──「死」。それはこのテイワットの理の外に座している蛍にも存在する概念であり、いずれ訪れる未来。遠ざけることは出来ても避けることは出来ないもの。数多の危機を乗り越えて来た蛍であるが、やはりその存在には身震いする。内側から破裂しそうなほどに沸騰する高熱をもたらす病、相手の剣の切っ先が己の喉へと差し迫る戦闘、──そして生涯共にあるだろうと信じて止まなかった半身との別れ。鳥肌立つ思い出を振り返ればキリがない。もし「死」がいつしか必ず直面する最大の恐怖であるならば、生きている今という時間は覚悟を決めるための猶予とでも言うのだろうか。そのために今日まで幾度も体験したくない出来事に身を置いてきたのだろうか。
(ああ、吐き気がしそう)
もしタイムリミットがない本当の意味での自由な生を持つ者がいるとすれば、彼らはこんな蛍を見世物であるかのように笑っていそうだ。そんな存在に刃を向けることを含め未だ何も成せていないこの命。これとお別れする決意はいつ訪うのか。答えの出ない問題の答えを静まった夜に羊を数える代わりに考えるのが、あの日までの蛍の日課であった。
◆◆◆
「なあ蛍、あそこにいるのって万葉じゃないか?」
「え? ……わ、本当だ」
この日、蛍とパイモンは稲妻の影向山の麓を訪れていた。鎮守の森から二つの川を渡ったここは人の通りは多いとはいえず、見かけるものと言えば木々やたまにファデュイの姿がちらつくような場所だ。鳴神大社のお膝元といえば聞こえはいいが、多くの参拝者は山の東から登山をしていく。そのため稲妻人でさえこの辺りではあまり目にしない。少しだけ寂しいものだ。敢えて良い点をあげるとすれば、人や物の出入りがあまりなく、清涼な空気の中で木々のざわめきや生き物の走る音が心地良く聞こえることだろう。
そんな閑静な山の中で見知った顔と遭遇すれば驚きもするもの。それに、相手が「楓原万葉」であれば尚更だ。蛍たちよりも先を歩いていた彼に向け、自然と足は速度をあげていく。
「おや? 蛍、それにパイモンではないか」
「おう、久しぶりだな万葉! 元気だったか?」
こちらが背中で揺れる神の目に追いつくよりも先に蛍たちに気付いた万葉。その顔にも僅かながら驚きが浮かんでおり、この再会が意図したものではないことを察する。一度重なった縁は簡単には解けないとはこのことだろう。方法は異なるとはいえ、こうして巡り合えるのは旅の醍醐味かもしれない。今歩いた道を戻って蛍たちとの距離を縮めてくれた万葉に追いつくのは時間の問題だった。
「まさかここで出会えるとは。……もしや、お主らも青木殿の弔問に?」
簡単な再会を喜び合う言葉とこれまでの旅が恙ないことを伝え合えば、話題はすぐに現在へと移り変わる。挨拶をしながらも自然と歩みを進めた蛍たちだったが足が向かう先は同じ方向。この近辺には立ち寄る場所は多くないことから、目的地は同じであることが自然と理解出来る。そして案の定、万葉が口にした言葉は蛍たちの目的でもあった。
「うん。以前青木さんには一晩泊めてもらったことがあるの」
かつて探し物の依頼を受けこの付近を歩いていた蛍たち。その品自体は苦労の末見つけることが出来たがその時にはすでに太陽の姿はどこへやら、月が見え始める時間になってしまっていた。依頼人に届けるには遅い時間。一度洞天に戻るか悩んでいたところに出会ったのが「青木環」という人物だ。環は娘の療養のため近くに住んでおり、有名な旅人である蛍と出会えたのも何かの縁ということで一晩泊まっていかないかと提案をしてくれた女性である。……そして今回、その娘である「風見」を亡くした母親でもあった。
「半年くらい前だったのによ……。あの夜、風見はオイラたちの旅の話をすっごく楽しく聞いてくれてたのに……ううぅ」
「元気そうだったよね……」
「左様か……。青木殿はかつて彷徨っていた拙者にとっても、一晩雨を凌がせてくれた恩人でござる。風見殿には軽く挨拶をした程度ではあるが、懐深き御仁であったことは今も覚えておる」
再会に喜ぶ空気は水気を帯び真横の相棒はすすり泣く。万葉の夕暮れに紅葉舞う瞳は、日陰の中で地面からの水分を拾って重みを増したように静けさが満ちていた。彼は大事な人との別れを数度経験したようだが、そんな万葉でも未だ慣れないらしい。そんな当たり前のことを無意識に思ってしまうもそれは他人事なんかではなくて。蛍自身にも降りかかる一抹の寂しさは、「日課」を思えばこそ徐々に重みを増していくのであった。
──下を向けば目から零れ出てしまいそう。吸い込むように空を仰げば、頬には温かく、目尻には冷たく感じる風が蛍を一撫でして立ち去っていく。何処からか聞こえ出した鳥のさえずりは、立ち止まってくれない風を惜しんでいるようだ。空気のハンカチが消えてからではなく、もっと早くから強請っていれば結果は変わったのだろうか。なんて今になって数秒前の自身の行為を省みるが後悔先に立たずというやつだ。
(あれ……。そういえば、今日初めて鳥の声を聞いた気がする)
ふと、思考の逃避先で聞こえた鳥の声に違和感を抱いた蛍。その鳥の声が特段珍しかったわけではない。ただ以前探し物のためこの付近を長時間歩いていた時には飽きる程聞いてきた鳥の存在感が、今日はやけに小さく感じたのだ。
何かがおかしい気がする。歩みを止め、改めて耳を澄ましてみる。蛍は万葉ほど耳が良いわけではないが、得られる情報はある。目を閉じればパイモンがこちらに呼びかける声。そこから少し離れたところからは風が木の葉を揺する音。小動物が雑草をかき分けるような音も聞こえたが、それは蛍の近くから聞こえることはなかった。はばたく音も多くはなく、まるで生き物たちが何かを恐れ、何かから身を隠しているような雰囲気である。療養していた人間が住まう家が近くにあるというのに、だ。
「蛍。これを見てくれ」
周囲の状況を探ろうとする蛍に万葉も異変を感じ取ったのか。蛍が聴覚情報を一通り集め終わると、彼は一本の木の傍から蛍を手招きしていた。未だ状況を掴めず混乱しているパイモンには気の毒だが、今は万葉の気付きを優先させてもらおう。何せ、今蛍が感じているものだけでは余計な不安しか招きかねない。
万葉が指し示した木を見ると彼が何を言いたいのか一目で理解した。根元に生える雑草はまるで争い事があったかのように踏み荒らされ、地へと押し付けられた葉は自らの樹液と土に塗れている。そして最も異質さを醸し出しているのはもっと高い位置にあった。それは木の幹。蛍の目線とほぼ同じ高さ。そこには一つの傷が刻まれていた。
「これって……」
「うむ。剣を差す者であれば一目瞭然。……これは紛れもなく、刀傷でござる」
「え!? つまりここで誰かが戦ってたってことか!?」
パイモンが発した言葉に答える声はない。だがそれは一つの仮説の存在を認める行為でもあった。
傷周辺の樹皮がめくれている様子はなく、ただ刃による一振だけが深々と残る様はまさに「斬られた」と呼ぶに相応しい光景。魔物の本能による攻撃でも剣に振り回された人間によるものでもない。剣に慣れた者による意思ある一撃、それがこの刀傷である。
「……これは拙者が留め置こう。今は惜別に心馳せるとしよう」
予想だにしなかった光景により止まった時を動かしたのは万葉だった。思えば現在の時刻はいつもならパイモンにおやつをあげている時間。冒険者協会からの依頼をこなしてからここを訪れた為、太陽は空のてっぺんにとうに飽いてしまっている。彼の言う通り、このままここで得られない答えを見つける必要はないかもしれない。それにここで起きていることを青木一家が知っている可能性もある。どうしてもこちらが気になり、また彼らが協力を必要としてくれるのであれば、必要な情報は自ずと手に入ることだろう。
「そうだね。あまり遅くなる訳にもいかないし、今は青木さんの家に向かおうか」
「……分かった。お前らがそう言うならオイラもそうするぜ」
先程よりも僅かに重みを増した足を持ち上げ先へと進む。最後にもう一度上を見上げれば、青く澄み渡った空が木々の隙間から顔をのぞかせていた。蛍らと正反対なまでのその色合いは少し眩しいぐらいだ。耐え切れず視線を前方へと戻せば、あとは目的地を見据え空を見ることを止めるのだった。弔問を終えれば再び見ることが出来る空。その時にはこの陽光も多少はマシになると願いながら。
──そう漠然と考えていた蛍。だが結局、この日は再び明るい空を見上げることはなかったのだった。
◆◆◆
ふわりと小さな煙が燻る部屋は日常とはかけ離れた雰囲気を醸し出していた。大きな音を立ててはいけないと本能が訴える空間。普通に呼吸をすることさえ緊張が走り、出来るだけ音が立たないようにそっと口から息を吐き出す。だが静寂に包まれた室内ではそれでもうるさく聞こえた気がしてしまい慌てて息を止めてみた。……我ながら何をしているのだろう。
ふと左から小さく笑い声が聞こえた気がした。そちらを見やれば万葉が僅かに口角を上げてこちらを見ている。流されるように右側へと視線を移せば、口に手を当て、蛍のように呼吸を止めているパイモンが目に入った。どうやら稲妻の風習に不慣れな旅人のたちの姿が愉快に映ったようだ。襟巻を後ろに引っ張って物申したい気分だが、流石にここでする訳にいかない為不服である旨を目線で伝えてみる。
(そんなに笑うなら、お手本を見せて欲しい……!)
