人間にはそれぞれ活動するのに適した時間帯があるのだと、ファルガーが教えてくれたのはいつのことだっただろう。朝が得意な人もいれば、夜の方が頭が働きやすい人もいる。だからそんなに気にすることはないと、頭を撫でてくれたのを覚えている。あぁそうだ、あれは二人で暮らし始めて一ヶ月が経った頃だった。お互いに二人で暮らすことには慣れてきたのに、全くもって彼と同じ生活リズムを送れないことを悩んでいた。今になって考えれば些細なことだと笑えるけれど、当時は酷く思い悩んで色んな人に相談して、見兼ねたファルガーが声を掛けて「心地よくいられること」をお互いに最優先に生活しようと決めたのだった。
そんなやり取りから数ヶ月。いつも通り深夜に寝室へ向かった浮奇は、すっかり寝入っている愛おしいひとの隣へ潜り込もうとベッドへ近づいた。静かにマットレスへ膝を付いて起こしていないことを確認しようと向けた視線の先で、眉を顰めて時折呼吸を詰めるファルガーを捉える。
「ふーふーちゃん?」
小さく掛けた声には返事がない。夢見が悪いのだろうか。
起こした方がいいのか迷いながら彼の隣へと潜り込めば、浮奇のスペースを作るように片腕が持ち上げられる。無意識にでも浮奇が潜り込んだことを分かっているようで、愛おしさを噛み締めながら腕の中へと身を寄せた。浮奇が後からベッドへ入る度に繰り返される行動はすっかり彼に染み付いてしまったようで、気付けば眠っていても無意識に腕を持ち上げ懐へ受け入れる体勢を取るようになっていた。
胸元へ抱き込まれたまま見上げたファルガーの表情は先程より穏やかになっており、緩く上下する呼吸に乱れはない。落ち着いたことに安堵しながら、トントンと背中を優しく叩く。不意にファルガーの鼻先がちょうど目の前へ位置する浮奇の頭へと擦り付けられて、甘えるような仕草に叫びたくなるのを堪えながら指通りの良い銀髪を撫でた。
「おやすみなさい、ふーふーちゃん」
穏やかな呼吸と心音を子守唄に、一緒に眠りに落ちていった。
浮奇が強い苦しさに目を覚ましたのは、それから数時間も経っていないような時間帯だった。ぼんやりとした視界に銀髪は見当たらず、正面から抱き込まれて眠ったはずが、いつのまにか後ろから抱き締められる体勢になっていることに気付く。
「ふーふーちゃん、大丈夫?」
振り返ろうと身を捩った身体はビクともせず、強い拘束感が浮奇を抱き込むファルガーの腕が異様に力強いせいだと認識した。なんとか身体を動かそうと腕や足をバタつかせるも、離さないとばかりにファルガーの腕の力が増すばかり。
「ねぇ、ちょっと離して、大丈夫だから、」
機械化されたファルガーの腕は人間と違って硬いせいで、あまり強く抱き締められると痛みすら感じる。夢の中の世界と腕の中の浮奇の動きがリンクしているのか、身体を動かそうとすることに苦しげに唸るような低い声を出されて戸惑うが、ファルガーの腕の力は増す一方で、もはや骨すら折れそうな気がして浮奇は堪らず叫んだ。
「ふーふーちゃん、痛いッ!!」
浮奇の言葉はしっかりと届いたらしく、強く抱き込んでいた腕が緩む。ほっとして息を吐いた浮奇は、ようやく身を捩ってファルガーへ視線を向けた。
「...大丈夫?」
汗の浮く額へ張り付いた前髪をそっと退かして見開いたまま固まっている瞳を覗き込めば、感情の読めない視線が浮奇を捉えた。
「うき、...浮奇!」
目の前にいるのは浮奇だと認識した瞬間に、整わない荒い呼吸と速い脈のまま抱き寄せられて強引に唇を塞がれる。
「んッ、ぅ、あ、」
技巧も優しさもない息を奪うような口付けはファルガーの抱えた苦しさや不安をぶつけられているようで、浮奇は酸欠気味になる頭がぼうっとしてくるのに抗いながら必死で応えた。
「ん、ふッ、...はぁ、」
「浮奇、」
酸素が回らずくらくらした浮奇が背中を叩いてギブアップを告げようと思った瞬間に、ファルガーの唇がようやく離れる。息も絶え絶えの浮奇は、そっと名前を呼んでくるファルガーの頭を引き寄せて抱き込んだ。
「俺はここにいるよ、大丈夫」
まだ息が整わない浮奇の早鐘のような心音を聞かせても落ち着かないかも知れないが、まるで迷子のように悲しみと不安と苦しさをごちゃ混ぜにしたような表情をしていたファルガーは、きっと浮奇に顔を見られたくないだろうと思った。
「大丈夫だよ、俺はふーふーちゃんと一緒にいる」
なるべく穏やかに言葉を紡ぎながら、宥めるようにゆっくりと背中を撫で下ろす。繰り返すうちにお互いの呼吸は落ち着いて、小さく震えていたファルガーの指先がきゅっと浮奇の手を握った。
「もう大丈夫だよ」
優しくて温かい赤い手を握り返して、もう片方の掌でファルガーの目元を隠す。大人しく瞳を閉じたファルガーは緊張が解けて安心したのか、穏やかな呼吸を繰り返していた。
「ふーふーちゃんの傍にいるからね」
今度こそ優しい夢を見られるように、繋いだ手から愛が伝わるように祈りながら子守唄を贈った。
「ん...」
浮奇は部屋に差し込む光の眩しさに目を覚ました。まだ半分開かない瞳でぼんやりと周りを見て、いつもの癖で隣へ手を伸ばすと温かい身体に触れる。不思議に思って視線を向けると、思っていたよりも近くにファルガーの寝顔があった。珍しくファルガーよりも早起きしたことに驚きつつ、手探りで引き寄せたスマホで時間を確認すれば、時刻はもう昼前。ファルガーはいつもなら朝食も散歩も済ませて配信に取り掛かっているような時間帯だ。
「ぅき?」
寝起き特有の少し掠れた声で名前を呼ばれて、浮奇はスマホを置いてファルガーの腕の中へと潜り込んだ。
「なぁに?ふーふーちゃん」
「...うき、」
「ここにいるよ」
確かめるように名前を紡がれるのが嬉しくて、浮奇の髪を撫でてくる手を捕まえてぎゅっと握った。お互いに今日は配信の無い日だし、差し迫った締切もないはずだ。二人だけの穏やかな空間には、昼過ぎまで微睡んでいても怒る人もいない。
「ふーふーちゃん、まだ寝よう」
「うん...」
浮奇より寝起きはいいはずのファルガーは珍しくまだ微睡みの淵にいるようで、彼の身体が休息を欲しているのは間違いない。寝起きの悪さはいつも通りな浮奇はしっかりと休息を取れているが、溜まり気味で気になっている家事よりも、ファルガーの安全基地という重大な任務を全うするのが最優先だ。もうすっかり閉じ掛けている瞼を瞬かせているファルガーに苦笑して、浮奇は肩まで布団を掛け直す。
「夢でも逢いに行くからね」
「ん...待ってる」
「おやすみなさい、ふーふーちゃん」
甘やかして、甘やかされて、頼って、頼られて。きっと、それが二人でいることの意味だから。疲れた時はお互いを止まり木にして立ち止まって、空が晴れたらまた二人で飛び立てばいい。急ぐことはない、お互いを見失わない限りこの心は繋がっている。