四ヶ月、はたまた半年、もしくは二ヶ月に一度。彼の背骨は悲鳴を上げる。『現代』の医療では手の施しようがない痛みを抱える彼に不安げな表情を見せた浮奇に、プログラムされた制御がきちんと統制されていれば生身のそれよりも随分と便利なものだと、彼は笑った。彼の義肢の仕組みなど分かる訳もない浮奇は、それが強がりなのか本心なのか見抜くことができず、彼の引いた線を無理に踏み越えないことに決めた。最も、浮奇だって彼に施設での出来事を話していないのだから、きっとお互い様なのだ。
そんな不便で便利な義肢を持つ彼は、『現代』に来て様々な仲間と出会う中で優れた技術者とコンタクトを取ることができたようで、浮奇と出逢う少し前から数ヶ月に一度ほどいわゆる定期検診に向かう生活を送っていた。浮奇と共に生活をするようになってからもそれは変わらず、二日がかりで検診をしている間はドッゴとお留守番をするのが恒例になっている。カレンダーに丸く印を付けられた今日が、まさにその日だった。
「餌の位置はいつも手伝ってくれてるから大丈夫だな、おやつは欲しがっても適度にだぞ。ドッゴが可愛く鳴いても許さないこと。散歩はいつものルートで構わないが、昼と夕方は車も通るし道路には気をつけてくれ。夜は無理にいつもと時間を合わせなくていいから、暗くなる前に家に着くように。それと、」
「ふーふーちゃん、そんな心配しなくても大丈夫だってば」
「...あー、悪い」
小さい子に言うような口調で伝えるファルガーのドッゴの世話についての話が、後半はすっかり浮奇を心配するものに変わっていることに苦笑を漏らした。けれど、大切に愛されているのだと気付かされる瞬間は心地良くもある。
「べいびー、謝らないで。でも本当に大丈夫だよ、今までだってちゃんと出来てたでしょ?」
「そうだな。俺のうききはとびきり優秀だから」
優しげな視線とともにこちらへ腕を伸ばされて、浮奇は引き寄せられるようにその中へ収まった。すっかり慣れ親しんだ体温を堪能していれば、浮奇の足元へ近づいたドッゴが何か言いたげにうろうろと歩き回る。
「ドッゴもいい子だもんね」
手を伸ばして頭を撫でる浮奇を離したファルガーは、ドッゴと視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「いいか、ドッゴ。これは重要な任務だからな。しっかり浮奇のことを守ってくれよ、素敵なボディガードさん」
ファルガーの真剣な瞳に背筋を伸ばしたドッゴが返事をする。わしゃわしゃと撫でくりまわされたドッゴは幸せそうだった。
「じゃあ、行ってくるよ。あとは頼む」
「うん、気をつけてね」
立ち上がってバックを持ち直したファルガーから額へお別れのキスを貰って、離れていく背中に軽く手を振る。
「行ってらっしゃい、ふーふーちゃん」
ファルガーとドッゴと猫三匹と過ごすこの家は、ファルガーがいないだけで別の家のようにも感じられて、顔を出す寂しさを追い払うように頭を振った。浮奇の横で見送っていたドッゴの隣にしゃがみ込んで、温かな身体に身を寄せてもう見えなくなりそうな背中を見送る。
「...行っちゃった」
『気をつけてな、人間』
不意に自分以外の声が聞こえた気がして、浮奇は辺りを見回した。
──今、どこから声が聞こえた?
瞳に授かった不思議な能力のせいで星や月の声が聞こえることはあるが、あいにくと今は真昼間だ。視線を向けたままで瞠目して固まる浮奇に、ドッゴが首を傾げる。
──まさか、そんなこと、あるわけない。
『片割れ、どうした?』
──寂しくて幻聴でも聞こえてるのかもしれない。
『うき?』
──だって、どうして、こんな...