こちらの要望が伝わったのか否か、蛍のアイコンタクトに一つ頷いて見せた万葉。衣擦れを起こして前へと進み出た彼はとある棚の前で足を止める。そこには一つ、人間の頭よりも大きな箱が置かれていた。淡い緑のカバーに覆われたそれは白色の太い紐を飾り付けられ、蛍の目には一際「異質さ」を放っているように見えた。……これは生と死の境界線。ここまでの道中に万葉から聞いた言葉が脳裏を横切る。
(──骨箱)
箱の前の低い机には、この部屋に漂う煙の元となる香炉が置かれていた。近くにあるロウソクの炎が遠慮がちに揺れ、大きな香炉に小さな漣を起こす。まるで蛍たちの来訪が歓迎されているかのようだ。
死者と正面から向き合うように敷かれた座布団に正座した万葉はゆっくりとお辞儀をすると、予め用意されていた細い線香を手に取る。彼がそれを迷うことなくゆらりと灯るロウソクに線香を当てれば、当然のことながら先端は火にまとわりつかれた。手に近いところに火が移ってしまった光景に息を止めることを忘れたパイモン。小さな口から「お、おい……」と呼びかけか感嘆か分からない声を出しているが、きっと相棒が考えていることは起こらないだろう。
そして案の定、線香に灯った火は万葉が軽く片手を振り下ろすように仰いだだけで消えた。正直たったあれだけの所作で火が消えるなんて少し驚きだ。パイモンと目を合わせて互いの心境を無言で共有する。相棒の小さな手では消せるか不安が残るが、いざという時は蛍が消せばいいかもしれない。密かに感心している内に線香は香炉に刺され、火を灯していた先端は部屋に燻る煙を吐き出していた。なるほど、こうやってこの煙は作られたらしい。最後に両手を合わせて一礼した万葉はそっと座布団から降りると、蛍たちに籍を譲る様に横へとずれた。
「さあ、お主らもやってみるとよい」
万葉の誘いにこくりと頷き、パイモンとともに骨箱の前へと進み出る。
一礼。蛍だけ正座をしてまずはご挨拶。──半年前の記憶が蘇る。蛍自身に大きな変化はないというのに着実に変わっていく世界。自身とテイワットの人々の時間の過ごし方は違う。そんなことは毎日意識しているから分かっているのに、こうして眼前に事実を突きつけられると鳥肌が立ちそうなまでの寒気に襲われる。……だから他人との交流はあまりしたくないんだ。……でも、いつだってやらずにはいられなかった。
線香。点火。二本の線香を手に取り、一本はパイモンへ。一緒にロウソクへと先端を差し出せばあっという間に燃え移る。はちきれんばかりに腕を伸ばして自分から炎を遠ざけるパイモンは少し怯えすぎなようにも見えるが、ここは先に火を消してあげることにしよう。万葉がやっていたように掌を持ち上げ、スナップを利かせるように振り下ろす。たったそれだけの動作だったが揺らめく火を消すのに充分だったようで少しばかり感心してしまう。やはり先人の真似はしてみるべきだ。おかげで煌々とした揺らぎはあっという間になりを潜め、煙る白い糸を吐き出すだけの静かな見目へとなった。
そうして蛍自身の線香の火も消し、パイモンと並んで香炉へと立てる。ここまですれば後は何となく意味は分かるもの。胸の前で両手を合わせ目を閉じ、目の前の故人へと別れを告げる時間だ。
(さようなら、風見)
──もしかしたら、生まれ変わった彼女に会うことがあるかもしれない。
蛍が顔を上げるのとパイモンが手を下ろすのは同じタイミングだった。別れの最中に横から視線を感じていたことは気付かなかったことにしてあげようか。最後に一度礼をして、少し離れたところで見守っていた万葉の元へと戻る。
「お待たせ……万葉?」
「──っ、あ、うむ」
正面から声を掛けたが、彼はそんな蛍にはっと驚きの表情を浮かべて見せた。それはすぐに奥へと消えてしまったものの、直前まで浮かばせていたものを見逃す蛍ではなかった。何かを考えていたような。何かに浸っていたような。その視線が蛍へと向いていたこと……それは気のせいではないと思いたい。何せ蛍は──。
「ふー緊張したぜ……。なぁオイラ、ちゃんと出来てたか?」
「ああ問題はない。そも、作法よりも心の方が大事でござるよ」
「……そうだよな! 流石は万葉、いいこと言うな!」
……明るいパイモンの言葉が思考を引き留めてくれた。とりあえず今考えるべきことではない事柄だ。
この後は先程簡単な挨拶だけを済ませた青木にもう一度挨拶をしておこう。突然娘の弔問に訪れた蛍たちを、快く大事な場所に通してくれた礼をまだ言えていないのだ。太陽は傾き始めている時間でもあるため、あまり長居してしまうのも申し訳ない。
「それじゃあ挨拶して帰ろうか」
蛍の言葉を断る声はない。全員の意志を一応確認し、一度通された部屋へと向かうのだった。
「まぁ、ではお二人はご友人同士だったのね」
「うむ。姉君と璃月に滞在していた頃に出会ったでござる。彼女とパイモンとの出会いは、まさに幸運と言えよう」
「もぐもぐ……えっへへ、それほどでも……あるけどな!」
壇がセッティングされた部屋を預かっていた鍵で閉じ、近くの部屋を尋ねると青木夫妻が迎えてくれた。鍵を返して帰るつもりだったが、折角来てくれたのだからという行為に甘えお茶とお菓子をご馳走になっているがこれがまた美味しい。稲妻の弔問文化に最初はオドオドしていたパイモンは、スミレウリを使った焼き菓子を食べることに夢中になっている。今日はおやつを食べれていないから尚更なのかもしれない。かく言う蛍も当初は夕時の邪魔にならないよう早めに出発しようと思っていたのに、すっかりと腰を落ち着けてしまった。それもこれも美味なる菓子とお茶、そして「優しい」と「好奇心」を絵に描いたような性格をした環夫人の人柄によるものだろう。万葉もそれを以前経験したこともある為か、あまり居心地の悪さを感じているようには見えなかった。
「なるほど。元より互いを知っていたことも相まり、かの将軍にも立ち向かえたのだろうな」
環の横で静かに茶を飲みながらたまに言葉を漏らす男性は宗一。この青木家の当主である。半年前にこの家に泊まった時にはあまり交流することはなかったが、聞けば流通関係の仕事をしているらしい。物静かで仕事熱心、起きても寝てても仕事のことを考えている……というのは奥方がこっそりと教えてくれた情報。それでもこちらの話は聞いているようで、蛍が喋らない彼に気まずくなる前に先程のように言葉を発する。一見表情に変化が付きにくく気難しい性格のように思えるも、それは勘違いだと気付くのに時間はかからなかった。だがその顔には僅かながら陰りが見える。やはり一人娘である風見を喪った心労が大きいのだろう。だがそれだけではないような……、そんな気がしてしまうのは考えすぎだろうか。
「一緒に戦ってくれた皆のおかげだよ。……ところで随分疲れているように見えるけど、宗一さん最近眠れてる?」
もし蛍の勘違いであるならそれでいい。他人に話すようなことではないと一蹴されても構わない。それでもこうしてお茶とお菓子を提供してくれたこの家族に弔い以外の悩みがあるならば、力になりたいとも思ってしまう。だから先程から気になっていた疑問をこうして口にすることにした。
蛍の言葉に茶を飲む手を止めた万葉。彼も同じようなことを察していたに違いない。いや、万葉ならきっと蛍が感じ取ったこと以上の情報を得ていてもおかしくない。姿勢を正し、これまで以上に真剣にテーブルの正面に座る夫妻へと向かい合う姿は、不思議と話を急かすような雰囲気は感じられなくて。ただ風が吹くのを待っているような。そんな待ちの姿勢だった。
