時計の短針が二度目の頂上に差し掛かる時間。ファルガーは重たい身体を引きずって、ようやくオフィスを後にしていた。世間が明日から連休を迎える今夜はやけに静かだ。溜まった疲労とストレスは家に着くまで待ってくれそうもなくて、帰路の途中で人の気配もまばらなコンビニに立ち寄り酒を買った。朝から晩までパソコンに向かい続けて凝り固まった身体は歩くだけでも叫び出して、座れる場所を求めて公園へと足を向ける。歩きながらウイスキー缶を開けて勢いよく煽れば、腹の底で澱んだ何かが口を開けて飲み込むような感覚がした。
手軽さを求めた安っぽい味と、人の気配がない寂れた公園と、恋人もおらず日々仕事に明け暮れるばかりの自分と。世界がまるでモノクロに見えた。
ファルガーが立ち寄った公園は、駅から距離があるせいか面積に比して昼間でも人の気配は疎らな場所だ。けれど広く開けた場所でもあり、点々と置かれた街灯が照らせない範囲でも月明かりで十分なほどに明るい。都会の喧騒から離れた静寂に耳を傾けていれば、不意に楽器の音が聞こえてきた。
「ギターか?珍しいな」
それほど遠くもなさそうな距離から聞こえてくるのを辿って歩き回ると、ギターを抱えた青年を見つける。ギターの音に気を取られていたが、近づいてやっと聞こえるほどの距離になって彼が口ずさんでいることに気付いた。
少し離れたベンチに座って残りの酒を煽っていれば、ファルガーの存在に気付いていないらしい彼が歌い始める。聞いたことのない曲だった。流行りに疎いファルガーは余り多くの曲を知らないが、世間で流行るような曲とは少し違う雰囲気を感じる。夜空を想わせる曲調に物語風の歌詞が重なり幻想的だ。音を紡ぐ指先は軽やかなのに一つ一つを丁寧に奏でているように思えるし、何よりも彼の声に息が止まりそうになった。
力強くはないが、決して弱くもない。穏やかなようで、芯を持っている。言葉で並べ立てると中途半端なように見えるが、波のように柔らかく心の真ん中を射抜いてくる。それでいて突き放すようではなく、優しく包むように身体の奥を駆け抜けていくような。初めて出逢う声だった。
すっかりと聞き惚れていたファルガーは、歌い終わり声が止んだタイミングでつい彼の方へと視線を向けた。刹那、星を散りばめたような瞳とバチリと視線が絡む。彼は本当にファルガーがいたことに気付いていなかったようで、警戒する猫の如く数秒固まった後に気まずそうに視線を逸らされた。
「...」
「...」
路上ライブの練習にしては随分と私的な歌に聞こえたところをみるに、きっと誰かに聞かせるつもりはなかったのだろう。けれどたった数分でファルガーの心を奪った歌声に何か言いたくて、なのに上手く言葉が出てこない。だがこれ以上何もせずに動かなければ本格的に不審者になりそうで、ファルガーは尻ポケットに捩じ込んでいた財布から紙幣を数枚抜き取った。俯いたままの彼に近づいて、彼の傍に置いてあるギターのケースへとそっと置く。
「良い歌声だったよ」
ただ伝えたかったことを言い切ったファルガーは、弾かれたように顔を上げた彼と視線を合わせることはせずに、何か言いたげな彼に背を向けて公園を後にした。
不思議な青年に出会ってから一週間。やたらと多忙だった日々を乗り越えればそこからは嵐が過ぎ去ったかのように穏やかで、特にここ数日は残業も少なく早めに帰ることができていた。あの日に聞いた歌声を忘れられずに微かな希望を持って公園を通るたびに耳を澄ませているが、ギターの音色はおろか人の気配すらしない日々が続いている。
夕暮れから夜へ移り行く瞬間のような、淡い儚く響く、けれど印象に残る声だった。
「今日はもう終わりそうか?」