「君、イケボすぎない!?」
理由が分からない不思議現象なんて、未来から飛ばされて来た時点で慣れている。驚く方向をドッゴに笑われた浮奇は、動物と会話ができるという珍妙な現象を深く考えずに受け入れることにした。けれどこの効果はドッゴに限ったもののようで、猫たちの声は普段通りに耳に届く。初めは夢でも見ているのかと疑った浮奇だったが、その差がむしろ現実であることを示しているようで、あとはもう受け入れざるを得なかった。
「こんなことってあり得るんだ...」
シンクの掃除をいつもより念入りにしながらぼんやりと考える。ドッゴは普段からファルガーを『人間』、浮奇を『片割れ』と呼んでいるらしい。浮奇が大層驚いたのに対してドッゴが冷静なのは、普段からこちらの声は理解されていると思っていたが故だそうで、なんともファルガーの飼い犬らしいと思った。何よりも浮奇を驚かせていたのはその声だ。身体の大きさからして低めな声が似合いそうだとは思っていたが、ファルガーに負けず劣らずのイケボである。今まで声を聞けなかったのが惜しいと思うほどには。
とにかく、不思議現象体験中で会話ができるとはいえドッゴは犬なので。ゆっくりと堪能しながら家事をこなしたい気持ちもあるが、ご飯をあげて散歩にも行かなければならない。綺麗になったシンクに満足した浮奇は、ドッゴと猫たちのご飯の準備に取り掛かった。
「ドッゴは、どうして俺と話せるの?」
『難しいことを言う、こっちは普段から通じてると思ってたのに』
「それはそうだけど」
すっかり見慣れた散歩道で浮奇の少し前を歩くドッゴは、生まれた地の影響かよそ行きの時はやけに紳士っぽい姿を見せる飼い主に似て、凛と顔を上げてご機嫌そうに尻尾を揺らしている。『人間』が頼んだ『素敵なボディガード』の役目を果たすべく、ファルガーと歩く時よりも幾分かスピードを落としてくれているらしい。何度危ないと聞かせても道路側を歩きたがるので、浮奇は気持ち短めにリードを持ち直して渋々受け入れた。そういうところまで似なくてもいいと思う。
「何か伝えたいことがあるとか、そういうのは?」
『特に思いつかないな』
大抵、こういう場合は伝えたことがあったりするものだと思うが、特に用事がある訳ではないらしい。ドッゴ側に理由がないのであれば、おそらく浮奇の方に何かあるのだと考えるのが自然だが、浮奇もまた思い当たるような理由がない。
『...どうしても理由が欲しいのか』
黙って考えていた浮奇の表情に気づいたドッゴが、不意に足を止めて問いかける。
「そうじゃないけど...だって、こんな不思議現象が急に起きるなんて、きっと理由があるんじゃないかって思っちゃうでしょ」
『私は常に話が通じているものだと思っていたから、その気持ちは分からないが。そんな風に心配にならなくても、人間も私も、片割れを大切に思っている』
ドッゴの言葉に瞠目する浮奇をよそに、ドッゴはリードを引っ張るように前へ進んでいく。慌てて歩き出した浮奇へ背中越しに『もちろん、片割れが連れてきた悪戯っ子もな』と付け足されて、胸の奥がぽかぽかと温まる心地がした。
「ねぇ、君って本当に素敵だね」
『それはどうも』
出会った頃のファルガーのような返しに、思わずくすくすと笑いが溢れる。少し照れているのだろうことも声の色から伝わって、浮奇が出会うより前からファルガーを支えてくれていたドッゴに愛おしさが溢れた。
「へへ、君を甘やかしそうになるよ」
『そりゃ大歓迎だ、お気に入りのところに連れて行っても?』
「それは君のお気に入り?ふーふーちゃんの?」
『どっちもだよ』
千切れんばかりに尻尾を振って歩くドッゴが向かったのは、小さな川だった。昼に差し掛かって高いところにある陽をキラキラと反射して静かに流れる水面は透き通っており、小さな魚が泳いでいるのがよく見える。住宅街を少し離れただけの場所にしては静かで、穏やかな時間が流れていた。
