雨の降り続くある日、配信を終えて階下に降りたファルガーは、シンクに重なった食器を見つけた。やや潔癖の気がある浮奇が片付いていないキッチンが好まないのは、自他問わずに認める周知の事実である。遅めの昼食をとったばかりだったにしては妙な時間に置かれているそれに違和感を覚えて、室内を見渡せばソファの上に丸い塊を見つける。
分厚い雲に覆われて仄暗い空間に響くのは、浮奇と愛犬の寝息だけだった。
「浮奇」
名前を呼べばむずがるように顔をクッションへと埋め込む仕草が愛おしくて、小さく息を溢しながらふわふわと触り心地の良い髪を撫でる。
「浮奇、どこか具合が悪いのか?」
肩を叩きながら問い掛ければ、眠気に囚われた星空を宿す瞳が軽く開かれる。ぱちぱちと瞬きを繰り返す浮奇に、もう一度同じ言葉をかければ、ゆるく首を横に振られた。何かを訴えるように伸ばされた腕の意図を正確に汲み取ったファルガーは、心配を滲ませた表情を崩せないまま、その身体を抱え起こして自分の方へと凭れ掛からせる。ちょうど良い位置を探すように頭を動かした浮奇は、落ち着く場所を見つけるとファルガーを見つめてきた。
「ふーふーちゃんこそ、どうしたの。可愛い顔が台無しなんだけど」
「...誰のせいだと思ってる」
呆れを含んだ溜め息を大袈裟に溢してみせれば、腕の中の愛しい人は何が楽しいのかケラケラと笑う。胸のわだかまりを言葉にするのは躊躇われて、代わりにきめやかな手入れの行き届いた頬を挟んで捏ねくり回してやった。
「もう、なぁに?」
赤い手に重なった掌を捕まえて、指を絡めて繋ぐ。何か言いたげな視線に気付いた浮奇は、小さく首を傾げた。
「何かあったのか」
確信を持って言葉を紡げば、静寂が室内を満たす。それが肯定を示すと分かっているのか、逸らされた視線が戻る気配はなかった。
『何かあったら直ぐに言って』『溜め込まないで』何度もお互いに掛け合ってきた言葉が、本当に苦しい時ほど意味を持たないのだと気付いたのはいつだっただろう。けれど、大人になりすぎて取り繕うことが上手くなった二人が、こうして互いの前では弱さを見せられるようになったのは、何度も言葉を重ねて積み上げてきた信頼があってこそ。
───きっと、過ごしてきた時間も、交わしてきた言葉も、意味のないものなんて、ひとつもない。
頑なに振り向かない顔を無理に向けて問い詰めるよりも、滑稽に笑い飛ばしてしまった方が救われることだってあるだろう。
「よし。では、今から診察を始める」
「...は?」
「ドクターのライセンスは持ってるから安心していい」
至って真剣な声で告げた突拍子もない言葉を聞いて、思わず視線を向けて明らかに戸惑う姿に笑いそうになるのを堪える。腕に囲った身体をこちらに向かせて、手始めにぺたぺたと顔へ触れた。
「うん、表情はいつもより暗い気がする。ずっと見ていたいほど瞳が綺麗...なのは、いつものことだな。でも、いつもよりちょっと眠そうだ」
「ちょっと、これ、なにごっこなの」
浮奇の問いかけを聞き流したファルガーは、そのまま身体を引き寄せて胸へと耳を寄せた。
「心臓は問題なさそう...いや、少し鼓動が早いか?」
「ふーふーちゃんが変なことするから!」
律儀につっこんでくる浮奇に笑いを誘われるのを必死で堪えて、ぐっと尻を持ち上げ重なるように身体を引き寄せる。ついでに背中から服の中へ手を忍ばせれば、耳元で短い悲鳴が上がった。
「こっちは変わりないな」
「どこの話してんの!?」
そろそろ笑いを我慢できる気がしなくて、ファルガーは腕の中で浮奇の身体を横に向けると膝下へ腕を入れて抱き上げた。
「ふーふーちゃん、なにするつもり...?」
「今すぐに手術が必要そうだから、手術台まで移動する」
「えっ、」
何を想像したのか手に取るように分かってしまうから吹き出しそうになって、けれどあくまでロールプレイを貫く。手術台と称したベッドに優しく降ろせば、期待を滲ませて赤らむ瞳が見つめてきた。
「まだ昼間なんだけど...」
「知ってる」
あやすように額に口付けを落として、ファルガーはいよいよ耐えられなくなって無意識に上がる口角を見られないように、布団を浮奇へと被せた。
「ちょっと!」
「麻酔がわりに歌うから、大人しく良い夢みて眠れ」
もがいて顔だけ出した浮奇の柔らかな髪をくしゃりと掻き撫ぜれば、こちらを見上げてくる浮奇の周りは疑問符だらけになっていて、思わず苦笑を溢す。
「...ふーふーちゃんの意地悪」
「なんとでも言え。溜め込んでた方が意地悪だろう」
わざとチクリと刺さる言葉を選べば、不満げに唇が尖った。指先でつつけば噛みついてくるのさえ愛おしくて、こんな日々が続けばいいと、柄にもなくそんなことを思う。
「じゃあ、リクエストしてもいい?」
「どうぞ」
告げられた名前に、どきりと心臓が跳ねた。
沈んでたのはお互い様だなんて、どこから気付いていたのか。意味ありげに見つめてくる視線は言葉よりも雄弁で、首を横に振りながら両手を挙げることしかできなかった。
愛し愛され、包み包まれ、また日々は巡る。