徒花でいーよ ミーンミンミンミン……蝉の音がやかましい。真上で傘のように広がる青葉が、8月の日差しを必死に受け止めている。が、それでも肌にじっとりと纏わりつくような暑さ。
俺は蝉の声に負けないくらいの大声でわははと笑った。特段面白い話を聞かされたわけではない。ただ、隣を歩く田中が、反応が乏しいとみると余計に張り切ってしまうやつだったから。
「な、三井もそう思うだろ!アリサちゃんてスゲー巨乳でよぉ、あの乳に顔埋めたいって──」
ああ、アイスが食べたい。あのとき、あの7月の夕暮れに食べたアイスはすごく美味かった。面と向かっていえやしないけど、多分それは一緒にいたやつのおかげで……あー、バスケ。バスケがしてぇ。今突然、したくてたまらなくなった。
ぎらぎらと猛威を振るう日差しを見上げて、目を細める。潮を含んだ風も、ベタつきを運び来るばかりだ。
こんな夏でもアイツといれればまた変わったのかもしれないけど──話を聞くふりを続けながら、足元に視線を落とす。蟻たちが必死に足を動かして、縦に列をなしていた。一体どこまで運ぶのか。アスファルトはきっと、鉄板のように熱いことだろう。
「──そんでよ、ミホちゃん、走るとブルンブルン震えて!こないだの体育ヤバかったよな!いやー、男なら見るのはもはや礼儀だと思わね?」
束になった前髪が額についてうざったい。適当におおだかああだか返しておいたが、こんなことなら一人で帰ればよかった。帰り道が一緒だからと声を掛けられてほいほいと同意してしまったけれど、思い通りにはいかない。不快感が増す一方。
男の声は、耳には入るけれど脳には達さずに、右から左へと流れていく。
ミーンミンミンミン……
求愛が大きくなっている気がする。一週間ポッチの余生、せめて子は残そうと必死だ。子。こども。
子供が残せるのなら、それでもいいのかもしれない。生産性が〜だとか将来が〜だとかの文面は嫌というほど見てきて、当たり前に根付いてしまった考えだったから。
だから、もしも魔女に『子を孕める体と許容の常識を与える代わりに、一週間の命になりますがそれでもいいですか』などと問われたら案外頷くのかも。……?頷くわけねえだろ馬鹿か俺は。せっかくバスケができるようになったのに、一週間とか嫌すぎる。夏の魔力というやつだ。自分でも思いもしない考えが浮かんでくる。断固拒否。たとえその一週間、どんなに息がしやすかったとしても。
「──ああ、そうだ三井。お前、カノジョと別れたんだって?」
いきなり鮮明に脳に飛び込んできた田中の声に、思わず足が止まった。反応をおろそかにしすぎたようだ。ニヤニヤと下衆た笑みを浮かべて覗き込んでくる。
田中は、暑苦しい体を寄せてベッタリとした腕を方に回してきた。引き寄せられて顔が近くなる。暑い、あつい。
「────!──、──?」
ミィンミンミンミン……蝉の音がやかましく、田中の声を遮る。聴こえなくなって、思い出すのはあの日。じゃな、と去ったあのときの──衝 撃。
があん、揺れて、ぐらぐら視界がブレる。
一拍、の、のちに後頭部が焼けるように熱くなる。どくどくどくっ、全身が脈打つ。覚えのある感覚だ。殴られた。多分後ろから。
ぐうらり揺れながらぼうっと瞬き。田中が後方に向かってつばを飛ばしている。体を支えてくれているようだ。何者かの手から引き離すように。ぐいぐい前へ後ろへとひっぱられて、がくがく世界が揺れる。また、瞬き。あれ、今度は田中が地面に倒れている。湯気を出すアスファルトに伏せって、蟻の行列を乱して。たなか、呼びかける、けど実際に声に出たかはわからない。すぐに首がぐうと締まって、ああ後ろから襟首を引っ張られている。
暑さに侵され後頭部を一発やられた体じゃ大した抵抗もできない。それでも長い手足を諦め悪く暴れさせていると、ガパッ。また熱が襲って、今度こそ気を失った。
*****
──ミーンミンミンミンミンミン──
音が次第に近付いて、頭が醒めてくる。ぱしぱしとゆっくり瞬き。ぼんやりとした視界が明瞭になって、目に入ったのはシミの付いた薄灰色の天井。喧騒から逃げるように、ベッド、ああいや違う、布団だ。湿った布団の上で寝返りをうつ。腰の痛み、腹の違和感。じゃら、と重量のある音が鳴って、足が重たい。
「……あっつ……」
出した声は、信じられないほどかすれていた。
8月21日午前4時〜
みず、みず、水がほしい。とにかく暑い。
三井は緩慢な動きで上体を起こし、せんべい布団の上に腰を落ち着けた。急に起き上がったせいでまたぐうらり揺れる。
ずりずり尻を付けたまま這って、灰色の壁に背をもたれさせた。ああ、だるい。覚えのある気だるさ。
