巣食って掬って救われた何事もない平日の昼下がり。
龍宮寺が外回りに出掛け来客もない中、乾はただ店番をしていた。
急ぎの仕事もないから奥に引っ込まなければ何してても良いぜ、と言われていたこともあり、ぼんやりとラジオに耳を傾けていたところで、所用で外出した帰りに寄ったという三ツ谷が顔を出してくれた。
龍宮寺が不在であることを気にもせず、差し入れだという洒落た菓子を差し出してきた三ツ谷は大して美味くもない乾の淹れたコーヒーを「お菓子に合うな」と喜んで飲んでくれた。
些細な言動ひとつとっても良い奴だなと思うし、そういったことに気付けるようになった自分の穏やかな月日を感慨深く思う。
「なあ、イヌピー君」
「ん?」
コーヒーをちびちびと飲んでいたところで、ゆっくりと三ツ谷がマグカップを置いた。
「最近のニュース見てる? ……梵天絡みの……」
「……ああ。テレビでも見るし、ラジオでも結構流れるから」
今は音量を絞っているが、仕事中つけっぱなしのラジオからはたまに梵天による抗争や事件といったものが流れてきた。
首領は三ツ谷の、そしてごく僅かな間ではあったが乾にとっても総長でもあった、佐野万次郎。
他にもかつての天竺幹部達、そして九井も所属していると噂で聞いていた。
「この前、週刊誌の特集を読んだんだ。梵天メンバーの記事と、写真が載ってた。……マイキーと、灰谷兄弟と、……九井君が写ってた」
「そうか」
聞こえているかわからないくらいの小さな声で返事をし、乾はマグカップへ目を落とした。
九井とはもう十二年会っていない。
自分が彼のことを忘れることはないけれど、九井は自分を思い出すことはないだろうなと最近とみに考えるようになった。
彼が忘れないとしたら、きっと姉のことだけだ。乾青宗はついでのオマケでしかない。
あの頃、九井の献身の意味を半分でも理解できていたら、と思い返しては後悔していた日々すら既に遠くなった。
連絡先すらわからない以上、日本最大の犯罪組織の最高幹部に会うことなど向こうが望まない限り不可能だろう。
そして彼がそんなことを願う日は来ない。
だから乾にできるのは、彼が健康で幸せであるのを祈ること、それだけだ。
「元気そうだった? ……っつっても、写真じゃわかんねぇか」
自嘲気味に笑って顔を上げる。
思いの外真剣な瞳をした三ツ谷がテーブル越しに身を乗り出していた。
「……三ツ谷?」
「写真はピントが合ってなかったから、元気かどうかはわからなかった。……正直な話、九井君のことは顔もあんまり覚えてないんだ、俺。それでも、その写真はガセじゃなくて本当に九井君だってわかった。何でだと思う?」
答えられない乾に向かって三ツ谷は「ごめん。顔に少し触れるかも」と断ってから手を伸ばしてきた。
顔の左側。
一生残る火傷の痣。
触れるか触れないかの距離で慎重に人差し指がある一箇所を示した。
「ぼやけた顔だけだとわからなかった。長髪だったし、色も抜いてる感じの写真だったし。それでもイヌピー君の痣と同じ場所に刺青があったから気付いたんだ。九井君だって」
「……」
「顔に刺青入れるって、結構な覚悟いるんだぜ。ましてやこの年齢だ。若気の至りじゃ済まない」
経験者は語るってヤツだ、と小さく笑いながら三ツ谷は自分の頭を指差した。
乗り出していた体を椅子に戻し、肘をつく。
「刺青は怪我じゃない。自分の意思でいれるものだし、梵天の刺青は場所は自分で選べるみたいだった。灰谷兄弟は二人揃って首の同じ場所にいれてたし、マイキーはうなじのあたりだった。……九井君は、自分の意思であの場所に刺青をいれたんだ」
「……」
乾は返事をしなかった。できなかった。