「すごい綺麗...」
『人間もお気に入りなんだ。たまに水の前に座って本を読み出すことがあるくらいに。人間がリラックスしているのは喜ばしいが、何せいつまでも続けているから退屈になる時もある』
「ふーふーちゃんらしいね、犬の君には確かに退屈だと思うけど」
ドッゴが示した場所にしゃがみ込んだ浮奇は、その場所からの景色を目に焼き付けた。穏やかな日差しと、川のせせらぎと、時折混じる小鳥の囀り。五感いっぱいに自然を感じて、ほっと肩の力が抜けていく。
「でも、本当にいい場所。ふーふーちゃんが本を取り出したくなるのも分かるかも」
最も浮奇は活字がそんなに得意な方ではなく、ファルガーに勧められた本だってちゃんと読み切ったのは数冊しかない。浮奇が一人で来たならばきっと、読書ではなくうたた寝でもしてしまいそうだった。
「なんだか眠くなってくるね」
『私が退屈した時に、何をするか教えよう』
「うん?」
『こうするんだ』
気が抜けて閉じそうになる瞳を瞬かせる浮奇を見かねたドッゴが、水面の方へ迷いなく足を踏み入れる。何をするのかぼんやりと見守っていた浮奇に、ドッゴはバシャリと水をかけてきた。
「ちょっと!?」
楽しげな笑い声を漏らしたドッゴは、二度三度と容赦なく続け様に水を浴びせてくる。自分が巨体だと自覚があるのか無いのか、浮奇が逃げ惑っても掛かるほど十分な量を浴びせたドッゴは、満足したようで川から上がった。
「信じらんない、ビッチ...」
『目が覚めたか?』
「おかげさまでね。悪戯するとこまでふーふーちゃんに似なくてもいいのに」
スニーカーとズボンの裾を濡らした浮奇は、楽しそうに足元へじゃれついてくる憎めないドッゴを撫でくり回す。濡れたのは想定外だったが、ドッゴがファルガーへ普段から心を許しているからこそできる遊びであり、浮奇にも同じように遊んできたことが嬉しくもあった。『大切に思っている』とドッゴの言葉を思い出して、ぎゅっと大きな体を抱きしめれば優しく寄り添ってくれた。
帰宅してからドッゴの身体を洗うべく水浴びをしたのに、まだ遊び足りなかったらしいドッゴが浮奇が叫ぶほどじゃれついて、すっかりびしょ濡れになって浮奇のシアーシャツが色を変えたのを写真に撮ってファルガーへ送る。「ふーふーちゃんに似てやんちゃだね」とメッセージを付け加えれば、ちょうど手が空いていたのか『俺はいい子だろ』とすぐに返事が送られてきた。
「自分で言うんだ?」
くすくすと笑っていると、昼ごはんを食べ終えたらしいドッゴが足元に寄ってくる。
『どうかしたか?』
「ふーふーちゃんって可愛いなって」
『人間もよく片割れのことを可愛いと言ってる』
食べ終えた食器と調理道具を洗いながら返事をすると、思わぬ発言が返ってきて、浮奇は一瞬固まった。浮奇の知らない場所でファルガーがドッゴに惚気ているらしい事実は、思ったよりも浮奇の心に響いた。考えてみればこの不思議現象は、浮奇がいない場所でファルガーが何を話しているのか聞き出すチャンスでもある。
「ねぇ、これ洗い終わったら少しお話しよう」
『何か聞きたいことでも?』
「たくさんある。ふーふーちゃんのブランケット、持ってきてくれる?」
頷いたドッゴはファルガーの部屋へ向かっていった。どうせなら、慣れ親しんだ匂いに包まれて話を聞きたい。いくら話を聞いて近くに感じても、今日と明日は、すぐ傍にはいないのだから。
迷いなくファルガーが使っているお気に入りのブランケットを引き摺ってきたドッゴの頭を撫でて、ソファへとドッゴを上げる。ファルガーと浮奇の二人でくっつくには少し狭く必然的に身体を重ねる形になるソファは、浮奇とドッゴなら並んで座れた。ブランケットを自分とドッゴの両方に掛けてそっと身を寄せる。
『人間の話は、何が聞きたいんだ』
「ふーふーちゃんのことを聞く前に、君はどうして俺を片割れって呼ぶの?」
