今夜のハイライトはいつ? /尾月 飯美味かったなと満足げに、少し大きくなる声が好きだ。
立ち並ぶ居酒屋から漏れる壮年の騒音もカラオケ屋前の大学生の塊も何もかも耳を素通りさせる、月島基の声が好きだ。
一杯目だけビールを飲んだ後はソフトドリンクに切り替えて、メニュー表を吟味する鋭い目が好きだ。
職人のような肉刺や胼服のあるごつごつした手が操る箸の使い方が綺麗で好きだ。
小さな口に運ばれる不相応に大きく摘ままれた飯に、胸を膨らませてはひくひくする低い鼻が少し上品には見えなくて、子供みたいに頬張って瞼を下ろし、緩慢に咀嚼するグルメな振る舞いが好きだ。
頑丈そうな分厚い身体で忙しなくアレも食うかコレも食うかと期待して饒舌になる無感情に低い声が好きだ。
何でもいいと言うと、それが一番困ると面倒な女みたいな拗ねた顔が好きだ。
美味いと言って欲しくて、幸福そうに笑って欲しくて、毎度、店は俺が選んでいる。
ネットの情報や上司や部下かから聞いた情報をいかに「偶然見つけた」と装えるかが問題で、それはただ月島に褒めて欲しいからに他ならない。
出会いは出張先の飲み屋だった。
隣の席で失恋したと飲んだくれていたサラリーマンが月島で、酔っ払いついでに面白そうだと構ったのがきっかけだった。呂律もろくに回らぬ酪酎状態だったが、飯だけは美味そうに食っていたのが子犬みたいで目が離せなかった。聞けば月島も同じ出張で偶然その居酒屋を利用していたらしく、あれよあれよと週末の夜テーブルを囲む友人になった。
失恋がその出張の所為で彼女の誕生日を祝えなかったのが原因だったと知ったのは、ごく最近の事である。
酔っ払いと質の悪い酒の匂いが充満する繁華街を抜け、帰路に就かんとする人間の騒がしさだけに引かれながら駅までの道を歩く。
「俺さ、バジルソースって得意じゃなかったんだが、今日のは本当に美味かった。」
月島の声はハリがあるのに籠っているが、聞き取りやすい。
喜んでもらえてよかったと言うと、くしゃっと笑った顔が「んふふ」と俺を見る。
酔っ払いでもないのに酔っ払いのようだ。
可愛くないのに可愛いとも思う。
「尾形はすごいなあ、いつも絶対に美味いところで、ハズレないし。彼女が羨ましいよ。」
「彼女?」
待ちに待った褒め言葉に喜びの舌鼓を打っていたというのに、聞き捨てならない発言で台無しになった。
月島の事だけ考える時間なのにと、恋人ならば言えただろうか。
「うん、彼女。」
「急に何です。」
ここ数年は色々と面倒で女性関係など皆無だ。話さなかったかと思いつつ、月島はプライベートを聞いたりしないから言ってないような気もする。
「いやあお前みたいなイケメンに恋人がいない訳ないだろ。結婚はしてなさそうだし、あ、別にセクシャリティとかもあるだろうから、こういうのは言わない方がいいんだろうな。気に障ったらすまん。」
「別に、今更って思っただけですよ。彼氏も彼女もいませんし、お察しの通り結婚もしてません。」
あなたが好きだから他は誰も必要ありませんと、後ビール三杯ほど引っ掛けていたら口が滑ったに違いない。月島に合わせてセーブしてよかったと数十分前の自分を褒める。
「へえ、そうか。まあその気になればいつでもできそうだもんな。」
その気になればあなたは俺のものになりますか──そんな風に言ってしまえば、ただの夜道も、宵風も、初夏の湿度も、失う。
「俺、実は性格悪いんでモテねえです。」
「性格悪いイケメンほどモテる世の中なのを知らんのか。」
「絶対に宇佐美の入れ知恵でしょう、それ。」
飯好きの男がもつ優しさで完全に失いはしなかったとしても、俺自身の何かは失うだろう。
それは悲しい。月島だから、悲しい。
ゆったり笑いながら隣に立ぶ足音がゆっくりになってコンクリートを歩く足音が緩む。
駅舎の明るさが網膜を刺激して痛かった。
「あーーじゃあ俺、JRなんで。月島さん、地下鉄ですよね。」
四方に分かれる通路の真ん中で改めると、視線を外してネクタイの結び目に指を掛けただけで何もしない月島は、
