土井半助自覚編(雑←土)「あ、雑渡さん。お久しぶりです」
「やあ」
「こんにちはー」
「はい、こんにちは」
「昆奈門さん、どうされたんですかぁ~」
「こちらに寄ったついでにね」
活動中だった保険委員と、雑渡昆奈門が、忍術学園の片隅で和やかに会話をしている。
通りかかった土井半助は、あれはいいのかと若干思いつつも、楽しげな空気を見守っていた。
雑渡昆奈門という男は、忍びとしては恐るべき相手だ。
ただ、生徒には割と甘い。生徒によって彼から助けられたと報告が入るたびに、教師たちに情報は共有される。そのたびに教師たちは、頭を悩ませる羽目になる。
部外者から生徒への接触は、基本的に、学園長を含めた教師たちに知らされる。
忍術学園に悪意を持つ者の中には、生徒から籠絡しようという考えを持つ者がそれなりにいる。
部外者の情報を総合して、関係を断たせるか、逆に利用するか、とりあえず静観するか、判断をする必要がある。
雑渡については、今の所、静観の判断が下されている。少しだけ不安を感じつつも、学園長や年嵩の教師たちが手を出さないなら、まだ若輩の土井もそれに習う。
実際、彼は子供たちの前では(戦場でなければの話だが)、基本的に温厚だった。笑いさえする。教師たちを前にした時の、一切隙を感じさせない佇まいとは別人のようだ。
子供が好きなのだろうか。そう単純でもない気はするが。
そう思いながら、土井は一年生とじゃれる雑渡を見ていた。
ふっと、雑渡がこちらを見る。
彼はこちらを見て軽く一礼し、土井も同じように返す。
「あっ、土井先生ー」
「土井先生。何か御用でしたか?」
「いや、そういう訳じゃないよ。委員会活動の後は、ちゃんと予習復習もやるようになー」
生徒に注意を促して、土井は彼らに背を向けた。
土井を見た雑渡は、ほんの束の間、忍びの顔に戻ってこちらを伺った。それが和やかな空気を少しだけ切断して、生徒たちは土井に気付いた。
意図せず邪魔者になってしまったような気がして、少しだけ申し訳ない気持ちになった。
(もう少し、穏やかなあの人を見ていたかったな)
浮かんだ気持ちに、「ん?」と足を止める。
見ていたかった。
生徒たちを、ではない。
雑渡を、だ。
確かに土井は今、そう思った。
「え?」
背筋に冷たいものが走る。
雑渡は今すぐどうこうするべき敵ではないが、忍術学園にとって油断は見せられない相手だ。
観察したい、見張っていたい、ではない。決して教師たちには見せない雑渡の顔を、ただ普通に、見たいと思った。
足が動かない。
目を引く男だとは思っていた。監視するように見ていた事はあった。
だが、感情を伴った目で見た事はない。今までは。
何らかの感情を抱いていい相手ではない。特に好意は駄目だ。悪意の方が、まだマシだ。
「えぇ……?」
嘘だろう、と思ったが、他の誰でもない己の心に浮かんだ感情だ。誤魔化しは効かない。
「土井先生。どうされたのですか?」
廊下で立ち止まったままの土井に、通りすがりの生徒が声をかけてきた。はっとして目をやると、食満、しんべヱ、喜三太が土井を見ている。用具委員の作業中なのだろう。それぞれに修繕道具を持っていた。
「土井先生、お腹空いたんですか?」
「しんべヱじゃあるまいし」
いつも通りの声に、土井は無意識に固くなっていた表情を和らげた。
「お加減が悪いのですか?」
食満が尋ねる。素直な彼は、心配そうな顔をしていた。一年生たちが、土井を見る。
「えっ、また胃ですか?」
「先生、気を付けないと!」
よく土井の胃を痛めさせる二人が言うから、苦笑する。
「そういう訳ではないよ。少し、考え事をしていてね。足を留めさせてすまなかった」
「大丈夫ですか?」
なおも心配そうな食満に、いつもの顔で土井は笑う。
「ああ、大丈夫だよ。ありがとう、留三郎」
それでようやく食満は納得したようだ。
「わかりました。よし行くぞ、二人とも」
「はーい」
元気な返事が重なって、用具委員が揃って歩く後姿を見送る。
土井が守りたい、大切な生徒たちだ。彼らを見た事で、思考は少し遠のいた。
「よし」
気を取り直し、前を見る。
そして、決めた。
忘れよう。
任務に無用な感情を抱いた事はある。消した事もある。消す方法も知っている。
今度だって、同じように消せるはずだ。
土井の見る限り、雑渡は土井にさしたる興味はない。用がなければ、絡んでくることもないだろう。
これまで通りの距離で接していれば、この胸にともりかけた火は、容易に消せるはずだ。
再び歩き出した土井の足取りは、普段通りのものだった。
実際、何事もなければ、その通りになったはずだ。
後からこの日を思い出した土井は、そう思う。
雑渡が唐突に土井の元を訪れたのは、ここからひと月ほど後の事だった。