薄闇の中に目を凝らし、自身の足首へと手を伸ばす。じゃら、また、鈍い音。あ〜、これは。これはアレだ。まごうことなき、鎖だ。
頭をガシガシと掻くと、手が汗でベチャベチャになった。最悪。やめときゃよかった。
はあとため息を付いて、再び足首を点検。……ちゃんと動く。痛みもない。膝、も大丈夫。おし、正常だ。左足首にゴツい鈍色の鎖がついていることに目を瞑れば。
次は、ゆっくりと立ち上がってみる。音を立てないように、慎重にゆうっくりと……じゃら。あら。一回なれば二回目も同じだ。もう気にしない。じゃらじゃらいわしながら立って、あたりを徘徊する。
三井の部屋よりも随分と狭い──まあ三井と比べると大抵の家が狭いのだが、それにしたって狭い──おそらく古いアパートの一室。
カーテンが閉め切られている上に電気もついていないので、薄暗くて見えづらい。目立ったものと言えば、湿った布団が一つに茶色のちゃぶ台、古いテレビ。あと若干首が曲がった扇風機。がごがごと必死に風を送っているものの、送られてくる風も熱風だ。シミだらけの壁に目をやると鈍色の出っ張りが見える。そこからじゃらじゃらとした鎖が繋がって、左足に到達。
全体的にかび臭く、かすかに他の匂いも……腹の違和感の原因を連想させるような匂いも、する。
ささくれた畳の上を大股三歩あるけば向かいのふすま。これもまたボロボロで修正の跡が大量にあった。上の方は諦めたのか、てんてんと開いたままだけど。
鎖が長いものであったことは幸いだ。それが計算ずくなのか、単なる偶然かはわからないが。
襖を開けて、壁に手を付きながらじゃらじゃら堂々と暗闇の中を歩む。ぎしりぎしりと歩く度に床がきしんで、腹の違和感が増すようだ。気をつけることは一つだけ。足元に何かが落ちていて、躓く可能性。
道中二つほど扉があったが無視を決め込む。今探しているのは玄関で、予想通りならその二つは外へと通じていない。多分風呂場とトイレ、だと思う。
果たして暗闇の先には『これこそが玄関だろう』という風格の扉があった。
玄関口に三井の靴は……見当たらない。仕方なく素足で踏み込み、鈍色のドアノブに手をかける。熱い。
──ところで、家主はどこへ行ったのだろうか──
今更な懸念が押し寄せてくる。いや、本当は今更なんかじゃない。この家の天井を見たときからずっと思っていたことだ。情けないことに扉にかけた手が震えている。
誘拐するだけして、放ったらかしにしている犯人は、一体どこに。風呂場やトイレに居るのだろうか。家主と犯人は同一人物なのか。それが俺の想定通りなら、いい。よくないけどいい。でも、もし、予想が外れていたら……
ガチャリ。
開けると、ぶうわりと熱が入り込んでくる。張り付いていた前髪が揺れて、着たままのジャージが熱を取り入れて膨らんだ。
家の中の闇よりももっとくらい、真っ暗闇。みいんみいんみんみんみん……蝉が狂ったように鳴いている。夜だと言うのに交合の誘いを掛け合って。
たたきに残る砂をじゃりと踏みしめ、誘い出されるように一歩。足を上げて、暗闇へ踏み出してみる。
が。
じゃら。
鎖が鳴って、ぴいんと張った。ちょうど沓摺の真上。三井の足は、片方上げられたまま、そこから動けなくなってしまった。
「……あら」
計算ずくの方だったらしい。部屋の中を自由に歩き回らせ、外を見せるだけ見せて、そこでおしまい。なんとも性格が悪いことだ。
三井は目を瞑って、ため息を吐いた。少し、つかれた。腹の熱は探索には不向きだ。
諦めて、踵を返そうとした、そのとき。
「──ただいま、みついさん」
闇よりも深い黒。おろした濡羽色の髪と、その隙間から覗く、波打つ夜海のような瞳。蝉たちが狂奏している真夏の宵闇に、家主が──犯人が、立っていた。
ぶうらり、軽い両手をポケットから出して、重心を片足に預けた姿で。左足を踏み出し、足音一つ立てずに入ってくる。三井が開けている最中の玄関から、何の気なしに。そうして。
「……起きちゃってたんだ」
くしゃり。
まるで、悪戯が見つかった子供のような表情で──水戸は、見上げ笑った。
*****
閉め切られたカーテンを開ければ、吸い込まれそうな黒が広がっていた。街灯一つ見えず、聞こえるのは蝉の鳴き声だけ。
窓を開けてベランダに顔を出してみるとぶわり熱気が身を包む。あつい、あつすぎる。背中にだらだらと汗が這う。ここが二階で、飛び降りれば足を痛める可能性があることを確認したらすぐに戻った。……熱気は戻らずに、部屋の中が更に暑くなった。最悪だ。
「最近熱いからね。夜でも昼だと勘違いしちゃうんだよ」
「……?」
「蝉の話。今もミンミン鳴いてて、」
