右の脇腹あたりに、シュッと香水を吹き付けた。同じように、左のウエストにも香水を吹き付ける。
とてもいい香りだ。だけど、香水を嗜む趣味があるかと聞かれたら答えはノーだ。
そもそも、どれも似たような香りに感じる。ムスク、ピオニー、シトラス……など、大まかな香りの違いこそ分かるものの、時間の移り変わりによる細やかな香りの変化まではよく分からなかった。というのも、香水をつけるようになったのは、ここ数週間の話だからだ。
きっかけは、雑誌のインタビュー記事だった。凪が女性誌のインタビューで、『いい匂いがする人が好き』と答えていたからだ。
ちなみに、実際の内容はこうだ。
――続いて、プライベートについてお聞きします。今年、次々と日本代表選手が結婚されていますが、凪選手にもそういったご予定はありますか?
――あー、そうみたいだよね。めでたいよね。俺は特にそういうのないけど。
――そうなのですね。では、今後こういった方と付き合いたいなどあれば教えてください。
――好みってこと? うーん。特にないけど……。あっ、強いていえば、いい匂いがする人が好き……かも?
――匂い、ですか。
――うん。近付いたときにふわって甘い匂いがすると、いつもいいなって思うんだよね。
以上、雑誌からの抜粋終わり。
とどのつまり、凪は匂いフェチらしかった。
いい匂いがする人が好きってムッツリかよ。と、思わなくもない。だけど、汗まみれのツンとした臭いよりは爽やかな香りの方が良いのも分かる。
玲王は凪のインタビュー記事を読むや否や、すぐにデパートに走って香水売り場をうろついた。外商に持ってきてもらうことも考えたが、できれば自分で吟味して最高の一本を見つけたい。そうしていろいろ吟味したのち、玲王は女物の香水を一本買うことにした。
ちなみに、男物の香水は重すぎて好みではなかった。甘い香りの中に渋みやスパイシーさが残るものはどうも受け付けなかったのだ。
『こちらは女性用ですが、誰が付けても上品に香りますよ』という店員の後押しで、玲王は薄ピンク色の香水を買った。その、最高の一本を、玲王は欠かさず鞄の中に入れている。
凪がこの香りに気付いてくれますように。ちょっとでも俺を意識してくれますように。
そんなささやかな願いを込めて。玲王は香水を吹き付けていた。
◆
だから、数週間経っても、凪がその香りに気付かないのは大誤算だった。
練習施設から帰るとき、凪は疲れると必ず「おんぶして〜」と甘えてくる。さすがに一九〇の大男をこの歳にもなって背負うのは恥ずかしいので引き剥がしているが、それでも肩ぐらいは貸している。だから、いつか気付いてくれるはずで、首あたりに鼻先をくっつけて「いい匂いするね」ぐらいは言ってくれるはずなのだ。少なくとも妄想の中の凪は言ってくれる。だけど、現実の凪は言ってくれない。
それが少々不服ではあるものの、玲王は今日も今日とて一縷の望みをかけて、飲み会前に香水を吹き付けた。
本来、食事の席ではあまり香水をつけない。だけど、もはや習慣になっていて、それどころかおまじないみたいになっていて、玲王は躊躇いつつも左右のウエストに香水を付けてきていた。
だけど。
(あんまり匂い、しねーのかな……)
やっぱり凪は気づかない。もしかしたら食べ物の匂いで飛んでしまっているのかも。そうでなくても、居酒屋なので煙草の匂いと混ざる。
凪の隣で食事をしていても、ついぞ気付かれることはなかった。今日も凪に何も言われないまま飲み会が終わる。
「このあと二次会、行く人ー!」
誰かの一声で、帰る人とまだまだ遊ぶ人に分かれる。
凪はたぶん行かないだろうなと思ったら、案の定ふらふらとこちらに向かって歩いてきた。そのままどんとぶつかって、肩に凭れかかってくる。
「レオ、帰ろー。眠い」
「はいはい。分かったから」