「ねえ、このお二人になら話してもいいんじゃないかしら」
「……須々木、お客人に追加の茶と菓子を」
「かしこまりました、宗一様」
当主の指示を受けて厨房へと下がったのは使用人の須々木である。曰くこの家の管理はほとんど彼に任せているらしく、相当に信を置いているようだ。先程からパイモンが止まることなく食べ続けているスミレウリのお菓子も彼が作ったものだとか。そんな使用人にお茶を指示したということは、先程の蛍の問いに関する答えは短いものではないらしい。話してくれることは有難いが、この家の夕飯を遅くするようなことにならなければ良いのだが。
「これは私らの『恥』だ。どうか重くとらえず笑って欲しい」
はあっと、これまで溜めこんできた重い空気を吐き出した宗一は、改めて蛍たちへと顔を向ける。そこには隠すことを諦めた疲れが明らかに見て取れた。──否、これはそんな軽いものではない。思わず自身の獲物を手に取りたくなるようなこの気持ちは……怒り? そうだ、悲しみを上回るほどの怒りだ。彼の隣に座る環は瞳を伏せ、その真意を読み取ることは出来ない。テーブルの下、膝の上に乗せた指に力が込められる。
だが、そんな怒号を覚悟した蛍に届けられたのは、努めて冷静な一言であった。
「娘の──風見の遺骨が、消えてしまったのだ」
「──いや、全っ然笑えないぞ!?!?」
「!」
唐突に響いたパイモンの声にビクリと肩が揺れた。どうやら今、蛍の中の時間が止まっていたようだ。こういう時あらゆることに素直な反応を示す相棒の存在は頼もしい。いつだって目の前の出来事が異常であり、物事の起点から考え直すきっかけを与えてくれるのだから。
向けられた怒りの矛先を受け止めようと身を固めていた蛍。だが、実際に訪ったのは理解の拒否だった。だってそうだろう。先程別れを告げた骨箱に、本人がいなかったというのだ。
「……なるほど、あの場になかったのなら解せよう」
「楓原殿は気付いていたのか?」
しかし万葉は何か心当たりがあったようだ。風見は病気で外に出ることがあまりなかったというが、あの場には蛍たち以外の弔問者が何人かは訪れていたはず。来訪者の多くは生粋の稲妻人。もし骨箱や壇のセット上に問題があったとすれば、今日この時まで何事もないように弔問者を迎え入れることなど出来やしなかっただろう。つまり見目では伝わらず、万葉だからこそ気付けた違和がそこにあったということ。
「もしかして、匂い?」
導き出した答えを口にすれば、万葉は白い髪を揺らして頷いてみせた。
……思えば、彼ほど「別れ」を経験した者はここにはいないかもしれない。家族、友、仲間。万葉は耳が良いだけでなく鼻も利く。幼少の頃よりその体を覆った燃やされた骨の匂いを、きっと覚えている。火に包まれても尚白くあろうとする人の残骸を。肉と共に消えることはなかった存在の証を。蛍自身どこほどの数を覚えているか分からない。もしかしたら、「空」という大きな存在があることを自分に言い聞かせることで見ぬふりをしてきたのかもしれない。それらをしてこなかったのが「楓原万葉」であり、一人流浪に生きることを覚悟した人間との違いということか。
「その、『消えた』って言うけどよ……。お、お化けの仕業じゃないなら、盗んだやつがいるってことだよな……?」
受け入れがたいことは多々あれど、パイモンにとって最も嫌なことはどうやら幽霊の類らしい。この事態をどうにかしたいとは思うものの、心霊現象が相手では恐怖が混ざってしまう様子。もちろん蛍だってそうだ。パイモンほど怯えることはないが、剣で斬ることが出来ないなんて不平等にもほどがある。
「さぁ……。もしかしたら幽霊の悪戯の可能性もあるのかしら」
「ひぃ……っ!」
そんなパイモンの恐怖を察知したであろう環。彼女は冗談交じりにその意見を肯定してみせたが、パイモンはその言葉を真に受けてしまった。焼き菓子を食べる手を止めてまで蛍の後ろに隠れてしまった姿からは、からかいの意図を読み取る余裕もなかったことが伝わって来る。ガタガタと震える手が背中を揺らす。これは早々に釈明が必要かもしれない。「大丈夫だよ」と後ろに声を届けつつ環を見やれば、彼女もまたその必要性を感じていたようで首肯で返してくれた。
「言葉が過ぎてしまったわね。ごめんなさいパイモンさん。……須々木」
ちょうど裏から姿を見せた須々木は主人の呼びかけに一つ返事で答えると、その手に持っていた菓子をテーブル上へと置いた。かたじけないと礼を述べる万葉に合わせ、浅く頭を下げて感謝を告げる。菓子の数は万葉と蛍の目の前には一つずつ、そしてパイモンの席には二つ。そして卓上に増えたお菓子に気付かないパイモンではない。おずおずと蛍の肩から顔をのぞかせたパイモンは、新たに増えた甘い香りの正体をその目に映しだす。お菓子のパワーは本当にすごい。この時にはすでに肩に触れる彼女の手に震えはほとんどなかった。状況を把握し出した相棒は、ようやく先程の言葉が嘘であったと気付いたようだ。
「まさか、お化けなんて本当はいないのか?」
「ええ、そうよ。お詫びに私からの甘いお菓子を受け取ってもらえるかしら?」
「……へへ、お詫びを受け取らない方が失礼だよな!」
「単純すぎて少し心配だよ私は……」
まあ、彼女の恐怖がなくなったのだからここは良しとしよう。これでようやく話を本題に戻すことが出来る。
話を聞こうと顔を正面に向けた蛍。……だが、何かが引っかかる気がした。相変わらず難しい顔をした宗一と、お菓子を頬張るパイモンを見て微笑む環。その二人の後ろで正座をして控えている須々木。おかしなところなどないはずの光景。でも、何かがおかしい気がする。答えを求めて思考を巡らせるがやはりすぐには浮かんでくれない。ひとまず考えることを中断して、万葉の言葉に耳を傾けることにした。
「環殿の冗句も無理ない。此度のことは霊の仕業であれば良かったと、拙者も思わずにはいられない」
「……如何にも。盗人は生者、加えてそれが知った顔であるとは……」
宗一がこぼした溜息は疲労に溢れている。だが彼の言葉には確信も含まれていた。恐らく誰が盗んだのか……容疑者は誰であるのか、ある程度絞れているのだろう。流石は商人たちとの間を取り持つ仕事人。如何に疲労していようが問題事にはすぐに取り掛かる理性を保っている。ならば、ここは変に気を遣う必要はない。
「発端と見当を聞いても?」
「是非に」
お茶を口にし一呼吸置いた青井家の当主。彼が言葉にした遺骨消失事件の概要は、蛍たちを渦中へと巻き込むものとなるのだった。
──青木家の長女、風見が亡くなったのは約一ヶ月前。共にこの家で過ごした五人に看取られての旅立ちであった。五人とは青木夫妻、須々木、そして風見の婚約者であった橘秋高と、この家の用心棒の香弥乃。身内だけで小さな葬式を行った彼らは、火葬で残った遺骨を骨壺へと丁寧に納めた。約一ヶ月後に埋葬の予定を立て、それまでは宗一の仕事関係者や懇意にしていた小倉屋など少数の知人の弔問期間とすることとなったが、無論これに反対するものは一人もいなかった。
知らせを出してからそう時を経たずして、影向山の麓までこの家を訪れてくれた人々。基本的に彼らの対応は宗一がしていたが、流通は血のように流れ続けるもの。止まることのないその業界の都合上どうしても席を外さねばならない日は、婚約者の秋高が弔問者を案内していたらしい。つまり、壇の前へと立ち入った者たちは青井家の目の元行動をしていたということになる。