「んなこといいからさっさとレイボーつけろぃ」
「外見てない?室外機なかったでしょ」
「は?うそだろ、おまえ……」
「嘘はそっち。何度言ったら覚えんの」
呆れた顔でちゃぶ台に頬杖をつき、余裕そうにしている男が憎たらしい。
絶望的な言葉にフラフラよろめいて、どすんと勢いよく布団に腰を下ろす。そのまま寝っ転がって天井を見上げる。あ、人面シミ発見。
「……あれ、諦めたの?」
「おれはあきらめの悪いおとこだ……」
「じゃあもうちょっと頑張らないと」
「みずくれ」
「……」
「みず」
「……」
「みー……ずぅ……」
「……」
「おれをころすきか」
「はは」
「ころすきなんだな」
ぐでん。寝返りをうつ。水戸が向けてきている、なんとも言えない表情。はは、なんて言ってたのに、ちっとも笑っちゃいなかった。短い眉をぐうと下げて唇を固く閉ざしている。じっと見つめているとそらされた。まるで、迷子。
三井はぼうっと舌を出す。先程確認したキッチンもトイレも風呂場も、全部水が止まっていた。『ごめんね、貧乏で』なんていけしゃあしゃあと言ってのけていたが、十中八九意図的だ。
じっとりと額に汗が浮き出て、眉毛をかき分けて下へと落ちていく。舌を鼻の下に伸ばして、産毛に溜まった汗を舐め取る。しょっぱい。少しは足しに……ならない。全然足りない。
「……」
「……」
みーんみんみん、みーんみんみん……
三井が黙ると部屋は途端に蝉の鳴き声で充満し、体の温度を上げていく。喋っていても上がる。詰んでる。
もう起き上がる気力すら湧かずに、水戸の顔をただ眺めていることしか出来ない。それくらいしか娯楽がない。
水戸の、まくろい瞳。吸い込まれそうだ。前までは、最後に見たときはこんなんじゃなかった。気がする。もっと……なんかこう、おっきくてきらきらしていたような。
瞬きが多い。まつげは多分、俺よりかは短くて。俺のことを見ているのは分かるけど、目はもう合わない。どこ見てんだか。……くちびる、荒れてら。肌だって、ポツポツと赤い斑点ができてる。コイツにもできるんだ、ニキビ。あーー、いや、なんか、なんかすげえさ……
「……ばすけ」
「、……」
「してぇ」
うわ言のように呟くと、水戸はすっくと立った。そのまま、部屋を出ていく。ぺたぺたぺたと、だんだん足音が遠ざかって、かすかな物音。そこから先は蝉の音にかき消されて聞こえない。
三井は仰向けに戻り、額の上に手をおいた。鎖が揺れ、じゃらりとしがらみの音を立てる。
目をつむる。ぎゅうと、強く。息を殺しながら吸って、潜めた深呼吸。
水戸のことをこんなにしっかりと見たのは随分と久しぶりのことだった。
ふうぅーー、長い息を吐く。足首の重みが増したような気がする。水戸の声を聞いただけで腹の奥がずきずきと痛むのだ。痛む、というか。認めたくないが、求めるようにうねってる。その意味は、今は考えたくない。
でも──三井は、目頭に熱が溜まるのを感じた。恐怖や不安、嫌悪からではない。安心からの生理的なものだ。
犯人が、みとでよかった。
いや良くないけど。
三井はこの家のシミの付いた天井を見たときから家主の正体に気づいていた。もしも犯人が水戸でないとしたら、水戸は自分の家を明け渡す状況に陥っているということで。起きてから水戸の姿を見るまで、三井の最大の懸念はそこだった。……いや、やっぱ嘘。最大の懸念は足及び体調のことだ。ここから出たとき元気にバスケができる体であるかどうか。犯人が水戸より強いやつだとしたら、逃走も困難だろうし。
結局、水戸のピンチにおいてさえ自分を最優先に考えている。それを別に悪いと思ったこともないし、逆に水戸が他のものを最優先にしていても構わなかったが。でも流石に、水戸のあの姿をみてしまうと──
ぎしり。軋む音が聞こえて、思考を止める。暑い中うだうだ考えたってどうせろくな考えは浮かばない。経験談だ。思索を遮るものがあってよかった。
緩慢な動きで、眼球だけを扉の方へとやる。首を動かすのが億劫だった。一度寝転べば、布団がそういうモンスターかのようにやる気を吸い取っていくのだ。
水戸の生っしろい足首。灰色のスウェット。ずり、と畳を擦りながら膝が曲がって、ちゃぶ台の奥にあぐらを組んだ。トン、何かを置く音。気にならないかと言ったら嘘になるが、わざわざ立ち上がってまで確認する気は起こらない。
その音を聞くまでは。
──ちゃぷん、
「ッッみずっっ!!!!」
「わ、元気」
飛び起きる。やっぱり!まんまるの狭いちゃぶ台の中央に堂々と立っているのは、水だ。グラスいっぱいに注がれて美味しそうな人類の必需品。人体の約60%を占めている、あの水様だ。幻覚じゃねえよな?