今日も早めに業務を終えたファルガーは、デスクの上を片付けながら隣に座るサニーに声をかけた。入社から同じ部署で働いているサニーとは、同期である以上に気が合う仕事仲間であり友人でもある。
「今日は終わらない。下手したら日付回るかも」
「珍しいな、どうしたんだ?」
何でも卒なくこなす印象のあるサニーは、画面を睨み付けながら眉間に皺を寄せていた。
「代わりを任されたから、急いで資料を作り上げなくちゃいけなくなって」
「それはまた随分と運が悪い。どのくらい終わってる?」
「粗方終わってはいるんだけど、細かいところがまだ...」
溜息混じりに返事をするサニーは随分と疲れ切った声で、ファルガーは片付ける手を止めてバッグを元の位置に戻した。
「よし、手伝うよ。」
「え?悪いよ、そんな。」
ファルガーの言葉に驚いたのか、ようやく画面から顔を上げて首を横に振る様子にくすくすと笑いを溢す。
「たまにはやらせてくれ。部署イチ効率のいいお前の仕事の手伝いなんて、滅多にできることじゃない」
冗談混じりに言えば、サニーはほっとしたように肩の力を抜いたように見えた。
「部署イチ世話焼きなファルガーに手伝ってもらえるなんて光栄だな」
「ははっ!良いように使われてるだけだよ」
入社してから片手以上の時間が経ち、今や後輩育成を任されるようになってきた二人にとって同期と話せる時間は貴重だった。作業の手分けもちょっとしたアドバイスも、酷く懐かしく思える。
「昔はよくこうやって残業してたな」
「コーヒーとカップ麺でね。日付回ったこともあったっけ」
「あったな。保存をこまめにする癖のない誰かさんが、完成直前にデータを吹っ飛ばしたのはよく覚えてる」
痛い記憶を突かれたのか、隣のデスクにサニーが突っ伏したのを見てファルガーはケトルを沸かした。
「あれはマジで人生で最大の悪夢だった」
「体を張った素晴らしい教訓だったよ」
「そういうファルガーはデカい失敗とかしたことない気がする」
基本的には石橋を叩いて渡りたいタイプのファルガーは、確かにサニーのようなミスをした覚えはなかった。だが、そもそも仕事以外の面ではポンコツでもある。
「あー...遅刻なら何度かあるな」
「道端で困ってたおばあちゃんを助けたってやつ?言い訳が下手だなって思ってた」
「残念ながら本当に助けてたんだよ。全然信じてもらえなかったけどな」
我ながら漫画かドラマかと言いたくなるような言い訳なだけに、当時は相当に揶揄われた。急いで向かった駅で重い荷物を引きずりながら階段を登ろうとする老婦人に声を掛けて手伝うなんて言い訳の定番のようなシチュエーションが、本当に現実に起きると誰が思うだろうか。
「今なら本当だって分かるよ。ファルガーならやりそうだ」
何でもないことのように言われたセリフは、ファルガーの心に真っ直ぐに響く。積み重ねた時間の分だけ信頼が築けていることを感じて、少しだけむず痒かった。
部署イチ効率の良いサニーと部署イチ世話焼きなファルガーがタッグを組めば、途方もないように感じられた作業も日付が回る前に終えられた。両腕を上に伸ばしてストレッチをすれば、どっと疲労とともに達成感が襲ってくる。
「本当にありがとう、助かった」
「どういたしまして。久々にサニーと仕事が出来て楽しかった」
「俺も。そのうち一緒のプロジェクトとか出来たら良いんだけどな、後輩相手も疲れてきた」
「こら、お前は後輩育成のスペシャリストだろ。でも確かに、またサニーと仕事できるのを楽しみにしてるよ」
久しぶりに真夜中に近い時間に会社を出たファルガーは、思わず空を仰いだ。よく晴れて雲がなく月も細いからか、都会の割に星々がよく見える。長時間労働をした後にしてはサニーと会話したせいかスッキリしている身体を不思議に思いつつ、時々見上げながら歩いていればいつの間にか例の公園の近くまで来ていた。いつものように立ち止まって耳を澄ませばギターの音色が聞こえた気がして、考えるより前に足がそちらへ向かう。
