武市瑞山が急に購買部でちぎりパンを買い求めるようになった、その前日の話 玉のような子、という表現を知っている者なら、十人中十人がその形容を思い浮かべるだろう。まるまるむちむちとして今にもこぼれ落ちそうな頬、ちぎりパンそっくりの謎のくびれが並ぶ腕、土踏まずのないむくむくの足。全体のシルエットがもう、福々しいほど丸いのだ。霊基異常で赤ん坊になってしまった幕末四大人斬りが一角、武市瑞山の右腕、田中新兵衛である。
元に戻すには魔力刺激、とにもかくにもスキンシップが一番効率が良いと聞いて、借りてきた抱っこ紐──結構出番があるんだよねぇと制作者のダヴィンチ氏はぼやいた──で腹にくくりつけている。さすがと言うべきか、この義弟は嬰児になっても眉ひとつ動かさない。泣きもせずただ瑞山の胸にもちもちの頬をくっつけ、全てを預けてうとうととするばかりだった。
「……可愛いな」
「もう百遍は聞いたき、別の話せんか?」
実際には四十三度目の嘆息であったが、以蔵は心底うんざりした様子で口を歪めた。赤ん坊に良くないと煙草を没収されたせいか機嫌が悪い。しかしそう言われても、可愛いものは可愛いので仕方がない。生前、生憎と親になる機会はなかったが、こうまで愛おしいものだとは。
「嗅ぐか? 頭から甘い匂いがする」
「あんだけ飲みゃあミルクの匂いにもなるがよ……おいやめぇ、腿肉を揉みしだきなや、何じゃその手ェ」
「できるだけスキンシップをするようにと……」
「いや分かっちゅうけど、先生の手ェは何か……何か」
せめて頬っぺたとかにせんかと強く要望され、むっちりしっとりの腿を離れてまんまるい頬をつまむ。肉という感じが全くしなくて、ふわふわのマシュマロでも詰まっていそうな頼りない感触だった。
「うぶぅ」
「喋った 以蔵、今『あにょ』と」
「どう聞いても言うちょらん、大概にせえよ」
「言ったよな、田中君。あにょだぞ〜」
重たげな頭を上向けて、丸い目玉がじいっと瑞山の顔を見た。ぷくぷくの手が伸び上がって顎に触れる。ずっと握り締めていた手のひらからはほんのりすっぱい匂いがして、ちいさないのちの活発な新陳代謝を感じさせた。
「あぅー」
それからふんにゃりと、とろけるようなやわらかさで、赤ん坊の新兵衛は瑞山に微笑みかけた。腹いっぱいで欲求がすべて満たされた乳児のする、幸福そのものの表情だった。
「…………………可愛いな…………」
「まあ、ほうじゃが、これ新兵衛やき」
うるうるの唇から、てろりとよだれの雫が垂れる。ハンカチを出して拭いてやると、興味を持ったのか右手でくしゃりと掴んだ。ぎゅっと握り込んで、引っ張っても返してくれない。こんなに小さなころから手の力が強かったのだ。ああ、紛れもなく彼だなあと思うと、ますますたまらない気持ちになってしまう。
「軽く……頬っぺたを軽く口に入れるのは、スキンシップに入るかな」
「それはやめちゃれ」
入念なスキンシップの甲斐あって翌日にはあっけなく元の姿を取り戻した人斬り新兵衛であったが、カルデアではその後もしばらくの間、未練がましく義弟の頬を揉み頭皮を嗅ぐ武市瑞山の姿が見られたという────。