浮奇は今日ドッゴと言葉が通じるようになってから、ずっと疑問に思っていたことを問い掛けた。ファルガーを『人間』と呼ぶのは分かるが、それならば浮奇を『人間その二』だとか『人間じゃない方の人間』と呼んでいてもおかしくはないと思ったからだ。浮奇の膝へ身体を伏せたドッゴは、チラリと浮奇を見て語り出す。
『私は片割れが来る前から一緒に暮らしていて、人間を理解してきたつもりだった。けれど、片割れに並ぶには程遠い。初めて片割れのことを話す人間を見た時に、片割れは魔法を使えるのかと思った。それほどに人間は、片割れと出逢ってから自分の半分を取り戻したように表情が増えた。私とあの猫たちが過ごしてきた数年間では見なかったような顔を見せるようになった』
目をぎゅっと瞑って両手で顔を覆った浮奇に、ドッゴは顔を上げる。
『照れてないで、ちゃんと最後まで聞け』
「聞いてる、聞いてるから」
図星すぎる指摘に、声が揺れてしまったのは気付かないでいて欲しかった。
『私は誇り高き犬だから、人間を傷つけるものは嫌いだ。人間は私たちよりも脆くて傷付きやすくて...誰かが守らなければならない。けれど人間は、片割れと出会ってから随分と強くなったように思う。片割れと暮らし始めてからは特に。猫たちが二人で寄り添っているように、人間も片割れと寄り添って生きていくのだと感じた。だから私は、人間の友ではなく片割れと呼ぶ。私には私の役目がある。人間を守ることであった私の役目は、人間と片割れを守ることに変わった。私は今も昔も、私の大切なものたちを守っている、それだけだ』
言葉が途切れても反応のない浮奇を見上げたドッゴは、呆れたように笑う。
『泣くな、片割れ』
「泣いてないもん」
手の甲の隙間からぽとりと雫が落ちる。目元を擦って涙を拭う浮奇に、ドッゴは涙の筋が残る頬を舐めた。
『片割れは、人間より脆いと思う時がある』
「...そうだよ。俺の方こそ、ふーふーちゃんがいないとだめなんだよ」
『そうやって素直に弱さを見せてくれることが嬉しいのだと、以前人間が言っていた』
ぽかんとしてドッゴを見つめる浮奇に、ドッゴはこてりと膝の上へ身を倒して仰向けになりリラックスした表情を見せた。
『ニンゲンにとって飾らずにいるのは難しいそうだ。片割れは素直に怒ったり泣いたり照れたりするから好きなんだと言っていた。犬の私にはてんで理解できないが、信頼しているニンゲンにしか腹を見せないのと同じようなことだろう?片割れの傍は心地良いから、守りたいのだとも言っていた。私も人間と同じだ。それに、私は人間からボディガードという光栄な指令を貰った。人間が私を、片割れを守るものとして信頼してくれているのは嬉しい』
どこか誇らしげな瞳に、浮奇は思わずドッゴの腹を撫でる。「ありがとう」と伝えれば起き上がって寄り添う温もりに、遊び回り泣き疲れた身体が眠気を連れてきた。傾き始めた陽が差し込むソファで、浮奇とドッゴは少しだけ眠った。
すっかり陽が落ち掛ける時間にウキニャの鳴き声で目を覚ました浮奇は、慌ただしくドッゴと猫たちのご飯を用意して少し早足になりながら夕方の散歩に出掛けた。ファルガーに心配されていた通り、夕方の道路は車通りが多い。運動がてらジョギングを挟むことで走り回って満足したらしいドッゴは、やはり道路側を譲らなかった。大型犬は穏やかで賢い代わりに相当の運動量を必要とするのだと改めて感じた浮奇は、この生活をもう数年続けているファルガーを心底尊敬した。
疲れ切った身体をお湯を張ったバスタブに入浴剤を溶かすことで癒して、スキンケアとヘアケアを済ませる。いつもはファルガーと二人で眠るベッドに一人で横たわって、少し考えてから浮奇はスマホを取り出した。数回のやり取りを終えて、リビングにいるだろうドッゴへ声を掛けに階下へ降りる。いつもの定位置で猫たちと丸くなっていたドッゴは足音に目を開けた。