待ち侘びて幻聴でも聞こえたのかと頭の片隅に過った心配は不要だったようで、あの時の青年がベンチでギターを鳴らしていた。今度はきちんと近づいて聞こうと側によれば、足音に気付いた彼が顔を上げる。
「...!」
ファルガーの顔を見た途端にハッとした顔をする彼に首を傾げれば、慌てたようにギターを横に置いた彼に強く両腕を掴まれた。
「あのっ!この間の、ひと...ですよね?」
初めて間近で見た青年は、ファルガーの記憶よりも美しかった。綺麗な髪色と瞳だとは思ったが、よく見ると月明かりを受けて輝く左右の瞳が僅かに違う色を放っていることに気付く。
「あ、あぁ。この間は盗み聞きしてすまなかった」
「いえ、あの...探してたんです。この前のお金、返したくて」
青年はそっと両腕を離してから、小さな袋を差し出してきた。名前は知らないが可愛らしいキャラクターが描かれた半透明の袋から透けて見えるのは紙幣のようだった。あの日、ファルガーが逃げるように押し付けた紙幣を、わざわざ袋に入れて取っておいたらしい。
「...どうして?」
考えるより先に口をついた純粋な疑問に、青年は瞳を伏せた。
「俺、ここには練習しにきてただけなんです。ライブをしにきた訳でも、お金を貰えるような上手い歌を聴かせた訳でもなくて。だから、このお金には相応しくない」
やたら自己評価の低いひとだな、と思った。歌声は柔らかでも芯を持っていたように感じたのだが、当の本人自身はそうでもないようだ。ファルガーは首を横に振りながら、袋を差し出す彼の手を両手でそっと包んだ。
「いや、これは貰っておいてくれないか。押し付けみたいになったのは悪かった。ただ、君の声で心が満たされたことを伝えたかったんだ」
「俺の、声で...」
戸惑ったように瞳を揺らす青年は暗いものを何か抱えているように見えて、けれどあの日のように掛ける言葉を迷う。何か言わなければと口を開いた瞬間、腹から空腹を告げる音がした。
「...ふっ、ははは!」
思わずといった様子で笑い出す青年に、無意識に詰めていた息を吐き出す。緊張が解けたのか目尻に涙を浮かべるほど笑う彼の頭をこつりと指先で叩いた。
「こら、笑すぎだろ。」
「ふふっ、ごめんなさい。だってタイミングが良すぎて。...夜ご飯、食べてないんですか?」
「今日は同僚の仕事を手伝って遅くなったからな、まだ食べてない」
「お昼からずっと?もう明日が今日になるのに?」
目を丸くしてこちらを見る彼に頷きを返す。サニーと残業をしている時は楽しくて夢中で気付かなかったらしい。この時間に何か食べるのは身体によくないのは分かっているが、言葉にされると余計に空腹を感じてきて思わず軽く腹を摩った。
「ねぇ、一緒に食べにいきませんか」
予想もしていなかった唐突な申し出を理解しようと固まるうちに、彼は広げていた譜面を手速くしまってギターをケースへと戻してしまう。
「君もお腹が空いたのか?」
「うん。なんか甘いものが食べたくなっちゃって」
ギターケースを背負った彼が悪戯っぽく笑いかけてきて、ファルガーは首を傾げる。
「返すのは受け取ってもらえないみたいだから、お支払いはあなたがくれたお金で。ね?」
彼の手にあったのは大切に紙幣が仕舞われた袋で、その賢さに思わず両腕を上げて降参を示した。
食事に行くとはいえすっかり深夜帯のため、まだ営業している手身近なファミリーレストランに入る。注文したものを待つ間、二人はようやく面と向かって話す機会を得た。
「あなたは余りあの辺には寄らないの?俺、あの日から毎日ずっと探してたのに全然会えなかった」