だが文を送った知人全員の来訪を確認した半月後のこと。環がいつものように娘のいる部屋へと足を踏み入れると、そこにはあるはずのものがなくなっていることに気付いた。気付かないはずがなかった。己が命よりも大切な骨箱が──娘の遺骨がなくなっていたのだから。
慌てて家内全員を招集し現状を共有した環。反応はそれぞれで、驚き固まる者、怒りに身を震わせる者、予想だにしなかった出来事に時が止まる者。誰一人として現実を受け止めたくはなかった。死してその身を炎に焼かれたとはいえそこにいたのは間違いなく風見であり、彼女に向ける想いは炎では焼き去ることなど出来やしなかったのだから。だからこそ、すぐさま犯人捜しというやりたくもないことをすることとなった。そこでまず最初に疑ったのは外部の人間。だがその疑いは、宗一と秋高が絶えず共に行動をして片時たりとも一人にする時間はなかったことで消えさってしまう。なれば次は理性を持たない魔物の仕業。しかしそれも、鍵のかかった部屋は傷一つなく、壊された物も荒らされた様子もなかったことで除外される。……そうなれば残る選択肢は一つのみ。誰もがその答えを喉に蓄えた時、一つの言葉が空気を揺らした。
「──あの子の悦ぶ顔が、見えないんだ……」
ここまで一切の反応を見せなかった宗一が口にした憂事。そこに乗せられた感情は青木家当主のものでも仕事に没頭していた人間のものでもなく、ただ娘の安寧を願う父親のもの。聞き逃しかねない切とした願望は、場に漂っていた嫌疑の吐き出しを許さぬものでもあった。
結局その日以降直接犯人を捜すことはないまま時が流れ、ただあるべき場所に返される日が来ることを待ち続ける面々。無論そのような状況は決して良しとすることは出来やしない。それでも故人と良き関係を築いてきた彼らは、彼女が信用してくれていた自身や相手を疑うようなことを進んですることは出来なかったのだった──。
宗一が語った内容を聞き終える頃には、陽はとうに沈んでしまっていた。
今日はもう遅いから、という環の気遣いに素直に甘えることにした蛍たち。須々木が手掛けた夕食を有難くいただき、あてがわれた客室にて今晩一日過ごすこととなった。当然ながら万葉とは別室だ。人々の喧騒はなく、ただ木の葉が掠れる音が風に運ばれてくるここの環境は本当に静かで、難しいことを考えるにはうってつけの状況である。そのためかお菓子に夕食にと人一倍多く食べたパイモンも、未だ眠そうな素振りを見せていない。
「なあ蛍。オイラ、この家の力になりたいぞ……」
「うん、私も」
一人分の布団の上で向かい合うパイモンはやはり手助けをしたい様子。蛍も全くの同意見だが、すぐ見つけ出すにしても手掛かりが少なすぎる。宗一が身内にも許さなかった憶測を蛍たちへ共有した理由は、きっと停滞した状況を打開するためだったのだろう。そして寝食を提供されたからには蛍は何かをしなければ気が済まない。そんな良心の呵責を苛むような状況に追い込むことまで織り込み済みだったとすれば感心だが……、今はそんなことはどうだっていい。ただ飯を食らうだけになってしまうのはどうしても避けたいし、一度は世話になった青木家と風見のため行動したい気持ちの方が強かった。何より、この「死」にまつわる事件の結末がどこへ向かうのか、この目で見届けたい。
夫妻からの情報では埋葬は明後日。その時までに遺骨が見つからない戻って来ないという状況であれば、現在壇に置いている空の骨箱を代わりに墓へ埋めるらしい。要するに諦める、というわけだ。つまり明日朝から行動を起こしたとしても一日しか時間はない。今の内に出来ることはしておくべきだろう。
「……万葉の意見を聞きに行ってみよう」
「おう! そういえば偶然とはいえ、あいつとお泊まり出来て良かったな?」
「な……っ!?」
唐突にとんでもないことをニヤニヤと言い出した小さな口を慌てて塞ぎにかかる。もごもごと何やらもがいているが、自業自得だと諦めて欲しい。だって今の今まで考えずにいたことを思い出してしまったのだから。
──蛍は、万葉に恋をしている。それはパイモンだけが知る蛍の秘密。でも恋愛初心者の蛍とパイモンでは、万葉が蛍のことを異性としてどのような目で見ているかなんて知ることは出来なくて。共に依頼をこなせる日はパイモンと互いに髪をとかしあったり、その日の夕食を豪華にしたり、ベッドの中でパイモンが一日の万葉の様子を揚々と語り始めたり……。そんな小さな幸せを二人で嚙み締めることしか出来なかった。万葉から同等の感情を向けられたい……なんてことも考えたこともない。
だから、うん、そういうことを言われると、理性が、どうにかなっちゃいそう。
「い、今はそういうこと考えてる場合じゃないから……!」
わかった!?と間近で訴えれば、必死にブンブンと頭を縦に振って応えるパイモン。彼女は蛍の恋心を微笑ましく思ってくれているが、成就する未来もよく口にしてくれる。相棒思いな面は本当に、本当に嬉しく思う。でも軽々しく将来の契りを交わしてしまうような未来は何よりも恐ろしい。だから、この気持ちはやっぱり閉まっておくべきだ。
パイモンの口から手を離し、その小さな体を後ろからギュッと抱きしめる。「蛍……」と、か弱い光を放つ生物の名を呟く相棒はこの決意を察してくれたのか。蛍の腕に手を添える姿に温もりと愛おしさが満ちていく。未来は分からないが、今この時は確かな幸福の時間である。引き寄せられるようにフワフワとした白い髪に顔を埋め、
スウゥゥ──。
……そのまま、温かな空気を吸い込んだ。
「うひゃあぁぁぁぁ!?!?」
「はぁ……今日のパイモンはスミレウリの香りがする……最高……」
「たまにオイラの匂い嗅ぐお前のその癖って何なんだ!?」
懸命に身を捩らせて蛍の腕から逃げていくパイモン。枕を盾にして威嚇する様の愛らしいこと。温かな存在が離れたことで一抹の寂しさが生まれるが、微かにスミレウリの残り香を残していることに彼女は気付いているだろうか。さりげなく甘い空気を吸い込み、お腹がいっぱいになったところで立ち上がる。
「ごちそうさま。じゃあ行こうか」
襖を開いて廊下に出れば、後ろからはボトンと落ちる枕の音。……本当に可愛い。プーっと頬を膨らませつつも、いつものように蛍の横に来る姿にまた口角が上がってしまう。やはり困った時はパイモン吸いに限る。おかげでグルグルとかき回されるような感覚に陥っていた頭に冷静さが戻って来た気がする。これまで通り、茹るような感覚にのめり込む時間は洞天に戻ってからでいい。今はやるべきことをする時間だ。
確か万葉の客室は向かいだ。閉められた襖の前に立って声を掛けようとすると、ひゅうと風が流れる音が聞こえた気がした。
「おーい万葉、オイラたちだぞー!」
蛍から部屋に入ろうとする挙動がなかったからか否か、当たり前のようにパイモンが先に部屋の中へと呼びかけた。すぐに返事があるかと思いきや、応答の声は少しだけ……とはいえ数秒ほどだが、遅れて襖を開ける。
「……夜更かしは感心せぬよ」
「どうしても話したいことがあって。……寝てた?」
「万葉は早寝はしないだろ」
「ははっ違いない! さあ、中へ入ると良い」
優しい彼は断ることを知らないのか。当然のように部屋へと入れてくれるだけでなく、蛍たちを柔らかな布団の上へと誘導して自身は畳の上へと腰を下ろした。ここは客室。恐らく押し入れを探れば座布団の一つくらいはありそうなものだが、勝手に他人の家を漁ろうとしないあたり万葉らしいと思う。