『どうした、片割れ』
「ね、一緒に寝よう」
『...ベッドルームは入ったら人間に怒られる』
「大丈夫、ふーふーちゃんに許可もらったから。今日だけの特別な任務だって」
ファルガーから届いた返事をそのまま伝えれば、仕方ないと言わんばかりの表情で尻尾を揺らしながら立ち上がる。なんとも分かりやすくて可愛らしい姿に笑いそうになるのを堪えつつ、浮奇は寝室へ戻ってドッゴをベッドへと上げた。散歩とドッゴの悪戯で身体を動かしたせいか、ファルガーを見送るために浮奇にしては早起きをしたせいか、いつもは眠くないような時間にも関わらず瞼が閉じそうになる。浮奇より速い鼓動を聞きながら、いつもより高い体温に身を寄せて眠りに落ちていた。
『片割れ!猫が待ってる、起きろ!』
頬へ触れる濡れた感触と呼びかけるような声に薄らと目を開いた浮奇は、けれどまたすぐに目を閉じた。鼻先を押し付けて浮奇の身体を上手く仰向けにひっくり返したドッゴは、そのまま浮奇の身体を奥に押す。
『猫がご飯だとうるさいんだ。そもそも、もう朝だぞ!』
「なぁに、まだねむ...うわっ!」
なんだか文句を言っているのが遠くに聞こえて、腕を伸ばそうとした瞬間に大きく身体がぐらついた。
「ちょっと!落とす気だった!?」
ベッドから落ちた足が床について咄嗟に支えたおかげで全身が落ちることは免れた浮奇は、ベッドへ身体を戻しながら叫んだ。
『起きないのが悪いだろう。人間から聞いていたが、本当に起きないんだな』
「ふーふーちゃん、そんなことまで話してるの!?」
『人間はお喋り好きだ、片割れはよく知っているだろう』
想像以上に筒抜けなことを寝起きの回らない頭で理解していれば、『猫にご飯をあげてくれ』と部屋を出ていくドッゴに急かされる。なんともペットらしくない発言に笑って、浮奇はその後ろを追いかけた。
ドッゴと猫たちのご飯を準備して、コーヒーを啜ったところでようやく浮奇の頭は活動を始めた。予定が長引いてなければファルガーは午前中のうちに帰ってくる。それまでにドッゴの散歩は済ませなければいけないし、昨日水浴びで遊んだせいで増えた洗濯くらいは終わらせたい。ぐっと両腕をあげて伸びをすれば、肺が少し冷えた新鮮な朝の空気を取り込んだ。浮奇にしてはとてつもない早起きだが、ファルガーが帰ってくると思えばそれすらも楽しい。
洗濯を済ませて軽いメイクをした浮奇は、鼻歌でも歌い出しそうなほど機嫌が良い浮奇を訝しむドッゴと散歩に出た。相変わらず道路側を譲らないドッゴが、やけに足取りの軽い浮奇に問い掛ける。
『随分と嬉しそうだな』
「だって、ふーふーちゃんが帰ってくるんだよ?」
『早起きを嫌がって元気がなくなるかもしれないと人間が言っていた』
「ふーふーちゃんは俺の愛を軽くみてるね」
犬も喰わない惚気を聞き流したドッゴは呆れたような顔をしながらも、少し嬉しそうだった。
「たまには朝の空気を吸うのも悪くないかも」
『片割れと暮らし始めた頃は、ニンゲンにも夜行性がいるのかと思っていた』
「ふふ、なにそれ」
深夜までゲームや作業をして昼近くに起きる生活をしていれば、夜行性だと思われるのも間違いではない気もする。それでも、ファルガーと暮らし始めてから少しずつ生活を近づける努力はしていて、一緒に朝の散歩へ出た際に「人間は昼間に活動するようにできてるんだね」とぼやいた浮奇にファルガーがケトルを沸かしたのも覚えている。
ぼんやりと懐かしいことを考えながら自宅近くまで戻ってきたところで、ドッゴが不意に足を止めた。
「どうしたの?」
『良いタイミングだったな、片割れ』
ドッゴの視線の先で、自宅の前に一台のタクシーが止まる。
『ほら、早く行くぞ!』
浮奇が何か言うより早く、ドッゴが走り出した。タクシーを降りたその人は、慌ただしく駆け寄ってくる一匹と一人を見た瞬間に瞳を丸くして、それから慌てて荷物を地面に置いた。
「ちょ、まっ、たすけて!」