開口一番のセリフがあまりに衝撃で、飲み込んだ冷たい水が変なところを通りそうになる。てっきり偶然会えたら程度に探していたのかと思ったが、まさか彼もファルガーと同じように探していたとは。
「帰り道だから毎日通ってるんだが、もしかしたら時間帯が合わないのかもな。いつもはもっと早い時間に通るから」
「言われてみれば、あの時も夜遅い時間だった...なんで気付かなかったんだろう」
必死に平静を装いながら返事をすれば、目の前の彼は愕然とした様子で両手で顔を覆う。物静かで落ち着いた雰囲気を纏っているくせに、ころころと変わる表情が愛らしい。
「君はいつもあの公園で歌ってるのか?」
「うん。でも歌うのは気が向いた時だけ」
アイスティーをストローでかき混ぜながら青年が答える。
「じゃあ、あの日に歌を聞けたのは偶然だったんだな。」
「違う」
柔らかな物腰のようでハッキリと否定されて、ファルガーは思わず瞠目した。こちらに向けられた視線には、静かに揺らめく熱が見える。
「また、あなたに聞いて欲しいと思った。だからこれは必然だよ」
俺もこの子くらいの年頃の時はこんなに情熱的だっただろうか。いや、違う気がする。真っ直ぐにこちらへ向けられる好意とも取れる言葉に、年甲斐もなく固まってしまう。
「会えて良かった」
「...」
「お待たせしました」
言葉を紡ごうと開いた口は料理を持って来たウエイターの声に掻き消され、青年の視線は運ばれた料理へと逸れる。甘いものを食べたかったという言葉に嘘はなかったようで、目の前のパフェに釘付けになる様子はファルガーの目に可愛らしく映った。
食べながら交わした言葉はそう多くなったが、歳も近く話が合うことに気付けば他愛無い話題でしばらく盛り上がり、すっかり話し込んで店を出た頃には丑三つ時に近かった。
「遅くまで悪かった。家まで送るか?」
「ううん、逆方向だから大丈夫」
「...気を付けて帰れよ」
ギターを背負い直す彼にいま何か言葉を掛けなければいけない気がして口を開いたが、出てきたのは何でもない言葉だけだった。それでも彼は何処か嬉しそうに瞳を細めて笑う。
「あなたもね」
やたらとギターケースが大きく見える背中が暗闇に溶けていくまで見送って、星空と静寂に包まれてからようやく足を動かした。長い一日だったにも関わらず、ファルガーの足取りは軽かった。
多忙だった訳でもないのに気付けばあの日からまた一週間が経っていて、ファルガーはどうして連絡先を聞かなかったのかじわじわと後悔に苛まれる日々を過ごしていた。仕事帰りに公園内へわざわざ立ち寄っても全く会える気配がない。ファルガーがあの時間帯に通ることは珍しいと知っていて、それでも会えないとなると、そんなに会いたくもないのだろうか。別れ際の綺麗な笑顔を思い出す度に、思考はどんどんと悪い方に向かっていく。
「はぁ...」
無意識に何度目か数えきれない溜息を溢すと、隣の席のサニーが声をかけてきた。
「どうかした?最近、溜息が多い気がする」
「いや、なんでもない」
二回ほど会っただけで名前もろくに知らない青年に会えなくて気分が沈んでいるなんて話をしたら、きっと笑われるに決まってる。まるでキャバクラに入れ込んで返事が貰えないと落ち込むオジサンだろう。
「そう?」
軽く首を傾げてみせるサニーに、不意に同性の彼氏がいることを思い出した。ファルガーとも仕事づてに顔見知りの猫っぽい彼とは最近どうなのか、普段プライベートな話をすることが少ない分、たまにはこちらから聞いてみるのも良いかも知らない。話を振って誤魔化すついでに口を開こうとした瞬間、サニーのセリフに固まった。
「最近、恋でもしてるような顔をしてたから気になってたのに」
「こっ!?」
