愛の為ならなんだって/尾月俺、あんたが好きですよ。
月島さん。
愛してるんです。
尾形百之助には似合わぬ真っ直ぐな言葉だと思った。
次いつ来ますか?と窺うのと同じ声音で、仄日に似た寂しげな発音で言った。
墓地で愛を伝えるのか。
魂の容物だった、朽ちた生前を思い起こすだけの滅びの場所で──否、だから、愛なのか。
「あいしてます。」
尾形百之助にとって月島基という男は、ちらりと振り返る程度の存在なのだろう。
時間が経てば忘れる。
忘れられる。
死人も、同じだ。
「すきなんです。」
御影石に掘られた父親の名前が濡れている。
洗ったばかりの石は陽光を受けて嬉しそうにも見える。
気の所為だろうか。
「聞いてますか、月島さん。」
「ああ、聞いてるよ。」
「じゃあ、こっち向いてくださいよ。」
「お前、声変わりしたなあ。イイ声になった。」
「今はそれじゃない。こっち、向いて。」
「断る。」
「何で。」
「親父が──」
見てるから、と、肌が粟立つようなことを口走った。口走ってしまった。発した言葉は取り消せない。
思考が四散する。
「あんたに何もしなかった親父でしょう?母親を殺したも同然の男なんでしょう?」
「まあなあ。」
「…もう、いいでしょう。」
「お前に何が分かるよ」
菊の花の匂いを、今日まで知らなかった。
線香の生々しさを、初めて知った。
父親が朽ちてもう十年は経つと云うのに。
尾形は制服を正しく着て、子供らしく不機嫌に、俺を見詰めていた。手を伸ばしかけたのを止めているのは俺に触れてまで振り向かせたかったのだ。
可愛い奴だ。
「百之助。」
意味を持たぬ呼び掛けは、拙いくちづけに吸い込まれる。
押し付けるだけの幼稚なキスだ。
余裕たっぷりな振る舞いにそぐわぬ接吻だ。
俺だって、好きだったよ。
恥ずかしかったんだ。
照れくさかったんだ。
好きだって知られるのが覚られるのが理解されるのが。
「やめろ、ガキ。」
顔を背けると、父と目が合った。
そのガキに手を出すのかと哂れた気がした。
「俺、あんたより背も伸びた。もう大人とは言いませんが、でも、俺は──あんたが知ってる百之助は五年前のランドセルを背負った幼いままですか?」
尾形は俺の幼馴染が家庭教師をしていた生徒だった。俺が忘れられなかった、道ならぬ想いを抱いた女性の教え子だ。
彼女もまた、俺が想いを伝える前に朽ちてしまったのだが。
彼女ももうこの世にはいないのか。いない。
父も、母も、好いた彼女も──誰も、俺を覚えている人間はいないのか。
いいや、それも違うのか。
風が吹いてどこからか桜のはなびらが舞った。
供花の匂いが強いおかげで頭が春を認識しない。
「百之助はいくつになったんだ?」
「…十六、ですけど。」
「俺は三十一だ。」
「知ってますけど。」
「腹立つなぁ…あのなぁ、犯罪なんだよ。」
笑って言うと、尾形も笑って、知ってますよと言った。
「でも俺は、月島さんが好きだったから、犯罪とか、どうでもよかったんです。」
太陽の輝きを吸った制服の、堅苦しい感触が抱擁を寄越す。
「愛してるんです、あんたを。」
そんな気持ちがかつてあったから、狂おしいほどの衝動はよく分かる。焦げついてしまうほどの好意はなりふり構う理性を無効化させるものだ。
「いいよ、分かった。」
学ランの背中を撫でて答えた。
「俺を覚えてるのは、もう、お前くらいだからな。」
後はみんな朽ちた。墓の下に眠っている。
肩に埋められた低い声が、
「うん。」
と言う。
喜怒哀楽は分からなかったが、別にそのどれでもないのだろう。
またしてもこどもみたいに口を寄せたから、顎を掴んで舌をいれてやった。
やっと顔色を変えた年下の男に笑って、
「惚れさせてみろ、くそガキ。」
と父の朽ちた証を見る。
大嫌いだった親父。
大好きだった彼女。
次はきっと尾形が朽ちて、俺を忘れるのだろう。
その前に俺が朽ちて、尾形を忘れるだろうな。