ふとひんやりとした風が頬を撫でる。出元を辿れば、今入って来た襖の対面にある襖が僅かに開いていた。そこから入り込む月夜に冷やされた自然の空気は実に心地良い。先程万葉が応対に少しだけ時間を要したことにも自然と合点がいく。吹けば飛んでしまいそうな月明りの下、白銀の髪を揺らして考え事に耽っていたのかもしれない。
「さて、前置きは最早不要。……宗一殿は口にはしなかったが、ご令嬢を連れ去った者はこの青木家の中にいると考えて相違ないだろう」
早速例の話題を切り出した万葉。引き締めた表情を浮かべる彼も、蛍たちと同じようにずっとそのことについて考えていたのだろう。
「万葉は誰が怪しいと思うんだ?」
「……今は見当も付かぬ。ただ、気になることがある」
「気になること?」
頷いて外へと視線を送る朱の瞳は、暗闇に紛れたものを見透かすようだ。思えば、天領奉行所属の探偵である平蔵も彼に助力を請うことがあるとか。感覚が優れた万葉だからこそ気付ける違和があるのだろう。時間の制約が厳しい今の状況、彼の一挙手一投足に注意を払うべきかもしれない。視線の先を追うように外へと目をやるが、何かを見つける前に万葉は言葉を続ける。
「先程の奥方の言葉でござる。彼女らにとって今回の事件は大事であるにも関わらず、どこか余裕を感じさせる物言いでござった」
「……あ」
それは蛍にも覚えがある。パイモンたちが幽霊の話をしていた際に蛍が抱いた「おかしさ」。あの時はその正体を掴めずにいたが、万葉も同じような感想を覚えていたらしい。
「……そうだね。よく考えてみたら、冗談にして良いような問題じゃないはず」
「そっか、オイラにお菓子をくれる言い訳にしてはタチが悪いって、今ならそう思うぜ…」
「うむ。明日、その本意を確認しようと思う」
娘の骨がなくなって最も悲しんでいるのは間違いなく血の繋がった彼らであろう。にも関わらず、実母がからかいのネタにさえしてしまっていたことは見逃していい問題ではない。それは難しい表情を浮かべていた宗一の態度からも明白。あの場は万葉が疑念を抱いたことを悟られぬよう上手くフォローしてくれていたが、発言の意図について明日必ず本人に言及する必要があるだろう。
これで明日やるべきことが見えてきた。まずは今日顔を見ていない二人──秋高と香弥乃に会うこと。夫妻によれば秋高は芸術家であり、今は作品の制作の為に敷地内にある工房にこもっているらしい。婚約者の埋葬日が差し迫る状況下を踏まえれば訝しいとしか思えないが、それも話を聞かなければ分からないものだ。余計な偏見は少なくとも今は抱えるべきではない。香弥乃は女性でありながらこの家で唯一の戦闘経験者だ。この周辺区域は比較的魔物が少ないが、それでも万が一を考慮してそういう役割を持つ者がいてもおかしくない。どうやら彼女は基本的に家にいることが多いらしいが、最近は外で過ごす時間が長いとか。探すのに多少時間がかかることは覚悟しておくとしよう。
「私も環さんの話は聞きに行くよ。そして秋高と香弥乃にも」
「もちろんオイラも一緒だぞ! 秋高の方は工房に行くとして、香弥乃はどこに行けば会えるんだろうな……?」
そこで、万葉が未だに外へと視線を向けていることに気付いた。その瞳は月夜へ盃を掲げるようなものでも陽光に手をかざすものでもない。光を恐れ、影の中にて秘め事を抱える者を見つけ出すような、そんな視線。視界に映れば最後、決して見逃してはもらえない鋭さ。少しだけ、本当に少しだけ、その冷たい朱がこちらに向いて欲しいと思うのは、内に抱えた恋情のせい。我儘で自己的な思考は本当に厄介だ。もっと奥へと仕舞い込むように少しだけ多めに空気を吸い込んで、いつもの「蛍」を呼び起こす。
「……敵?」
意図的に小さな声で尋ねるも答えは返ってくることはなく、そのまま僅かな襖の隙間から外へと視線を送り続けている。蛍の言葉に恐怖を感じたパイモンが腕にしがみついてくるが、そんな彼女を慮った結果なのかもしれない。恐らく状況は変化している。その変化は一度ではない為、不確定な情報で余計な心労を与えることを避けているのだろう。それでも一つだけ確かなことは、あぐらをかいた体勢を崩さない万葉の姿からは差し迫った脅威ではないということは伝わってくる。ならば、ここは大人しく彼の言葉を待つべきなのかもしれない。
「……かたじけない。今、事が終わったでござる」
そうして静かに座すこと数分。穏やかな顔つきで蛍たちへと向き直った万葉は、報告を口にする。
「ヒルチャールら魔物の声が聞こえたでござるよ」
「え、ヒルチャールだって!?」
パイモンが驚くのも無理もない。冒険者として、そして兄を探す妹として、蛍たちはテイワットを細かく探索している。道中放置された宝箱を見つけると相棒とともに喜ばしく思うもので、自然と隅々まで足を伸ばしてしまう。それはもう自らの手で地図を書けてしまいそうな程に。そうしていく中で各地に生息する生物や魔物の拠点を地図に書き記し、疲労積み重なる時には該当地域を避けて冒険をすることも間々ある。だからこそ相棒は驚いているのだ。──この周辺に、ヒルチャールらの拠点は存在していないから。
「……彼らは滅多に拠点を移さないし、縄張りから一定以上離れることもないはず」
「うむ。そのような存在がこの場所をうろつくなど、何か理由があるに違いない」
だが、それは未然に阻止された。この数分、かつ目立つような騒音を立てることなく。加えて、万葉が目にしていた方角は、日中に蛍たちが歩いてきた道だ。あの周辺には争いの痕跡が残されていたが、その原因はこの場をうろつくヒルチャールらと考えていいかもしれない。──彼らの対応をした者がいる。ここまで考えがまとまれば、その人物の正体に辿り着くまでは一本道だ。
万葉と目を見合わせた蛍。こちらの意図を理解したのか、彼は机に置かれた提灯へと明かりを灯す。
「彼女に会いに行こう」
暗い林を一つの明かりを頼りに歩く。昼間は何を思うまでもないが、時間帯というものは大事だと改めて思う。風が木々を揺らすだけの音はこの世ならざる者を呼び寄せる儀式のよう。少し離れた場所から聞こえる草を踏み分ける音は、闇夜であろうとこちらを見ていると威嚇されている気分だ。この場において、蛍たちは部外者であると突き付けられている。この景色にパイモンはどう思うか、なんて聞くまでもない。先程から細かな振動が伝わる腕の感触が全てを物語っている。これがただの肝試しであればからかいの一つや二つして見せたところだが、残念ながら今日は遊びではない。いずれ同様の機会が訪れた際には、改めて彼女の元気な反応を堪能したい。
ちらりと横を歩く万葉を見ると、彼はとくに恐怖を感じているようには見えない。まさに平静と言ったところ。平静が服を着て歩いているようだ。蛍たちにとっては特殊な空間に見えてしまうこの場所も、彼の感覚を以ってすれば大したことはないのだろう。こうしていると、以前肝試しを並んで楽しんだ記憶が蘇って来る。不吉な物に遭遇する、と忠告された場所に赴く度胸ある人。その体験を絶妙なテンポで語り聞かせてくれた愉快な一面。わざと驚いたフリをして見せる余裕の表れ。今回は新たな彼の姿を見ることは出来るのだろうか。
「な、なぁ、まだ見つからないのか……?」