図星を突かれて驚いてあげた素っ頓狂な声は肯定しているようなものだと気づいたがすでに遅く、しかも運の悪いことにその瞬間だけやけにオフィスが静かになったせいで思ったより声が大きく響いた。フロアにいた大半の視線がこちらに向けられて、ファルガーは両手で口を押さえて身体を縮こまらせる。隣のデスクを睨めば、サニーは机に突っ伏して肩を振るわせていた。
「お前な...覚えとけよ」
羞恥に耳まで赤くしたファルガーが低く威嚇を込めた声は、必死に息を整えているサニーにはあまり効果がないようで、脚を伸ばしてサニーの座る椅子を蹴った。
「オーヴィドとブリスコ」
視線から隠れるように頭を低くするファルガーと笑いに突っ伏すサニーの頭上に唐突に声が降って、揃って顔をあげれば、直属の上司が資料を片手に背後へ立っていた。
「少し良いか」
「はい」
声を上げたサニーはすっかり仕事モードの顔で、つい数秒前まで笑っていた様子は微塵も感じられず相変わらず鬼のように切り替えが上手いやつだなと感心する。サニーに倣って椅子を回し身体ごと向き直ると、一部しかないらしい資料を手渡された。
「外部からの依頼を二人に頼みたい」
「...私たちに、ですか」
「向こうはブリスコと一緒に仕事をしたことがあるらしい。ぜひ二人に、と依頼を受けた」
上司の言葉にファルガーは首を傾げる。元々後輩を連れながら外部と仕事をすることが多いサニーに比べて、内部で同僚や後輩を相手に指導をすることが多いファルガーは、自身が指名された理由に思い当たらなかったからだ。ましてや、以前仕事をしたのがサニーだけならばファルガーまで指名するのは不可解だ。しかし、隣でファルガーが持つ資料を覗き込んだサニーは何かに気づいたようで「分かりました」と即座に返事をした。
「打ち合わせは今日の十三時。あとは頼んだぞ」
サニーの返事を二人の返事と取った上司は、ファルガーの返事を聞く前に立ち去る。
「打ち合わせが今日って随分と急すぎないか?」
突然仕事を振られるのはよくあることだが、当日中に打ち合わせの時間まで決まっているとは思わなかった。余りにも横暴なパスに思えるが、上司からのサニーへの信頼度の厚さなのだと捉えるしかないのだろうか。
「俺が断る訳ないと思ったんだろうけど、当たってるね」
溜息を吐いたサニーが不意に手を伸ばし、ファルガーの持つ資料の一部をトントンと指で示す。
「あの人がこれを知ってるか分からないけど、これを見たら俺に断る理由なんてないでしょ」
そこに記載されていたのは、随分と見覚えのある名前だった。
「こんにちは、ブリスコさんいますか?」
サニーの名前で予約が取られていた会議室で準備をしていると、聞き慣れた声が聞こえてくる。入り口を振り向くと、他所行きの雰囲気を纏う見慣れた人物と視線が合って、ファルガーは何とも言えない顔をした。
「こちらにどうぞ」
他人行儀なふりをしながら返事をしたサニーに促されて室内へと入った茶髪の人物は、後ろ手にドアを閉めるなり、くしゃりと破顔する。
「サニー!」
「あうばん!」
ファルガーとサニーにプロジェクトを持ちかけたのは、サニーの恋人であるアルバーンだった。にこにこと見つめ合う二人は今すぐにでもハグしそうな勢いで、ファルガーは態とらしく大きめの咳払いで存在感を示す。
「あ、ファルガー。お疲れ」
「...どーも」
いま気づきましたと言わんばかりの視線と雑な挨拶を寄越したアルバーンは、すぐに目の前の金髪へと視線を戻す。
「俺たちを指名したのはアルバーン?」
「そう!サニーと一緒に仕事がしたくて」
───公私混同、職権濫用。
こう見えて二人ともそれぞれの社内における評価は随分と高く、特に外部との仕事におけるスキルが秀でていると上司からの信頼も厚い。時間を掛けて信頼を得るタイプのファルガーとは真逆とも取れる二人の仕事ぶりは、何度見ても見事なものだと言わざるを得ない。こうして公私混同が出来るような立場にいるのだって、それぞれにスキルと信頼を勝ち得ているからこそである。