イジワルな水戸に奪われないようにと、すぐさま駆け寄って飛びつく。うわ、危ない、こぼしそうになった。「誰も取らないよ」と水戸。うるせえうるせえ。おれをこんなにしたのはお前のくせに。
少しばかり白く濁っているが、贅沢は言っていられない。
透明なグラスの縁に唇を付けて、傾ける。途端に流れ込んでくる、冷たい温度。いやうそ。ちょっと、かなりぬるい。別にいい。それでも喉は潤う。ゴクリと喉仏を上下させ、食堂に液体が伝う感覚を楽しむ。うう、泣けてきた。
「美味しい?」
「うまいっ……!みとぉ、俺は今世界一うまい水を飲んでるぜ……!」
「そっか、よかったね。俺のおかげだ」
「は??」
「ん?」
にこり。ぶん殴りたくなる笑顔を向けられる。頬杖まで付きやがって。前はもっと可愛げのあるやつだったのに、なんでこうなっちまったんだか。
睨みつけても効果は全くなさそうだ。
ため息を吐いて、鎖の付いた足首を腿の上に乗せて楽な体勢を取る。水分を摂取できてやっと頭がしゃっきりしてきた。違和感も馴染んできたし……先程に比べれば、という程度だけど。
「あれ、いいの?脱出方法探らなくて」
「ゲーム気分かよ」
「早く出ないと熱中症とかで死んじゃうかも。デスゲームってやつ?」
「お前は出させたいのか出させたくないのかどっちなんだ……」
「さあ」
「……今はお前と話したい」
そこでやっと、水戸と目があった。ちらりと一瞬。気だるそうに持ち上げられた視線は、しかしすぐに外れてしまう。はは、とまた、笑っていない声。
「……すげー殺し文句」
く、と眉が寄って、口端が歪に曲がった。鼻で笑い飛ばそうとしたのを失敗したような表情だった。『お前がそれを言うのか』と責め立てられている気分だ。
水戸は瞬きをすると、一瞬の後に余裕そうな顔を作った。何を考えているのかわからない、深淵のような瞳。
「いーよ。なんでも聞いて。答えたげるから」
片手に頬を乗っけたまま、ゆったりと構えられる。長い前髪の合間からちらちらと黒瞳が覗き、唇はゆるく弧を描いている。杖をついた右手の、人差し指と中指は耳たぶを挟んで遊んでいた。
一つ、拍を置いて、息を吸う。
「じゃあ──なんで俺は、ここにいる?」
水戸は表情一つ変えなかった。笑みは崩れず、まるでそういう人形のよう。
見ていられなくなり、そうっとピントをずらすと奥の壁につけられたリングが目に入る。だらりと垂れて、足をつなぐ鎖。
「倒れてたんだよ。道端で」
「たおれてた」
「うん。熱中症かな。ちゃんと水分補給してなかったんでしょ」
「それがなんでお前の家にいるんだよ」
「介抱してあげてるの」
「鎖は」
「うーん……首輪的な」
「うまい言い訳思いついてねえじゃねえか」
「はは」
全く悪びれがない。怒りを通り越してもはや呆れだ。一から十まで嘘しか吐かねえじゃねえか、コイツ。
「でもやっぱお前、殴るの上手いな」
「なに急に」
「いや、頭結構な強さで殴られたのに今全然痛くねえなって思って。なんかコツあんの」
「……記憶を飛ばす殴り方も勉強しとけばよかったかな」
「そもそも隠す気無かったろ。これみよがしに鎖つけやがって」
「まあね」
「は〜……はぐらかさずに答えろよ、何が目的なんだ」
「金」
「……」
「身代金要求しよっか」
「お前そういうの興味無いだろ」
「割とあるよ。花道の応援、金掛かるし。俺毎年10億宝くじ買ってるし」
「そりゃ初耳」
こういう面倒くさい会話も久しぶりだ。あのときは心底楽しそうに俺をからかって遊んでいたが、今ではちっとも笑っちゃいない。笑ってはいるけど、そういうことじゃない。
一気にたくさん喋ったからまた喉が渇いて、半分残っていたグラスを傾ける。ぐっぐっと流し込み、飲み干した。
「みと、水」
「俺は水じゃありません」
「おかわり」
「もっと丁寧に」
「水戸くん、お水のおかわりください」
「ないよ」
「は??」
「ん?」
「いや、水くれよ」
「だから無いって。それで最後」
「じゃあ買ってこい」