ドッゴにリードを引っ張られて足が縺れながら走る浮奇は、愛おしいその人に必死で助けを求めた。ファルガーは飛び掛かりかねない勢いで近づくドッゴを上手く避けて、飛び込んできた浮奇の身体を抱き止める。
「大丈夫か?...ドッゴ、落ち着け」
浮奇の手からリードを外したファルガーは、片手で浮奇を抱き締めたままで興奮しっぱなしのドッゴを落ち着けた。走ったせいか一日ぶりに会うせいか、ドキドキと音を立てる心臓が収まりそうにない。
「全く、浮奇に優しくしろって言っただろ」
ようやく落ち着いたらしいドッゴが二人の足元に擦り寄って、浮奇は弾む息を整えながらそっと頭を撫でた。
「ドッゴは良い子だったよ」
「本当か?」
「素敵なボディーガードさんだったし、たくさんお喋りしたもんね」
ドッゴへと声を掛ければ、ワンッ、と返事をされて浮奇は瞠目する。固まる浮奇を不思議に思ったファルガーが、浮奇の頭を撫でて問い掛けた。
「どうした?」
「ドッゴと話せたんだよ、さっきまで」
「動物の言葉が分かるようになったのか?」
「ううん、ドッゴだけ。ふーふーちゃんが検査に行ってから、さっきここに走ってくるまで会話ができたんだけど...もう聞こえなくなっちゃった」
あまりにあっけない終わり方に消化不良気味な気持ちを抱えて表情を曇らせる浮奇に、ファルガーはもう一度頭を撫でてからリードを返した。地面に置いていた荷物を持って、空いた手を浮奇の片手と繋ぐ。二人と一匹で玄関をくぐるまで手を離さなかったファルガーは、荷物をリビングのテーブルへ置いてから、リードを外して散歩用のバッグを片付けた浮奇の手を引いてソファへと向かった。
「ドッゴは何か変なこと言ってなかったか?」
「ふーふーちゃんは俺のことが大好きだって言ってた」
「それなら構わないな」
「構わないんだ?」
先に座ったファルガーに腕を引かれて、向き合うように膝へ座る。ふと伸びてきた赤い手が浮奇の横髪を耳へ掛けて、じっと熱の籠る瞳で見つめられた。
「ただいま、浮奇」
「おかえり、ふーふーちゃん」
たった一日ぶりなのに色々な出来事があったせいか、もう数日は離れていたような感覚に浮奇の熱が上がる。
「ドッゴと色んなこと話したけど、俺にはふーふーちゃんが必要だなって改めて思った」
「それは一体どんな話をしたんだか気になるが。...俺にも浮奇が必要だよ」
ぎゅっと抱き締められて、その腕の強さに何かあったことを察する。いつか話せる時が来たら、ファルガーの背負う荷物を分けてくれるのだろうか。その時には、浮奇が背負っている暗い過去も笑い話にできるだろうか。背中に腕を回そうとして、不意にシャツの襟口から見える赤い背骨にそっと触れた。ぴくりと小さく跳ねたことで、意外とファルガーは背中が弱いことを思い出す。
「ん、誘ってるのか」
「...お留守番のご褒美くらい貰ってもいいでしょ?」
浮奇の言葉にふっと笑ったファルガーは、そっと浮奇の唇を塞いだ。離れていくそれを追いかけるように浮奇から重ねれば、今度は意図を持って深まる口付けに瞳を閉じる。
「浮奇、」
熱い吐息の混じる声が耳に届いた瞬間に現実へ引き戻すように、ワン、とドッゴの声がした。思わぬタイミングに、二人で顔を見合わせて吹き出す。
「ドッゴもご褒美が欲しいんじゃない?」
「オーケー、ボディガード代を支払ってやらなきゃな」
でもその前に、とファルガーの膝から降りようとしていた身体を引き寄せられた。奪うように口付けられて呆けている間に、ファルガーはドッゴへ特別なとき用のおやつをあげにキッチンへ向かってしまう。
「ちょっと、ふーふーちゃん!?」
抗議の声はキッチンまで届いたらしく、ファルガーの笑い声が聞こえる。浮奇は今夜ご褒美を貰う前に、ドッゴが教えてくれたファルガーの話を寝物語に聞かせようと決心した。ファルガーだって間違いなく、浮奇の「片割れ」なのだから。