───お互いに努力の上に成り立つ権力であれば、たまには利用するのだって許されるべきだろう。
内心でなんとか自分を納得させたファルガーは、会議資料を手に取るアルバーンへ再び声を掛けた。
「サニーと仕事がしたかったのは分かるが、どうして俺まで指名したんだ?」
「どうせなら知ってる人の方がやりやすいし。それに、会わせたいひとがいたから」
ファルガーは思い当たる節もなく、小さく首を傾げた。
「前に別のプロジェクトで連携したことがあるんだけど、すごく仕事がしやすい人がいて。今回も手伝いを頼んだんだ。...もう着いた頃じゃないかな」
アルバーンの言葉につられてドアへ視線を向けると、コンコンと小さくノックをする音が聞こえた。
「入ってきて!」
そっと押し開けられたドアから、どこかで見たような髪色が覗く。緊張した面持ちのその人物は、部屋にいる全員と視線を合わせた後で、恐る恐る入ってきた。
「君は...」
ファルガーの心臓が、まるで耳の真横にでもあるかのように大きく拍動を告げる。淡く溶けそうな紫と青の入り混じるグラデーションが掛かった髪に、夜空の星を捕まえて散りばめたような左右で色が異なる瞳。間違えようがない、あの時の青年だ。
「浮奇・ヴィオレタ、です」
ドアの前で頭を下げる姿を視界で捉えながらも、余りにも驚きすぎた思考はすっかりと上の空で、名前まで綺麗なんだな、と夢見心地に思った。浮奇、と名乗った青年は真っ直ぐにファルガーの前まで歩み寄る。
「...また会えたね」
少し照れくさそうにふわりと笑う浮奇に、ファルガーは眩暈を覚えた。
何か言いたげに向けられるサニーからの痛い視線を意図的に悉く無視しながら、改めてそれぞれの自己紹介を済ませる。ファルガー自身も色々と思うところはあるが、そもそもこれは上司から請け負った仕事であることを無理矢理に脳味噌へ刻み込んだ。
「ほら、早く始めるぞ」
私情を排除しようと必死に冷静な振りをするファルガーの横で恋人たちが当然のようにいちゃいちゃし始めるのを時折止めつつ、至極真面目にプロジェクトに関してのスケジュールと役割分担を話し合う。当の浮奇は思わせぶりな台詞を吐いたきり大人しくなって、ファルガーに倣って真面目に取り組んでいた。緊張して静かなのかと思ったがどうやら違ったようで、数度会話を往復しただけでファルガーはあることに気付く。浮奇は適度なタイミングで提案や疑問を口にするなど、サポート役が非常に上手いのだ。これまでに何度も色々な人と仕事をしてきたアルバーンからの『仕事がしやすい』という評価も頷ける。細やかな所に気付き手助けをする浮奇に思わず感嘆を漏らせば、星を散らした瞳がきゅっと細まった。
「共有しておかなきゃいけないことは、これくらいか?」
「うん、そうだね」
「だいぶイメージは掴めたから、ひとまずこれで進めてみよう」
「オッケー!進捗は適宜、報告するようにしようね」
外部連携の上手い人間とは得てして外交的であることが多いゆえに構えていたが、顔見知りが相手となれば随分とスムーズで、経験がある分を考慮すると下手をすれば内部の同僚や部下よりやりやすいな、と頭の端で思う。連絡用にサニーとアルバーンを中心にグループチャットを作り、ミーティングを筒がなく終えた一向は解散した。
顔見知りとはいえお客様ではあるのでしっかりと二人を会社の入り口まで連れて、並んで歩く背丈の異なる背中が見えなくなるまで見送る。残った作業に取り掛かろうと踵を返そうとした直後、サニーに肩を掴まれた。
「あんな美人と、どこで出逢ったわけ?」
怪訝そうに聞いてくるサニーの言葉に、ファルガーは瞠目した。
───そりゃ美人ではあったが、男を相手にするような言い方か?