「えー、外暑いしな」
「俺が買ってくるから!」
「どうやって外出るの、その足で」
「うぐぐ」
鎖をがちゃがちゃと揺らして、力ずくで抜け出そうとする。揺らす度、がんがんと鈍色が足首に当たって赤い跡を付けていった。
「ちょっと!?乱暴すぎだって!」
「お!なんだ、顔色変えやがって。これが正解か?」
「ちげえよ、よく見ろ、鍵穴付いてるでしょ」
「?あー……マジだ」
「湘北の知性が聞いて呆れるね」
「いいから鍵」
「ん?」
「鍵くれよ」
「んー」
「……水戸くん、鍵をくださいお願いします」
「ないよ」
「ちっ、またかよ」
「持ってたとしてもそんな簡単に渡すわけ無いし」
「は、え、なに、持ってねえの?」
「うん。だからそう言ってるって」
「……どこにあんの」
「さあ」
「さあ!?」
だらりと背筋に冷や汗が伝う。水の在庫と、鎖の外し方を聞き出して順調かと思ったが……さあ、て。鍵は当然水戸が持っているものだと思っていた。だからなんとか水戸を眠らせたり気絶させたりして奪い取れればそれで逃げられると。でも、現実はそう甘くないらしい。
「なんか、持ってると三井さんあの手この手で奪ってきそうだなって。だから隠しておこうと思ったんだけど」
「思ったんだけど……?」
「隠し場所、わすれちゃった」
「……まじで言ってんのか」
「うん。いろいろ片付けもあってゴタゴタしてたし。あー、もしかしたらゴミに混ざっちゃったかもな」
「はあ!?探してくる!」
「あっ、そんな急に立つと……」
ぐらり。立ち上がった途端に、視界が揺れた。体の力が抜けていく。え、ぁ、まずい、なんだ、これ。からだが落ちてって、ひざ、ひざが──ぽすっ。想像していた衝撃はなくて、柔らかな感触。両腕の間に熱が挟まれて支えられる。全体重を預けてしまっているようだ、視界いっぱいが黒い。多分、水戸のTシャツ。
重たい頭をなんとか動かしてぐてんと上を向く。目を見開いて眉を寄せた水戸のかお。下ろされた髪の生え際から、つつと汗が伝っている。はは、焦ってら。
「ああほら、急に動くから薬が──」
まぶたが重い。水戸がなにごとか喋っている。聞いてやらなきゃと思うのに、脳みそが働かなかった。わずかに残っていた力も抜けていくから、背に回された腕がぎゅうと強くなる。そのまま、抱き止められたまま、そうっと下ろされて。ああ俺、今みとに触られてんだな。つばを飲んで、ぼうっと、そんな事をかんがえた。
「──みついさん──」
みと。みとだ、みと。みとがいる。視界の奥には人面シミ。寝かされているのだろう。背中が温かい。熱い。湿ってる。まぶたが重い。
みとはもう、焦っていなかった。余裕そうな表情でもなかった。確かに熱を帯びた、いつか見た男の顔だった。
ぽしゅ、と耳元で音がなって、おそらく耳の横に手を突かれる。影ができて、みとが覆いかぶさってくる。小さいのに筋肉質で、強くて、がっしりとしたオトコの体。ぽちゃりとほほに水滴が落ちる。まぶたがおもい。腹があつい。おもい。
「────」
セミが鳴いてる。それはきこえるのに、みとのこえは届かない。おもい。だるい。さがる。視界がどんどんくらくなっていく。これでいい。あまりに、つごうがいい。せかいがせまく、とじていって。なにもかもがとおのいて。
ただひとつ、くちびるのかんしょくは、やきつけるようにかんじて
7月10日午後6時〜
「三井さんって、難儀な生き方してるよねえ」
ぴ、と点滅するボタンを押せば、ガコン。落ちた音がした。
蝉の声を背後に、しゃがみ込んで取り出し口に手を突っ込む。冷たい感触。汗をかいた青い缶が二つ、顔を出した。
「まじでな」
小さく呟いて同意すると、汗が顎を伝って地面へと落下した。じゅう。肉を焼いたように蒸発して、触発された体温が2度か3度か上がる。三井はもう一度、帽子を目深に被り直した。むわりとした熱気が身を包む、七月の夕方だった。
「はいこれ。今週の分」
「わ、」