蛍の腕にしがみついているパイモンが現状を問う。頑張って周囲を伺ってはいるが、片目は蛍に押し付けているためハッキリとは見えていなさそうだ。実際、パイモンは怖がりである。そのため一人明るい室内に残っていても良かったのだが、相棒としての矜持がそれを許さなかったよう。何があっても蛍と共にいてくれようとする彼女の必死さは、蛍にとって尊いものである。健気な勇気には美味しい食べ物という賞賛を贈りたい。
「それは──」
「……そうだ、こっちが行く必要はないんじゃないか!?」
「え」
──前言撤回。万葉の言葉を遮った相棒の姿からは、とても嫌な予感がする。蛍と万葉の前に躍り出たパイモンは、小さな手を口に添えて深く息を吸い込んだ。
「おーい、香弥乃ーー! 会いに来たz──もごぼっ!?」
「ストップ……! 声が、声が大きい……!」
こんなことだろうと思った……! 努めて小さな声でパイモンを制し慌てて物理的にその口を封じる。情けない声が指の隙間から漏れ出たが、その程度に今は構っていられない。周囲を見渡し人の気配を探る。幸いにもここには他に家はなく、世話になっている青木の家からも怒り声が聞こえてくる様子はない。夕食前に家主と使用人にパイモンの人となりを知られていたことが功を奏したか。だとしても、このような夜分に大声を上げることは常識とはいえないだろう。
「……ははっ。真に、お主らの旅は愉快そのものであるな」
「そうやって笑って許してくれるのは、万葉くらいだよ……」
「──ぷはぁっ。安心しろ蛍、オイラはお前が怒られても笑顔で受け入れるぞ!」
万葉の笑顔に気が抜け、拘束が緩んだ隙をつかれてしまう。するりと蛍から抜け出したパイモンは万葉に並んで堂々と胸を反らしている。その姿に草木や風のざわめきに怯える様はまるでなく、大声がもたらした成果に感心するばかり。いつの間にやら蛍が許される立場になっているのは気に食わないが、とりあえずこれからの予定にするべきことが一つ加わった。
「……明日、ちゃんと謝りに行くよ」
「では拙者も共に」
「そんな! 万葉まで怒られに行くことはないよ」
「パイモンを止めなかった拙者にも非がある。それに……」
言葉を続けることなく口元に人差し指を立てて静寂を促した万葉に、パイモンはびくりと肩を震わせる。彼の見たことがない所作、見慣れた気遣いに優しさ、それらに思わず見入ってしまった蛍とは異なる反応だ。僅かに湿っぽい薫風を思わせる姿は色っぽいとしか言いようがなく、今手元に写真機がないことが惜しい。そんな貴重な万葉に対し恐怖を感じたのだろうか。パイモンは彼の指と口が示すがままに固まっている。彼女の世界では、万葉はどのように写っているのだろう。
ゆっくりと時間をかけて静寂に息を吹き込み終える頃には、風の一つさえ存在しない夜が訪れていた。
「明日の謝罪は不必要かもしれぬ」
パイモンの反応を知ってか知らずか……いや、知りながらだろう。ほら、とパイモンの後ろに向け指を差した万葉。そこは未だ提灯に照らされていない闇。パイモンにそのような後ろを振り返る勇気なんてない。これまでに何かが近付いてきたような音はなく、ただ夜に相応しい静けさが鎮座しているだけ。徐々に小さな体が震えに包まれていく。提灯に照らされた小さな頬に一滴の冷や汗が伝った。
「そ、それって……」
──万葉の考えを察してしまったのか。それを否定する言葉を懇願する瞳が蛍へと向けられるが、こればかりはどうしようも出来ない。高度な知能を兼ね揃えた脳は外部の助力なしには記憶の消去を成しえない。一時的に蓋をすることは出来るが、一度刻まれた事象は永久に残り続ける。成長の過程で外皮に傷が付いてしまった果物が、その傷を柄として成熟するように。「忘却」とは、ただ見て見ぬふりをすることにすぎない。……といろいろと理由という名の言い訳を考えてみたが、結局のところ蛍が相棒の力になることは不可能である。それが事実を相手にしているならば尚更だ。そのことを肯定するように頷けば、助けを求めようとパイモンは震える手を伸ばす。
が、その手が蛍へ届く前に、パイモンの小さな肩に触れる手があった。それは正面にいる蛍でも万葉でもない。パイモンの視覚の外、背後の暗闇から伸ばされたもの。それは火に当たることのない空間の温度を体現したように爪先まで白い……人の手だった。
「ヒュ──っ」
案の定固まってしまったパイモン。突然の展開に驚きすぎてしまったのだろう、叫び声をあげる余裕さえなかったようだ。目線が落ちて行く彼女の体を両手でしっかりと抱えてあげるも、言葉を発する気配はみられない。どうやら気絶してしまったようだ。予想通りの結末を迎えた相棒に多少の同情を抱えるが、そもそもは彼女に非がある。とはいえ、ここまで恐怖を与えられたならこれ以上の罰ゲームは余分か。ここはひとまず、こちらの都合に付き合ってくれた万葉……そして「白い手の者」には感謝しなければならない。
「ありがとう、二人とも」
「いや、礼には及ばぬ。……して、お主は」
パイモンの背後に立っていた「白い手」。その手首から奥を照らすように万葉が提灯を向けると、そこには一人の女性が立っていた。
「──香弥乃殿、で間違いはござらぬか」
その顔はきちんと生きた人間のもの。生の色は提灯では誤魔化せない。パチリと瞬きをしたその女性はパイモンの様子に首をかしげていたが、万葉の問いかけに一つの首肯で答えてみせた。
「はい、ええ。私が香弥乃だ、です」
その者は蛍や万葉より幾分か身長が高い女性だった。左手には刀を持っており、彼女がこの家の用心棒であるのは間違いがなさそうだ。だがその言葉遣いはどこかぎこちなく、声音には若干の震えが混じっている。これは初対面の緊張に由来するものだろうか。
「──その子、大丈夫か?」
「大丈夫。この子の自業自得だから」
やはり、単語の切れ目は迷いから生まれているように不自然に刻まれている。彼女の口調に違和感を抱えるものの、個性を思えば深く言及することを避けておくことにした。
パイモンを気遣う言葉に問題ないと答えれば、興味をなくしたかのように目を逸らされる。そして観察するように万葉と蛍へとその目は向けられた。
「拙者は楓原万葉。こちらは旅人……蛍、そしてパイモンでござる。夜分に大声で呼びつける真似をしてしまい申し訳ない」
視線の意図に気付いた万葉がこちらの素性を明かしてくれた。この屋敷に泊まることになったことは既に知られているだろうが、万が一にでも侵入者だと間違われてしまっては問題だ。とはいえ香弥乃がこちらに敵意を向けている様子はないため、自分の名を叫んだ聞き慣れぬ声の正体には見当がついていたのだろう。屋敷内に住む人間の数は少ないとはいえ、この短時間できちんと情報の共有がされる人々の関係性は好ましいと言えよう。ならばこそ、今回の事件がより一層謎が深まるものだが。
「全くだ。これが名高い旅人でなかったなら、すぐさま剣を抜いていたところ、です。旦那様と奥様には迷惑かけたくない。大方、私が持つ情報が欲しかったのだと思うが」
脅すように左手に持った刀に手を乗せる香弥乃。添えただけなので抜刀をする気はないのだろう。やはり明日は真っ先に当主たちに会いに行くべきかもしれない。
同時に蛍の意識は香弥乃の右手に向く。それは刀を持つ左手と比べると随分と白い。この距離と提灯の明かりによってその色の正体にようやく理解が及ぶ。──粉だ。
「左様。して、先程は大事なかっただろうか。その右手の色、貝石灰と見たが……」
「刀を落とさないための滑り止め、だよね」