「なんだ、心変わりはアルバーンに怒られるぞ」
「そーゆーこと聞いてるんじゃないんだよ」
態と揶揄うのを諌めるように、週に数回ジムに通う筋肉質な腕がファルガーの肩を叩く。男同士で遠慮もないそれに、ぐらりと身体がふらついた。
「サニーは知ってて、アルバーンと一緒に嵌めてきたのかと思った」
「知らないよ。前に話を聞いたことはある気がするけど...」
「アルバーンから?どんな話だったんだ?」
「よく覚えてない」
予想通りの返答に、そうだろうな、と肩をすくめる。アルバーン以外にまるで興味がないのだから、恋人に危害を加えない限りは、この男の記憶に残ることすら難しいのだろう。
「そうじゃなくて、本当にどういう経緯なの」
「お前がそこまで気にするのは珍しいな。気になったのか?」
「そんなんじゃないから」
語気を強めて否定するサニーを笑うと、またしても肩を強めに叩かれる。痣ができたらどうしてくれるんだ。二度も有耶無耶な返答で流せばさすがに諦めたようで、溜息混じりに瞳を細められた。
「何かあったらちゃんと相談しろよ」
「いや、浮奇とはそういう関係なわけじゃないって...聞いてるか?」
もう興味を無くしたらしいサニーはファルガーの返答の途中で背中を向けていて、思わずこちらも溜息を吐く。同期として出会って数年。良き友人としての付き合いも長いサニーには過去の恋愛にまつわる失敗も赤裸々に知られていて、本気で心配してくれていることは分かっている。とはいえ、浮奇とはまだそんな関係なわけではないし。
───まだ?
心に覚えたのは小さな引っ掛かり。まだ本気で痛くなる前のささくれを見つけた時のような、それとも傷があると気付いた途端に痛みを感じるような、なんとも言えない感覚。この意味を知りたいような、知りたくないような。
───いや、サニーが変な言い方をしたせいだろ。
もやの掛かる心を拭うようにかぶりを振って、残りの仕事を片付けるべく仕事に戻った。
日々を忙しく過ごしながらもプロジェクトは順調で、浮奇と二人で担当する部分も滞りなく進んでいる。こちらの言いたいことを汲み取るのが上手い浮奇との仕事は、円滑に話が進むし役割分担もすんなりと決まって、ファルガーの中では「公園で出逢った謎の青年」から「とてつもなく仕事がしやすい相手」になりつつあった。同時に、分からないところを聞いてくる真面目な姿勢や、褒めた時に見せるふわりと綻ぶような笑顔に可愛さを覚えて、不意に甘やかしたくなる衝動にかられることがあるほどだ。アルバーンに巻き込まれる形で始まったせいで波乱を予期して構えていただけに、穏やかな日々にやや拍子抜けしていた。
残業も少なくご機嫌に鼻歌でも歌い出しそうな気分のファルガーと裏腹に、外出から帰ってきたらしいサニーはデスクに着くなり机に突っ伏した。
「あぁあ〜」
何でも卒なくこなすサニーにしては珍しいほど直球な「疲れた、構え」アピールに、ファルガーは思わず手を止めて椅子を寄せる。
「大丈夫...ではなさそうだな」
「もう無理」
端的な愚痴とデスクに積み上がった書類とメモをざっと見るだけで、新人教育と外部との仕事の遅延、出張だらけで埋まったカレンダーが主な原因だと推測する。机の上に並ぶ既に空のエナジードリンクの缶を引き取ってやりながら、代わりに自分で飲もうと買ってきたばかりの缶コーヒーをサニーのデスクに置いた。俺っていい奥さんになると思うんだけどな。
「手伝えることがあれば聞くよ。少なくとも俺たちが関わってるやつは、俺も浮奇も手伝えるはずだ」
「...なんか浮奇と仲良くなった?」