ぴら、と日陰から無防備に差し出された数枚の写真を、光の速さで受け取る。くそ、なんで裸なんだ。ふつう封筒とかに入れてくるだろ。現像屋で貰わなかったのか。
すぐさま裏返して見えないようにし、帽子の下から睨めば、涼しい顔で日陰の塀に腰掛けてヘラリ。こいつ。絶対わざとだ。
「流石に今回のは『アウトぎりぎり』って言われちゃって。顔見知りだったからなんとか現像してもらったけど。気合い入れすぎるのも良くないね」
「ま、まて、か、顔見知り?」
「うん」
「は。お前、手紙で頼んでるから大丈夫って。顔は見られてないんじゃなかったのかよ」
「あははっ、嘘だよ、信じてたんだ!第一それだとどうやって受け取るの」
かあ、全身が熱くなる。同時に冷や汗が出て、最悪だ。きっと俺は今、体温はこれ以上なく上がっているのに顔は真っ青というあべこべな風貌をしているのだろう。水戸がカラカラと楽しそうに笑っているから。
「どこの現像屋だ」
「え?」
「店名教えろ、絶対そこ使わねーようにするから」
「三井さんのことは話してないよ」
「じゃあなんでやってくれてんだよ」
「言わなくても察してくれるでしょ、それくらい」
「お前が、男の先輩のためにオカズ写真自撮りしてるって?」
は、と鼻で笑うも、水戸は笑みを崩さない。
「カレシに、でしょ?」
「……んなもんなった覚えねえよ」
「ええ、なってよ」
「いやだ」
「即答かあ」
ぷらぷらと足を振る水戸は、まだよくわかっていないのだろう。分かっていたらこんなに軽々しく、誰が通るかもわからない場所で口を開けるものか。
右を見て左を見て、そそくさと建物の影へ。水戸が座る塀の脇に立って、そうっと写真を覗き見る。う。上裸だ。鏡に向かった首から下が、しっかりと写っていた。割れた腹筋に白い肌、人差し指で下着をぐいと引っ張っていて、なんとも魅惑的に誘っている。大人の男のような色香だ。
背筋にゾクリとしたものが走って、ゴクリと生唾を飲んでしまう。もし、もしもその手で触ってもらえたのなら──
「きゃあ、三井さんのえっちぃ」
「、うっせ!!」
耳元でからかわれ、ビクリと反応してしまったのをごまかすように大声を上げる。いつの間にこんなに近くに。見上げると、水戸は悪戯げにチロと舌を出した。真っ赤な舌。思わず目を奪われる。
「……おら、金」
「おー!いつもより多くね?こういう感じが好きなの?」
「顔見知りに見られてんだろ。現像屋の……」
「ああ、口止め料?信用ないなあ」
「ちげえよ。普通にリスクあんだろが」
「バレてもいいけどなぁ、俺」
ヘラヘラとした笑みだ。なんにも分かっちゃいない。
ため息を吐いて、ねずみ色の塀にポカリの缶を置く。出てきたばかりのときのようなキンキンな冷たさは失われていたが、それでも真夏日にはありがたいはずだ。案の定水戸は、やった、と呟いてカチリと開けた。プシ、喉仏が上下。
横目に見つつ、塀に寄りかかりながら自身のも開けて口に含む。蝉の音色。口に広がる爽快感。
「はあ、生き返る〜……今年の夏、暑いよね」
「去年も一昨年も言ったわ、それ」
「ね。俺も。毎日って勢いで言ってたから、同じ日に同じこと言ったときもあったのかも」
「んだそれ」
「俺の写真でちゃんとシコってくれてる?」
「ぶっ!?ごほっ、げほ」
「あーあー、こぼれちゃった」
急にぶっこむなよ、おかげで盛大に噴いた。ぐしゃりと握り潰してしまったせいで中身は半分以下だ。手や体に豪快に掛かってベタベタする。うーわ、最悪。
「おっ、まえなあ!」
「怒んないでよ。質問答えて。俺の写真、使ってんの?」
「なんでんなこと言わなきゃなんねえんだよ!」
「え?俺、提供者だよ?聞く権利くらいあると思うけど」
「っ!くそっ…………つかってる、よ」
「え〜〜?なにぃ?聞こえないなあ!」
「だーー!!使ってるっての!!毎日お世話になってますよバーーカ!!!!」
「、そっか、んふ、まいにち……」
「引いてんじゃねえよ!」
「いやぁミッチーMだからさ、蔑みの目に興奮しちゃうんじゃないかと思って」
「誰がエムだ!」