テイワット以外の世界で似たようなものを見たことがある。確か炭酸マグネシウムなどを使った道具で、手の水分を吸い取ることで一種の粘着性を獲得するものだ。恐らく彼女が使っているものも同様のものだろう。貝を細かく砕き加工した粉を利き手にまぶすことで、刀を振り落としにくくしていると見た。それは彼女がこの家を絶対に守ろうとしている誓いのように真っ白だ。
「……お客様、なかなかやります、ね」
一目で正体を見抜いた蛍たちに対して少しは信用が生まれたのか、彼女がまとう空気がほんの少し和らいだように感じた。彼女は屋敷を一瞥すると、蛍らについてくるよう目で合図を送ってきた。無論断る理由はない。万葉と頷き合うと、先に歩き出した香弥乃について行く。
「ここ、です」
連れてこられたのは五分ほど離れた場所。そこにはこの辺りでは見慣れた草木だけでなく、気の影に隠れて何らかの塊が佇んでいた。その形には見覚えがある。全容は万葉が提灯をかざしたことですぐに明らかになった。大きな骨で作られた白の欠片。その欠片の表面に走る赤い模様。泥が付き異様な匂いが漂うそれは、紛れもなくヒルチャールの仮面。その所持者たちの活動の残滓だった。
「時折やつらが近寄ってくるん、のです」
今回の魔物の接近も彼女にとっては珍しいことではないらしい。どうやら彼らの出現に関しては、ここ数日の出来事ではなさそうだ。
「私の知る限り、この周辺には彼らの拠点はないはずだけど……」
「実に奇怪でござるな。この異常は一体いつから?」
「確か……一年前。お嬢様の体調が悪化した頃からだ」
「風見が?」
妙なタイミングの重なりに蛍は思わず聞き返してしまった。
「はい。お嬢様の体調が優れないと須々木から聞いて、私は落ち込んでいた。このままでは仕事に差し支えると思いこの辺りに散歩に出掛けたん……ですが、その時にヒルチャールと遭遇しました。がむしゃらに刀を振ったから、よく覚えてます」
しっかりとこちらを見据えて過去を語る香弥乃。提灯の明かりがなくともこちらを見ていると伝わるほどの断言。それは彼女の覚え間違いという可能性を、完全に捨て去るには十分すぎるほどに真っすぐだった。
「……ありがとう。これらの関係も探ってみるよ」
──遺骨がなくなるという異変。そしてそれが起きるよりもずっと前から起きていた魔物の襲撃と風見の体調の変化。これらに繋がりはあるのか。もしあるとすれば、この二つを結びつける物は何なのか。今晩の目的は、居場所の特定が最も困難に見えた香弥乃に会うことであった。だが解決の糸口は容易くは姿を見せてくれず、より一層謎を深めていく。
蛍の言葉を受けて頷きを見せた香弥乃だが、その動作は実に重々しい。それも当然か。この家で起こったことをここに住む者として解決出来ずにいる歯がゆさ。到底第三者である蛍たちが理解出来るものではないし、理解してもいけない気がする。今の蛍に出来ることと言えば、家主の信用を裏切るような真似はしないと心に誓うことだけであった。
「そろそろ戻ろうか。せっかく用意してもらったお布団、無駄にしたくないからね」
少しの時間静寂を保っていた万葉。今得た情報の因果関係に引っ掛かりを覚えたのか、口元に指を添えて情報を整理している様子だ。だが今はこれ以上に手掛かりとなるものは見つかりそうにない。上を見れば、より黒に深みが増した空。見渡すことの出来ない広大な存在さえ就寝してしまうほど時間が進んでしまったらしい。蛍からの視線に気付いた万葉はふわりと微笑むと、すぐさま思考を仕舞い込んで見せた。
「その通りでござるな。香弥乃殿も共に戻ろう。客の身ではあるが、女子を放って一人戻ることは拙者の矜持に反するが故」
「……はっは! お侍さん、キザなところがあるんですね」
「何この程度、夜風を吸わせてくれた礼とするには希薄がすぎよう」
「口が上手いんだな。で……、しかし」
そこで何故か香弥乃と目が合った。まるでこちらの様子を伺うような目だ。彼女が何を言いたいのか分かる気がしたが、敢えて考えないことにした。何も返すことがない蛍は、ただ目を逸らすことしか出来ない。
「……では、行こう。難しいとは思うが、今晩はゆっくり休んでください」
「かたじけない。では行こう、蛍」
奇妙な気まずさを与えた本人はそれ以上を口にすることはなかった。万葉の言葉に釣られるように歩を進める蛍だが、彼の視線をちゃんと受け止められなかったことは心残りだ。彼の言葉にきちんと返事が出来たか、なんて数秒前の自身の言動を振り返るも意味なんてない。ぐるぐると脳内を駆け巡る正体不明の塊。これは今日得た情報の数々だろうか。上手く処理が出来ていないのか、一種の不快感を以って現状を神経に与えてくれる。
(疲れた……)
今日は然程体を動かしていないというのにこの疲労感。近頃は依頼にかまけていた訳でもないのにおかしな自分だ。腕に抱えるパイモンも重いわけではないのに。環境の変化が異常をきたすというなら、その原因など自ずと顔を出すもの。でも今ばかりは見てはいけないような、そんな気がしてしまう。
「それどころではない」と自信に言い聞かせ、少し先を歩く二人に続いて歩を進めるのだった。今日はもう、何も考えずに寝てしまおう。
──風が吹いた気がした。それは木々を揺らして己の存在を確かめるようなものではない。人の耳を撫で、驚きに声を上げる人間を悪戯っぽく笑うようなもの。形も声もない風にも個性があるのだとしたら、それはこういった違いから生じる迷信であるのかもしれない。とはいえ、この風のささやきは聴いた覚えがあまりない気がする。「あまりない」と表現するのも変な話かもしれない。だが少なくとも、蛍が最も好きな声ではないことだけは確信を持って言える。
悪戯な風はゆらゆらと流れて行く。それについて行くように歩く自分は、まるで目の前を行く尾ひれに見えない糸を括りつけられている気分だ。理解が出来ない、けど後を追ってしまう。考えることを忘れた頭は、目の前の映像をただの映像として処理を放棄している。
そうして引きずられるように辿り着いた先。それを目にした瞬間、糸が消えてしまったかのように足は前へと進むことを止めてしまう。反して動き続ける風はその姿を蝶へと変え、そこにあった塊にその身を投げ込んだ。……いや、一つになったと言えよう。その塊もまた、蝶へと姿を変えた風であったのだから。
「……ん?」
仄かに灯った光。その正体が昇り始めたばかりの太陽だと気付くと同時に、蛍は自分が夢を見ていたと気付いた。この感じではまだ明け方くらいだろうか。今日は朝食の準備をしなくてもいいはずなのに、何とも妙な時間に目が覚めてしまったものだ。
「すやぁ……。へっへ、どうだ蛍……、これがオイラの……むにゃあ」
隣で眠るパイモンはまだ目を覚ます様子はない。結局昨晩は恐怖のあまり気絶をしてしまったが、あれから今に至るまで夢の中を満喫しているようだ。その幸せそうに眠る顔、思わず触れたくなってしまうのは是非もないだろう。そうして撫でること二回。手を離して布団から抜け出した蛍は、こっそりと部屋を出るのだった。
特に目的があって部屋を出たわけではないが、二度寝をする気にもなれなかった蛍。とはいえ、ここは洞天ではない。勝手に彷徨くのも気が引けるというもの。そんな蛍が行けるところといえば、すぐ向かいにある万葉が使う客室くらいか。彼はもう起きているのだろうか。こっそりと襖に耳をそばだてて中の様子を伺うが生活音はまるで聞こえない。こんな朝もまだ早い時刻、まだ寝ていてもおかしくはない。と、ここまで考えた時、自分の奥底で一粒の悪戯心が芽生えるのを感じた。
(……万葉の寝顔……見てみたい……!)
