扉が閉まる「いってきます。お土産買ってくるね」
「いってらっしゃい」
扉を開けて出ていく姿を笑顔で見送る。パタン、と閉じたドアに背を向けて部屋の中を見渡せば、誰もいない家はいつもより広く見えた。
リビングに移動し、やけにしんとした気がする空間を見渡す。
今日は休日だが、父は仕事の付き合い、母は急な仕事、兄は遊びに誘われたと言って出かけて行き、家に一人残された。
何をしよう、とそんな風に考えて。そういえば、とすぐに思い至り、自室から勉強セットを持ってくる。
連休だからと、多めに宿題が出ていた。算数のドリル。そんなに難しくないが、時間があるなら先のページまで進めておきたい。
一〇〇点を取ると父も母も喜んでくれるので、勉強は嫌いではなかった。
家族が居る時なら自室で集中して進めるところだけれど、今日はひとりだし。
リビングの机の方が広いし⋯⋯と、誰に向かってでもなく言い訳しながら、問題を解いていく。
壁にかかった時計の針の音が、今日はなんだかやけに煩いな、と思った。
***
「いってきます」の、声は無かった。
床に敷いた布団に包まったまま、ドアが開いて閉じた音で、母が家から出て行ったことを知る。
だから「いってらっしゃい」を言えなくて。それを少し寂しいと思いながら、布団から出る。
今日から、学校は休みだった。だから朝早く起きなくていいけれど、本当はずっと布団の中で起きていた。
母が「出掛けようか」と言って起こしてくれるのを少し期待して。
けれど、そんな物語みたいなことは起きなくて。
目元を両の拳で拭ってから、布団を出る。
くるり、と辺りを見渡し、狭い⋯⋯散らかった
部屋を眺める。
母の物を勝手に触ったら怒られるけれど、できる範囲で片付けたいな、と思う。
終わったら漢字の書き取りドリルの宿題をやろう。連休だから、たくさん出されていた。
時間があったらもっと先まで進めておきたい。誰も褒めてくれないけれど、勉強はできた方が将来役に立つって聞いたことがある。
この部屋から出られる「将来」の為なら、頑張れる気がする。
そんな風に考えて、まずはずっと洗われていないテーブルの上のお皿を手に取った。
***
「じゃ、いってくる。たぶん夕方には帰ると思うぜ」
「ああ⋯⋯いってらっしゃい」
扉を開けて、出ていく姿を見送った。
背を向けて見渡せば、いつも二人で過ごすリビングは一人だと妙に広い。
留守番を嫌がるトシでもあるまいし⋯⋯と自分に呆れ。同時に、無理もないかと思い直す。
一緒に住み始めてからは、勤め人の自分が家を空けることが多かった。
いってらっしゃいと見送られるのは⋯⋯時には「いってらっしゃい」のキス付き⋯⋯いつも、自分の立場だった。
ふむ、なるほどと呟いて。一人の過ごし方を考える。
次の学会に備えて論文を読むか。趣味の手術は、都合よく検体⋯⋯患者が居ないので諦める(この自宅には、もちろん手術室はある)
そういえば。自分が留守の時は⋯⋯
しばらく考えて。軽く口の端を持ち上げて行動を開始する。まずは、風呂掃除からだ。
***
「では、いってくる」
「ん、いってらっしゃい」
玄関に立って、靴を履くのを見守って。
身を起こした瞬間を捕まえて、顎を持ち上げて唇を合わせる。
ん⋯⋯と、小さな声。
それに気分が良くなるけれど、これから仕事に向かうお医者様をあまり昂らせるワケにはいかない。
だから触れるだけのキスで我慢して。眼鏡越しの暗赤色の瞳を覗き込む。
「帰り、連絡しろよ」
「ああ⋯⋯わかってる」
「あんまり疲れてるようなら言えよ?迎えに行く」
「ああ」
頷く様に呆れた様子は見えるけれど、仕方ない。なんせ、大好きな恋人のことなのだ。
「では、いってくる」
「ん、いってらっしゃい」
目を合わせて微笑んで。軽く手を振れば、振り返される。
パタン、と閉じた扉をしばし眺めてから背を向けて。広いリビングをくるりと見渡す。
もう、この眺めにもだいぶ慣れた。一人で彼の帰りを待つ時間にも。
どうやって過ごしていても、アイツは必ずドアを開けて帰ってくるワケで。
まずは、部屋の掃除。洗濯と、天気が良ければシーツまで洗ってしまいたい。
仕事を片付けて、晩ご飯を仕込んで⋯⋯デザートはプリンでいいか。
「さて」
色々、やることは沢山ある。けれど恋人の、小さく唇を上げて微笑むあの顔を思えば⋯⋯何でも、したいと思うのだ。