睨んでいるのに、水戸はやっぱり笑った。笑って、左手を口元に持っていって、少し上を向く。傾きかけている太陽と桃色の空。水戸は頬を赤く染めながら、でも、と呟いた。
「よかった。約束通り、俺で抜いてくれてて。他のやつでやってたらどうしてやろうかと」
「……お前、男の先輩に性的搾取されて喜ぶとか、まずいぞ色々」
「なにそれ、経験談?」
「そういうわけじゃねえけど」
「えーー、図星じゃん……」
ぐう、顔を顰める。確かに、中2の頃にあった話だ。
バスケ部の先輩に呼び出されて、体を触られた。もちろん抵抗しようとしたけど『お前の体に興奮してる。ずっと触りたかった。お前もそういう奴だろ?』なんて言われてしまっては。丁度その時俺は周りとの違いを自覚してきた頃だったし、悩み困惑していた時期でもあった。女の体に興奮しない。男が好き。
そんなときに現れた貴重な同類に、ほいほいと乗せられてしまったのだ。エロいとか挿れたいだとか、具合がいいだとか散々に言われて、その全てに喜んだ。センパイが好きだったからではない。男に、それもゲイの奴に言われたからだ。
そんな関係も、先輩にカノジョが出来たことで終わったわけだけど。どうやら先輩は男も女もイケる上に、俺とは付き合ってもいなかったらしい。初耳。
「みっちー、」
「ッうお!?つめてっ!」
「だいじょぶ?ボーっとしてたから。俺の飲んでいいよ」
「あー……おう。あんがと」
ほっぺにピタリとくっつけられたポカリを素直に受け取って、口をつけた。冷たくて美味しい。一口で足りずに二口目。もともと俺の奢りなんだからいいだろ。
ふう、と息を吐いて、返そうと水戸を見上げる。と、なんだか妙な瞳。嬉しそうな、目に焼き付けているような。
「やった、間接キス」
「……中学生か」
「半年前までね」
「そうだな、お前中学生……ちゅうがく……うわー……」
「わー今のナシ!忘れて!!高校生!経験豊富!!だから!」
つい半年前まで中学生だったやつに俺は何をやらしてんだ。水戸がどんなに大人びていようと、15は15だった。
そのことをすっかり忘れて、何をトチ狂ったか『ミッチーが好き』だとか抜かしてひっつき纏ってくるコイツに『んなに好きならオカズ写真でも撮ってこいよ』と言い放っちまった数週間前の自分をぶん殴りたい。そうすればドン引きされて百年の恋も冷めるかと思ったのだ。気分はさながら無理難題を押し付けるかぐや姫。
でも水戸はヘラリと笑って『俺のことオカズにしてくれるの?』と嬉しそうに差し出してきた。とんでもなくエロい写真を。『いいよ。使ってよ。その代わり俺の以外で抜かないでね』だと。
そうだ、中2の頃の俺も先輩に頼まれればノリノリでポーズを決めていたことだろう。そういうのって人をバカにするから。水戸もなっちまうとは思わなかったけど。
「……みとぉ、わりいこれ返す」
「やだよ。返却不可。今日も使って。頑張ったんだから」
「いやでも」
「今更だし。……三井さん、俺の努力無駄にする気?」
「うぐう」
結局、水戸のエロい写真が見たかった。水戸の、というか男の。不良時代のストックは何個かあるが、どれも好みから少し外れていた。今となっては入り浸っていた夜の街に顔を出すこともなくなり、供給源は今のところ水戸だけだ。奇異な目が絶えないこの世界、望むものを手に入れるのは難しいのだ。
しかもこいつ、すげーいいカラダしてる。最低だと思うけど、完全に欲に塗れた目で見ていた。これじゃあの先輩と同じだ。
唸っていると、水戸はずり、と尻を動かした。近かった距離がまた詰まって、塀に掛けていた片肘に水戸の指が触れてくる。振り払うことは簡単だ。今なら暑いという言い訳もある。
でも、しなかった。
水戸は多分、目を少しだけ見開いたのだと思う。なぜかそんな感じがした。
「……」
「……来週、」
上ずった声。失敗したようで、言葉が一旦途切れる。肘に触れたたった3本の指に、きゅうとかすかに力が入る。いじらしい弱さだった。
「来週、花火大会があるよ」
知ってた?