九井の考えていることなんて、昔から理解できた試しがない。
子供の頃はわかっていた気でいたけれども、あれは単なる幻想でしかなかった。
だから、自分の痣と同じ場所に刺青をいれたのが事実だとして、九井が乾のことを忘れていないと思うのは早計だ。
自分の知らない赤音との思い出があるのかもしれない。
きっとそうだ。その可能性の方が高い。
それでも。
わざわざ龍宮寺のいない時間を選んで訪ねてきてくれた三ツ谷の心遣いを無碍にするのも申し訳なくて、乾は小さく微笑んで見せた。
それから龍宮寺が戻ってくるまで、何事もなかったかのように別の話をして過ごした。
◆
佐野と花垣が転落死したとニュースが流れたのは、それから半年後のことだった。
パーちんこと林田の結婚式が無事に済み、次は花垣と橘の結婚式だと皆が喜んでいた矢先の出来事だった。
元東卍組の悲嘆はとても見ていられるものではなく、乾の方から共同経営者の龍宮寺を慮って臨時休業を申し出た程だ。
素直に了承するだけの判断力が龍宮寺に残っていたことに安堵しつつ、休業の貼り紙や取引先への連絡等、どうしても済ませておかなくてはならない仕事を全て引き受けた乾は、告別式帰りにそのまま店へ向かい、一人淡々と仕事を片付けていた。
締め切った店内で、いつもの癖でつけてしまったラジオに耳を傾ける。
ぽつぽつと、梵天と他の組織との抗争のニュースが聞こえた。
首領を喪ったことで急速に瓦解し始めたらしい梵天、後釜を狙う数多の組織、これを機に反社会組織を一網打尽にして面子を保とうと画策している警察という地獄の三つ巴だ。
連日ニュースでかなり詳細な情報すらも延々流れているところを見ると、警察内部の協力者にも見切りをつけられているのかもしれない。
同じような組織であってもトップが変わると駄目になるのはどこも同じなんだな、とこんな時だというのに黒龍のことを思い出してしまう。
イザナはあの年齢の時点で既に警察と協力関係にあって、黒龍の悪事を隠したり逆に敵対勢力の情報を警察に売って恩を着せたりといったことが非常に上手かった。
イザナにだけは従っていた極悪の世代、元天竺組が梵天の幹部の大半を占めているはずだ。イザナの手腕を間近で見て、腕も能力もそれなりにある連中だった。それでも壊れる時は壊れるということなのかもしれない。
例え九井一という乾の知る限り最も頭の良い男がその組織に属していたとしても。
「……ココ」
喪服姿のままで作業していたことを今更ながら思い出し、ジャケットを脱いでネクタイを抜き取る。
抗争こそ激しいらしいが、佐野以外の梵天の幹部の死は今のところ流れて来ない。
九井がまだ生きているであろうことに、乾は内心安堵していた。悲嘆に暮れている龍宮寺や他の初代東卍組には決して言えないが。
「呼んだ?」
懐かしい声に振り返る。
かつて三ツ谷が言っていた通り長髪で見覚えのまるでない髪の色をした男が、いつの間にか裏口に立っていた。
「喪服美人ってイヌピーの為にあるような言葉だな。しかし最後に会った時も喪服だし、久々の再会も喪服なんてまるで親戚みたいだ」
すぐ側まで歩み寄ってきた九井は、椅子に座り込んだまま動けない乾の頬へそっと手を伸ばした。
唐突に関東事変の記憶が蘇る。
未だに姉と重ねる気なのかと 反射的に眉を寄せかけたところで、白い指先が火傷痕をゆっくりと撫ぜた。
吐息が触れ合うほどの距離までお互いの顔が近付く。
三ツ谷の言っていた刺青はこれか、と間近で見つめる。
「思ったより元気そうで安心した。花垣が死んで、もっと落ち込んでるかと思ってたから」
十二年前と変わらない、優しい声が響く。