昨晩のパイモンの言葉には否定をしてみせた蛍だが、実はこの状況に浮足立っているのかもしれない。本人でさえ意識していなかった感情を相棒は知らず内に汲み取っていたのか……今となっては聞くことは出来ない。宿泊先、他人の客室。これらの条件を知ってなお踏み込みたい衝動に駆られてしまった今の蛍には、そういったことに脳の仕事を割く余裕はなかった。これを人は「好奇心」というのだろう。
急かしたく気持ちを抑えてしゃがみ込んだ蛍は、ゆっくり、ゆっくり、己と万葉を遮る襖を視界の端へと押しやる。万葉はどんな顔で眠るのだろうか。いつもは大人よりも大人びているが、寝顔は年相応に幼さがにじみ出ているとか。うつ伏せで寝ていてもいいかもしれない。布団を抱きしめて寝ている可能性も考えられるか。寝言はどんなことを言うのだろう。夢はどんなものを見るのだろう。一晩限りの幻想に、異郷から訪れた金髪の女の子は映っているのか。あぁ、そういえば夜の格好は? もし半裸でいたら……。
(い、いや! 万葉だよ!? そ、そんなことあるはず、ない……!)
想像を働かせている内に人一人分の通り道が確保され、音もなく部屋への侵入を試みる。当然のことだが、部屋にトラップの類が仕掛けられていることはない。昨晩も見たはずの部屋に対して思わず物騒な考えをしてしまったのは、罪悪感が内に芽生えていた証拠か。だがその芽はあまりに小さい。気付かない振りをして後ろを振り返ると、そこには今通ったばかりの襖が廊下を映している。──すぐにまたこの道を通ることになるだろう。そう判断した蛍は、襖を開けたまま欲望に従うことにした。
改めて部屋を見渡せばそこには昨晩と同じところに布団が敷かれている。枕は向こう側に置かれ、今の立ち位置からは柔らかな掛け布団しか見えない。こっそりと一歩を踏み出して近寄るも、自分の鼓動音しか情報が入らなかった。
(何も聞こえない……?)
寝息の一つもしないなんて妙ではないか。ならば考えられる状況は二通り。一つはこの場にありながらも音を立てることが出来ない状況。──即ち、死。弔問に訪れている家で考えるのは不謹慎かもしれないが、幸か不幸か、この選択肢は除外出来るかもしれない。この部屋には吐き気を催すような生々しい死の匂いは感じられないから。とすれば、あと一つ。立ち上がった蛍は布団へと近付くと、掛け布団を思いっ切り持ち上げてみるのだった。
──バサッ!
「……いない」
どうやら二つ目の推測が的中してしまったようだ。布団を投げ出して縁側の襖を開いてみるも、誰かが庭に出たような痕跡は残っていない。ならばこの部屋にいた人間がどこから出て行ったかは歴然だ。……緊張に満たされていた心臓が、冷たい焦りへと色を変えるような心地。これは、まずい。慌てて目の前の襖を閉め、先程放り出した掛け布団を元の状態に戻そうとする。だが急いた蛍の手ではカバーの中で布団がずれてしまい、折角広げても不格好な姿になってしまう。これでは誰かが布団に触れたことがすぐにバレてしまうだろう。柔らかくも重々しいそれはまるで猫のようだった。
……ふうっと息を吐き出す。焦りは成果をもたらさない、冷静に対処を、そして同時に退避策を練るべきだ。カバーの中に埋もれてしまった布団の端を指先の感覚で見つけ出して四隅を合わせ指で固定する。そうしてもう一度掛け布団を宙へと放れば、隅から隅まで柔らかく膨らんでくれた。この光景に余分な感想を抱く前にこの場を立ち去ろう。もし途中で彼に出会ってしまった場合は──。
「お天道様の下で夜這いとは、誠に恐れ入った」
「──っ!」
蛍の後ろ。廊下。先程まで誰の気配も感じていなかったのに聞こえてきた人の声。
「……む。既に夜は終わりを告げている故、この表現は些か誤りであるか」
最も恐れていた展開に悲鳴を上げる蛍の心臓。だというのに、後ろの人間は落ち着き払っている。これでは蛍だけが悪いことをしているようだ。いや、実際はその通りなのだが。
その場にしゃがんだまま動けない蛍に向かって足音が近付いてくる。廊下からはほんの数歩。足音が止まるまでの時間がとてつもなく長く感じた。焦燥、緊張、羞恥、罪悪感がぐるぐると渦巻く脳裏は、如何に今の自分が冷静ではないかとこれでもかと突き付けてくる。謝罪と弁明をすべき状況であるのに、真っ先に浮かぶ願望は「こっちを見ないで欲しい」だった。そんな蛍の内なる願いも虚しく、背後で足音はピタリと止まる。
「旅人、目を合わせてはくれぬのか?」
「……見ちゃだめでしょ……」
いやいや、何を言っているんだ。言うべきはそんな意味の分からないことではないはずなのに。それでも口から出てきてしまったのは、己の願望がにじみ出る自己都合極まりない拒絶の言葉であった。……動揺と焦りは後悔しか生まないと分かっているのに。緊張に緊張が重なり、鼓動さえ口から響いてしまっているようだ。
口を噤みますます後ろを見ることが出来なくなった蛍の後ろで、衣擦れの音が聞こえた。同時に耳に届くは呼吸音。──すぐそこに、万葉がいる。
「挨拶がしたいのだ。顔を見ず、とは拙者の矜持に反するでござる。どうか、この我儘に付き合ってはくれぬか?」
太陽の陽を浴びて温められた柔らかい風のような声。それはこんなにも劈くように木霊する鼓動の隙間を縫って、確実に蛍の脳裏へと染み渡る。どんな状況であろうと彼の声は心身へと届くなんて、惚れた弱みにも程があるだろうに。そんな風にお願いされては、断ることが出来ないと彼は知っていてやっているのだろうか。氷のように固まっていた体が、内側からポカポカと温まる。これでは動けないなんて言い訳も出来そうにない。
ゆっくり。ゆっくりと振り返る。ぎこちない体だが振り返ることは止めない。これも大好きな人の顔を見たいという恋の副作用か。安直な自分に呆れてしまいそうだが、今はそれ以上に彼の望みに応えたかった。
「おはよう、蛍。太陽よりも先にお主の顔を拝めるとは、拙者は幸せ者でござるな」
「な、にそれ。……おはよう……、万葉」
振り向けずにた先には、ふわりと微笑む万葉の姿があった。その顔は本当に幸せそうで……。詩人らしくこちらを浮つかせてくれる言葉が蛍にはくすぐったかった。