「そうか?一緒に関わってる部分が多いせいだと思うが」
唐突な質問に首を傾げる。直近でサニーに浮奇の話をした覚えはないし、アルバーンづてに何か話を聞いたのだろうか。サニーの文字だらけのカレンダーを覗き込もうと腰を浮かしかけた瞬間、ファルガーのスマホの画面が光ってメッセージの新着を知らせる。思わず視界に入れたファルガーとサニーの目に飛び込んできたのは『今日もがんばろうね!』との浮奇からのメッセージだった。
「...順調なようで何よりだよ」
「そっ、そうだな!うちらのプロジェクトは滞りなく順調だ!」
上擦った声で返事をしながら、ジト目のサニーから隠すようにスマホを伏せる。どうしてメッセージの内容を表示しないように設定しなかったのか過去の自分を悔やんだが、そもそも今のは隠すような内容だったのか。揶揄っただけのつもりだったサニーから見れば、逆に余りにも不自然な反応だっただろう。どうしてか浮奇のことになると感情が儘ならないことがあって、思い出したように霞がかかる。
「それより、本当に何か手伝えることはないのか?アルバーンから、一旦集まって進捗と割り振りの再編成をしたいって連絡が来てたぞ」
「改めて振り直してくれた方が有難いかな。甘えちゃって悪いけど」
「構わない。そのための同期だろ」
軽く頷いてからアルバーンに連絡を入れる。チャットにはサニーを心配するメッセージが何度か並んでいて、未だ机から頭を上げる気配のない様子を横目に眉根を寄せた。付き合っている恋人同士とはいえ、一緒に住んでいる訳ではない。忙しくなればなるほど会えなくなる今の距離感は、アルバーンにとっては酷くもどかしいのだろう。本当は家に上がって世話を焼いてあげたいんだよ、とは浮奇の談で、想いを寄せ合っていても相手を思うがゆえに儘ならないことはあるものだな、と歯痒く思った。
同期であるファルガーは、サニーがアルバーンと出逢い、すれ違いながらも晴れて恋人になった経緯を近くで見てきている。けれど、浮奇の口から語られる二人の形はファルガーが思っているよりもずっと歪だった。顔を合わせればニコニコと二人だけの世界に入ってしまうようにしか見えないのに、浮奇には何か違う視点があるようだ。けれどそれは二人だけでなくアルバーンと浮奇の関係にも絡んでくるようで、ファルガーは深く訊ねることができずにいる。
アルバーンへのメッセージが程なくして既読になり『すぐに調整する』との返答を確認して、浮奇にも連絡を入れた。数分して可愛いクラゲのスタンプで返信してきた浮奇に、言われてみれば仲良くなったな、と他人事のように思う。初めの頃は緊張してるのかどんなメッセージにも敬語だったし、こちらがどれだけ砕けて話しかけてみようとスタンプどころか絵文字もなかった。今ではおはようの挨拶代わりに『今日もがんばろう』とメッセージしてくる浮奇へ、『無理せずに』と返信するのがすっかり日課になっている。気付けばプロジェクトの内容以外にも、美味しいコーヒーだとか道端の草花だとか、日常で見つけた小さな幸せを嬉しそうに報告してくる時もある。まるで、野良猫が懐くように。
ただ、ファルガーには不思議に思っていることがある。たまに浮奇の歌声を思い出すことがあって公園に立ち寄っても、その姿を全く見かけなくなったのだ。時間帯の問題かと何日か続けて時間をずらして訪れたが、あの場所で浮奇に会うことはなかった。あの日も聞かせるつもりで歌ってたのではないことも、お金を返したくなるほど自分の歌に自信がないことも分かっている以上は、歌わないのか、と問い掛けるのも気が引ける。あれ以来、浮奇の歌声を聞けていない。