきた。封じてきた分、重みを伴って、いま自分に伸し掛かってきている。
「ねぇ、玲王は?」
「…………」
「黙ってたら分からないよ?」
つんつんと頬を突かれる。
ぜんぶ、分かってるくせに。と言って、此処で逃げるのはさすがの自分でも格好わるくて、悪手であることぐらい理解している。
「俺も、凪のことが好き……」
「ん、よくできました」
軽く触れるだけのキスを送られて、居た堪れなさに顔を逸らす。それが面白くなかったのか、ぐいっと両頬を手で包み込まれた。下からすくうように唇を奪われて、ぎゅうっと目を閉じる。
なんでガチガチになってんだろ。恋を覚えたての少女じゃあるまいし。そう自分に言い聞かせて薄っすらと目を開いたら、凪とばっちり目が合った。その瞬間、ぢゅうっと音を立てて下唇を吸われる。あっ、と思ったときには互いの舌先が触れていた。慌てて口を引き結び、凪から距離を取る。
「ほら、玲王。口開けて。べーって舌だして」
「いやいやいや、ちょっと待て! 展開が早い! っていうか、押し倒すな!!」
「は? なに言ってんの? 仏の顔も三度までだって学校で習ったでしょ? 一度目はブルーロックを出てすぐのとき。二度目は初めてワールドカップで優勝したとき。三度目はさっきの車の中で。これ以上は俺も待てないよ、玲王」
だから今すぐ覚悟を決めて。
そう言って指を絡めてきた凪に、さすがの玲王も素直に頷くことしかできなかった。