「俺も今日はJRだ。ホームまで送る。」
とあっさり一番端の改札口を潜った。モバイル定期に変えた方が便利だと言い続けた甲斐はあったが、スマートフォンを翳す様子はぎこちない。
「え? そうなんです? いやでもホームって。どっちにしたって家の方向逆でしょう。」
十秒とか、二十秒とか、ほんの僅かそれだけの時間でも長くいられるのなら嬉しい。
何の気まぐれか、いつの間にかふてぶてしくなった横顔を眺めて頬が緩むのを我慢する。
「もうちょっと話したいだけた。迷惑か?」
「迷惑、って──そんな事は全くないんですけど。」
「あ。でももう電車くるな。」
階段を上り、屋外のホームに吹いた風で前髪が乱れた。
月島の視線を感じて「何ですか」と聞いた声は電車の到着アナウンスに巻き込まれて消える。
次の電車に乗りますと言えば露骨に「一緒に居たい」と言ってしまうようだと思う。
離れ難くて、もう少しだけ話していたくて、余すことなく好きだと思っていたくて、月島の頬に見つけたソースだかタレだかを発見して苦笑した。
「こんなんつけて電車乗ったら、恥ずかしいですよ。」
触れた頬は肉が薄いのに柔らかい。顎に蓄えられた、指に触れた髭の硬さが何よりも生々しくて、今までになかった欲情に近い好意を覚える。初恋に溺れるみたいな、青く、新鮮で、汚い想いが湧いて、沸く。
電車が開く音で肩が跳ねた勢いを借りて「じゃあ」と手を振った。
「今度は」
月島は手を振って言う。
「ちゃんと飯以外のお前のこと、教えてもらう事にする。」
飯が美味かったと言う声とか顔とかも違う、新しい表情だった。
耳が熱い。
その表情も好きだ。
「月島さん、今度、いつ会えますか?」
──ドアが閉まります。ご注意ください。
「今度も何も、毎週末会ってるだろ。」
尾形は風に混ぜられた髪をそのままに、答えも聞かす電車に揺られて去ってしまった。
恋人はいないと聞いて浮かれて、あの男についで何も知らない事に気がついた。だからもっと話したいと衝動的に動いたのだが、あれでは不審過ぎただろう。恋人がいないからといってチャンスがあると思ってしまった自分が愚かだ。
「あれ。さっきの電車、百之助が乗ってませんでした?」
まるい声で尾形の名を言いながら現れたのは、直属の少し生意気な部下、宇佐美だ。
「宇佐美か。さっきまで一緒に飲食ってたから。」
尾形とは小学校と大学が同じらしいがこれといって仲はよくないらしく、互いに頑なに「月島を知る共通の知人」と称し合っている。
「毎週毎週よく飽きませんね。ていうか月島課長、地下鉄でしょ。何でJR?」
「さあな。」
詮索したくてうずうずしている厄介な部下をいなすのは面倒で、電骨に顔を線路に背けた。
尾形と話した時間が薄れてしまうようで嫌だと思ったのは随分と大人げない。
「今日は何食べたんです?」
「アイツが見つけて来た美味い飯。」
「百之助の努力の賜物ですよね~」
「いつも時間かけて選んでくれてるんだろうなって分かるよ。」
「ふふふ、すごい下心。」
「したごころ? アイツも好きなんだろ、飯。」
尾形は嬉しそうに飯を食い、上手そうに酒を呑む。
初めて会った時からそれが印象的で、滅多に崩れない表情があの瞬間だけ綻ぶのが気持ちよくて、毎週誘ってしまう。「美味いですね」と満足そうに言う声はいつまでも聞いていたいと思う。向こうにしてみればいい迷惑だろうが。
宇佐美は愉快そうに、馬鹿にするような顔をした。
「あっちゃ~マジですか月島課長。まあそれでもいいですけど。」
「何だそれ。」
「ああ僕の方、電車来たんで。お先で~す。」
電車の到着を告げるアナウンスが大音量で響く。
尾形を見送る時よりもずっと寂しさが募るような音で、取り残されたホームからさっさと逃げて地下鉄へと向かった。
「今度、いつ会えますか──か。」
頬を拭った尾形の指の感触が時差のように襲ってきて、苦しい。
明日でも明後日でもいいのに。
十秒でも二十秒でも長くいられるなら──他に何もいらないのに。
《了》