まるであの頃に戻ったかのようだった。
アジトで顔にできた傷を丁寧に手当てしてくれた時と変わらない指の温度に胸が詰まる。
「……俺より他の奴らの方が見てらんねぇくらいの状態なんだよ。動ける奴が動いて、お互い慰め合える奴らはそっちに集中して欲しいだけだ。花垣の彼女なんて後追いしかねないくらい泣き通しだから、誰かが交代でついてやってるくらいだし。……そっちこそ、マイキーが死んで大変なんじゃないのか、色々と」
「まあね。忙しくなかったって言ったら嘘になる。疲れてるから労ってよ、イヌピー」
ふざけた口調の割に、瞳は穏やかだった。
手を伸ばし、恐る恐る刺青に触れてみる。
髪で見えづらくなっていたが、動くと顕になるくらいだから特に隠しているつもりもなかったに違いない。
何も言われないのを良いことに、指先から伝わる九井の体温に感じ入った。
金と銀の髪が重なり合う。
刺青と火傷痕の場所もそうだが、髪の長さもほとんど同じであることに今更気付いた。
「ココ」
言いたいことは沢山あったはずなのに、いざとなると言葉が出てこない。
自分以外の、周囲のことならば簡単に口をついて出てくるというのに。
変われたと思ったのに、これでは昔と同じでまるで成長が見られないと自己嫌悪で俯きそうになる。
「なあ、イヌピー」
口付ける方が自然な距離で囁かれる。
白い手がゆっくりと火傷の痕を辿った。
「俺と駆け落ちしてくれる?」
昔と同じ笑い方で、けれど瞳は恐ろしいほどに真剣だった。
「行く。オマエについてくよ」
食い気味に答えると、呆れたように苦笑される。
それでも安堵の息をひっそり吐いたことは至近距離なのですぐにわかった。
昔なら気付けなかったかもしれないな、と何となく思う。
「……後悔しない?」
「そこは『オレに任せろ。悪いようにはしねぇから』って言うところじゃねぇの」
「意外とイヌピーって記憶力良かったんだね」
「あ?」
「冗談だよ。……でも、俺のことなんて忘れてるかと思ってた」
「それはこっちの台詞だ」
お互いに忘れられなくて。何より忘れたくなかったのだと。
そう信じても良いのかもしれないと、ようやく思えた。
「実は車を待たせてある。悪いけど、このまますぐ出発する。スマホも何もかも全部置いていって欲しい。服もそのままで」
「わかった。でも、一言だけドラケンに手紙書かせて欲しい。そこの紙に書くだけだからすぐ終わる」
「良いよ。何て書くの?」
「横で見てればいいだろ」
言いながらプリントアウトに失敗した裏紙に「ドラケンへ。今までありがとう。駆け落ちする。心配するな」とだけ書いて、すぐボールペンを置いた。
何とも言えない顔で苦笑した九井が、その辺に置いてあったペンスタンドを引き寄せてくれる。
手紙の上にペンスタンドを置き、ラジオを消しただけで乾の駆け落ち支度は完了してしまった。
そのあっけなさが逆に自分らしいような気がして笑えてくる。
九井へ顔を向けると、手を差し伸べられた。
重ねた手に力を込めれば、同じくらいの強さで握り返される。
それが何よりも嬉しかった。
◆
運送業者に偽装したトラックとハイエースを交互に乗り継いでいく。
車内の男達は無駄口を一切叩かない。
九井がわざわざ海外で探し、金に糸目をつけなかった名うての傭兵達だ。
自分と乾の安全の為ならば幾らでも出すことができる。手付金と相場より高い成功報酬を上乗せしても、無駄に積み上がった金は海外でもしばらく何もせずに生きていけるだけのものが残っていた。
そう。全ては生きていてこそだ。
マイキーが死んだ以上、元東卍組の周囲では何が起こるかわからない。
彼らの幸福はマイキーの影の努力あってのものだった。