容赦なく体重をかけてくる凪の体を抱えつつ、輪の中から抜ける。凪の体を支えながら、大通りでタクシーを捕まえた。玲王の家とは正反対だが、酔ってふらふらになっている凪を放っておけない。凪だって、いい歳した大人だ。学生の頃とは違う。そう分かっているのに、惚れた弱みがこんなところでも顔を出す。
「ほら、なーぎ。ちゃんと座れ」
「んー」
もたつく凪をタクシーの奥に押し込める。玲王も乗り込んだら、すぐに凪が甘えるようにキュッと腕に抱き着いてきた。
こんなに密着しているのに、互いのアルコールの匂いが強すぎて、自分が纏ってきた匂いすらよく分からない。たぶん、凪もそうだろう。凪はスンと鼻を鳴らしたが、特に何も言わなかった。
「じゃあな、凪」
タクシーを降り、凪を玄関先まで連れていき、戸締まりをちゃんとするように言い聞かせて手を振る。名残惜しさに気持ち長く手を振っていたら、凪はポヤポヤとした顔のまま「もう帰っちゃうの?」と言った。
「どうせなら上がっていきなよ」
「いいのかよ?」
「いいに決まってるでしょ。それに俺、レオに聞きたいことあったし」
「聞きたいこと?」
「うん」
強引に凪に腕を引かれる。そのまま中に引き込まれた。
あまり無理強いはしない奴だ。だけど今の凪は、お前の意思など聞き入れない、という強い意思を感じる。さっきのとろんとした潤んだ瞳は何処へやら、眼光に鋭さが混じった。
凪はスンと鼻を鳴らすと、玲王の首筋に鼻を寄せた。
「最近、甘い匂いさせてるよね」
「気付いてたのか?」
「さすがに気付くよ。しかも女物。ねぇ、なんで?」
凪が犬みたいにスンスンと鼻を鳴らして、鼻筋や胸元に鼻先を寄せる。くすぐったさに身を捩ったら、逃げようとしていると思われたのか、玄関のドアに背中を押し付けられた。
「ここらへんから匂いがする」
凪の手が脇腹あたりを撫でる。その瞬間、ぞわりとしたものが背中を駆け抜けた。思わず、息を詰めてしまう。
「相手の匂いが移るぐらい親密なんだ?」
「……は?」
「だってそういうことでしょ?」
容赦なく、ボトムスに突っ込んでいたシャツを引っ張り出される。おい、と窘めたが、ぺろんとシャツを捲られた。
「ねぇ、どうなの? そういう相手がいるの?」
詰問じみているのに、凪の目が不安げに揺れる。違う、違うから。と首を振って答えたら、凪が安堵のような息を吐いた。玲王もほっとして息を吐く。だけど、胸を撫で下ろしたのも束の間、
「じゃあ、なんでこんな匂いさせてんの?」
と、凪の質問でまた緊張が走った。
「俺さ、レオにくっついたときに感じる甘い匂いが大好きなのに」
ねぇ、どうして? なんで? と質問攻めにあう。
凪は答えるまで解放する気がないようだ。「さっきのは嘘で、やっぱり相手がいるの?」と、否定したばかりの質問を蒸し返してくる。
「……相手は、いない」
「うん」
「ただ、お前が! いい匂いの人が好きって雑誌の記事で答えてたから!」
もうヤケクソだと言わんばかりに早口で告げる。
最悪だ。ここまで言ったら、ほとんど告白みたいなもんじゃねぇか、と無理やり凪を引き剥がして背を向けたら、またしてもドアに体を押し付けられた。
「待って」
「っ、離せ!」
「ヤダよ。それって俺の為ってことでしょ?」
「…………」
「そうだよね?」
凪の手がシャツの下、香水を吹き付けたあたりを撫でる。また、ぞわりとしたものが背中を駆け抜けた。
ぺろんと間抜けにめくれ上がったシャツの下から甘い香りが漂う。ウエストに香水を吹き付けると、服を脱いだときに一番香ると書いてあったコラムの記事を思い出して、ぶわりと全身の血が沸騰した。別に、そういうことを狙って付けて来たわけでもないのに。
「レオ、いいことを教えてあげる」
凪がちょっとだけ目を細める。
「相手のことをいい匂いだ、って思うのは、遺伝子的に惹かれてるんだって」
だから、俺、レオがこんなことしなくても、ずっと好きだったよ。いつもいい匂いがしてるなって思ってたし。
そう凪が言って、まるで飢えた獣みたいに鼻を鳴らした。