今度はいつものヘラヘラとした声だった。明日の気温を教えるときのような気負いのない。でも、夏でも涼しい顔ばかりしている水戸の手が、指が、肘から伝わるほど熱かった。
「……桜木と行くのか」
「はは、まさか。アイツは晴子ちゃんと。まだ誘ってもねーみたいだから、作戦考えなきゃ。あ、ミッチーも参加する?作戦会議」
「いや、遠慮しとく」
「あ、今ちょっとグッと来たでしょ。ミッチーこういうのに弱いからな。友達思いな水戸、いいなあって」
「思ってない」
「またまたぁ」
水戸に顔を見られないように、前だけを見つめて言う。道路の向かいのカーブミラーの中で、水戸は楽しそうに頬を緩めていた。足をぷらぷらと揺らして、ただ俺のほうを見て。桜木や宮城が、想い人に向けるのと同じ視線。だけど二人にはない色が乗っていて、ミラー越しでも見ていられなくなりそうっと目を逸らす。……ほんとに、なんでこうなったんだか。
「ねえ、一緒に行こうよ」
「お前な、男二人で花火大会とか」
「そんな変でもないでしょ。さっき『桜木と行くのか』って聞いてきたの、ミッチーじゃん」
「桜木とお前は友達だろ」
「別に俺たちが二人で行ってたって誰も気にしないよ」
「俺が気にする」
「……そっか……ごめん、無理言って」
「え、お、おう……わかったなら」
「恥を忍んでオカズ写真提供して、自分で現像屋まで行って、こんなに尽くしてるのに……俺って先輩との最後の夏のひとときでさえもらえないんだなあ」
「…………い、いくぞぉ、水戸!!」
「えっ!ホント?やりい」
冷や汗ダラダラな俺の顔を水戸は頭を下げてぐっと覗き込んできた。ニッと口角が上がって、心底嬉しそーな笑み。ふんにゃり下げられた目尻。緩められた両目には、間抜けズラの俺の姿が大きく写っている。
距離が近くなったものだから、白い首がかすかに赤くなっている様子も自然と目に入ってきてしまう。後ろ髪からぷっつりと生まれた水滴が、その首筋を伝っていくところまでしっかりと。
「っ、帰る!あちーし、明日もバスケあるし」
「え〜、ミッチー……あーそだ、アイス買ってよ」
「さっき金渡したろ」
「一人で食べても味気ない」
「桜木とかと食えよ」
「今日はちょっと高めの食いたい気分なの。五人で食ったらその分俺に掛けられる金が減るじゃん」
「追加の金やるから」
「アイスくらい付き合ってよ」
「やだ。あちい」
「……恥を忍んでオカズ写真を、」
「だー!!わかったよ!くっそ、俺のほうが弱み握られてねえか……?」
頭をガシガシと掻くと、水戸はひょいと塀から飛び降りた。たん、軽やかな足音が鳴って、ずっと上にあった顔が下へと移動する。
ポケットに手を入れた水戸は、夕日を受けて全身を赤く染めた。トラックがざあと車道を摩擦し、カーブミラーがギラリと光る。ミンミンと蝉の音が一層うるさくなって、夏がぐうらりと脳を揺らしてくる。
「みついさん」
水戸は、半身で振り返った。まばゆい光が反射して見えて、思わず目を細める。ジージーと鳴く雑音をかき分けて、微笑みの形が分かるほど弾んだ声が鼓膜を揺らす。
見えたのは、楽しげな笑み。まるで、好きな人と一緒にいられることしか考えていないような。
「────」
ミンミンミンミンミン……鮮明だった水戸の声は、遠く、小さく、おぼろへと消えていく。まばゆい光が視界を白く塗りつぶし、きぃぃいんと頭が痛くなる。
白く、しろく、しろいせかい……蒸し暑さが増していき、不快感が全身を覆い出す。肌が湿って口の中が干からびる。
霞む視界の中、次に見えたのは。
灰色の、シミだらけの天井だった。