例えそれが側から見れば自己満足でしかなく、逆に梵天のアキレス腱なのではと勘付かれる可能性があったとしても。
昔は荒事に慣れていたとはいえ、十二年も経てば足を洗った連中は皆立派なカタギだ。
エゴと言われても乾青宗唯一人だけは、何があっても守りたかった。
拉致監禁することも考えたが、佐野亡き後梵天を維持する理由も意味も特に見出せないと気付いてから、九井の行動は早かった。
同僚である幹部達とは、最低限の義理と後始末をつけてからめいめい勝手に高飛びするという算段で話をつけている。
イヌピーによろしくな。乾と仲良くな。
恐らく今生の別れだというのに、幹部連中の餞別の言葉は図ったように同じだった。
首領の意向という建前があったといえど、他の元東卍組とは比較にならないほど警護を厳重にし、経済状況も人間関係までも蜘蛛の糸のように張り巡らせた情報網で監視していたのは周知の事実だ。
黒龍時代からずっと、執着という名の糸で雁字搦めにしてしている自覚はあった。
乾について行ってるように見せかけて、その実九井の望む方へと誘導していた。
赤音への執着なのか青宗への執着なのか。あの頃は九井も己の執着がどちらへ向かっているのかまるで理解していなかった。
もうどうしようもない濁った想いで乾を汚しきる前にと、上澄みの僅かに残った良心で彼の手を離した。
そのまま一生会わないつもりでいたのに。
ただ見守っていられればそれで良いと、本心から思っていたはずだったのに。
「ココ」
たった一言。
昔と変わらない声で。
あんなに穏やかに名前を呼ばれたら、もうそれだけで駄目だった。
───否。直接その姿を見た瞬間から、止まっていた刻が動き出した。
写真と報告だけで今までどうやって生きていてこれたのか、瞬時に忘れ去ってしまうくらい、直接会った乾は鮮烈だった。
「どうかしたか、ココ」
未だにどこか夢のようで、というより夢見心地で乾の顔を飽きずに眺めていると視線に気付いたらしく、乾が口を開いた。
十二年経っても口数は増えなかったらしい。簡易食といえど腹が満たされて眠かっただけかもしれないが。
「イヌピーこそ、大丈夫?」
「何が? 飯ならさっき食ったし、トイレも行かせてくれたじゃねぇか。他に何かあるか」
「書き置き急がせちゃったし、結局誰にも会わずにきたから感傷的になってるかなって」
「ココかそれ以外かの二択で、ココを選んだんだから今更だろ」
カタギのくせに自分より潔い気がしてきて、九井は苦笑するしかなかった。
そういえば子供の頃からそうだった。
どうでも良いことは決めかねたり誰かに丸投げしていた割に、自分の意見があるときだけは決断が早かったし一度決めたら頑固だった。
「あ。言い忘れてたこと思い出した」
「何?」
「来てくれて嬉しかった。目的の国に到着するまで油断したらいけねーのはわかってるけど、実は今もすっげー嬉しい。ありがとう」
その一言で、報われた。救われた。
この瞬間の為に生きていたのだとさえ思えた。
「……っ俺の方こそ。ついて来てくれてありがとう」
震えそうになる声を何とかコントロールして、ありきたりな言葉を必死に絞り出す。
急に照れ臭くなったのか「腹一杯になったから寝る」と早口で告げて目を閉じた乾は、本当にすぐ寝てしまった。
見せないようにしていただけで、疲労と緊張が溜まっているのだろう。
寝顔すらも相変わらず美しく、それでいてくーかーという子供のような寝息は昔図書館やアジトで散々聞いたものと同じだった。
変わらないところがあることに安堵しつつ、変わったところも徐々に知っていきたいと思う。
そう願うことのできる今が、幸福だと思った。