そういえば、雑渡の寝顔を見たことがない。
土井が思ったのは、きり丸の子守アルバイトを手伝って、幼子を寝かしつけた時だった。
先ほどまで泣きわめいていた子が、すやすやと寝息を立ている。子守はしばらく休憩時間だ。この子が起きるまでは。
安心して緩んだ思考が、ふと思わせたのが、雑渡の寝顔だ。
何度も逢瀬は重ねているが、雑渡の眠った姿は見たことがない。そして土井も、彼に寝顔を見せたことはない。
もっと言えば、一緒に眠った事がない。土井の方は、最中に軽く意識を飛ばした事はあるが、雑渡はそれさえなかった。
それくらいに二人の情事は慌ただしかったし、共にいられる時間も少なかった。
何より、忍びの習性である。眠るという一番無防備な状態を、互いの前に晒す事はできなかった。
同衾するような仲とはいえ、何もかもを分け合えるような関係性ではない。
当然で、わかっていた事だ。
一抹の寂しさを感じる己が、弱いだけだ。
「おっと」
思考に沈んでいた土井は、良く知った気配と足音に、顔を上げた。
「ただいまー!」
元気に帰ってきたきり丸に、土井は急いで口元に人差し指を当てる。きり丸は寝入っている幼子を見て、慌てて口を押えた。
「ただいま~」
声を潜めながら、もう一度言うから、土井は笑った。
「ああ、おかえり」
小さい声で返すと、きり丸はへへっと笑う。
胸が暖かくなる。きり丸に困らせられる事は多いけれど、一緒に過ごす生活をやめたいと思った事はない。
「もうこの子も帰る時間だろう。寝てるうちに送っていくといい」
「あ、そうそう。オレ今夜はこの子を送って、そのままこの子の家に泊まりますんで」
「ん? 何かあったのか?」
きり丸曰く、この赤子の家で、病人と怪我人が立て続けに出たという。
まず赤子の祖父が腕を怪我してしまい、祖母が足を怪我して、母親が熱を出した。
「親類が手伝いに来てくれるはずが、着くのが明日に延びちゃったとかで。今日だけ手伝ってくれって言われたんスよ。バイト代は大した事ないけど、今日明日はメシ食わせてくれるって言うから、行ってきます」
きり丸は赤子を背負いながら、手早く説明する。
「わかった。気をつけてな。もし人手が必要なようなら、言ってくれ」
「今回は一人で大丈夫ですよ。若奥さんがいるのに、独身男を連れてく訳にはいきませんって」
「おまえなぁ」
きり丸の背中で赤ん坊がむずがる。そろそろ起きるかもしれない。
「おっとと。じゃ、行ってきます!」
「いってらっしゃい。気をつけてな」
「はーい」
調子のいい返事を残して、きり丸と赤ん坊が長屋を出て行く。慌ただしい気配がなくなると、急に静かになる。
「さて、今日は一人か」
たまには、それもいい。何しろきり丸は時間を金に換えたい奴なので、昼間のバイトに追加して夜も内職を受けてきて、土井を巻き込む。
今夜は内職なしで、のんびりできそうだ。
「さぁて、何をするかな」
やりたい事を頭に浮かべる。
たくさんの用事のその中に、ふと雑渡の顔が浮かんでくるから、土井は慌てて振り払った。
日が暮れ始めて、長屋の中も薄暗くなってきた頃。長屋の入り口に、気配が立った。
「ごめんください」
聞き覚えのある、低い声。声色を変えてはいるが、誰かはすぐに分かった。
(雑渡……?)
そんな訳はないと咄嗟に思うが、声に聞き間違いはない。
急いで立ち上がり、戸を引くと、案の定。
忍び装束ではなく商売人のような格好をして、深くかぶった編み笠で顔を隠し、大きな荷物を抱えた、見知った男が立っていた。顔は見えずとも、見覚えのある体格と気配を間違うはずもない。
「……どうぞ」
一旦感情を抑え込み、静かに来客を迎え入れる。
意図を確認せずに入れたのは、あまり目立ちたくないからだ。ご近所で噂になっては、死活問題である。
こんな人目に付く方法で正面から訪ねてきたのだから、物騒な用事ではないはずだ。
中に入った雑渡は、戸を閉めると、抱えていた荷物を下ろした。
「随分簡単に入れてくれる」
低く笑って、編み笠を取る。
「相手が知らない人なら、入れませんよ」
忍び装束ではない雑渡を見るのは、珍しい。相変わらず包帯はしており、顔の大部分を隠しているのはそのままだったが、格好が違えば空気も変わる。
内心で見惚れるなと思いながらも、土井は表情を崩さなかった。
「何か御用ですか?」
やけに大きい雑渡の荷物をチラリと見て、尋ねる。
どうして今夜、雑渡が訪れたのか。心当たりは特にない。
一瞬、会いに来てくれたのかと思った。だが、それはないだろう。残念ながら、土井の頭は願望よりも現実を優先する。
「先ほど、偶然、きり丸君と会ってね」
きり丸の名前が出た時点で、うっすらと嫌な予感がした。
「夜のアルバイトの話を聞いていたら、今夜は土井先生が一人で暇をしているはずだと言う」
「アイツは〜……!」
外部の人間に、土井が忍術学園の教師だと知っている人間に、軽々にそんな事を話すなと頭を抱えたくなる。
「きり丸君は、本当ならば土井先生用の内職を置いていきたい所だったが、間に合わなかったと悔しがっていてね」
「そうですか……」
「だから、私が代わりに内職を預かってきた」
「はぁ!?」
雑渡が荷物をほどくと、中から内職セットが出てきた。土井もこれまで様々な内職を手伝わされたから、材料を見ただけで、どこから頼まれた何の内職か分かる。
「そ、そんなくだらない用事で雑渡さんを使ったんですか、あの子は……?」
「あんまり彼が必死だったものでね」
「きり丸はいつだってバイトには必死ですよ……うわ、これ明日までか!」
納期を確認した土井は、その場に崩れ落ちたくなった。夜は、のんびり次の授業計画でも立てようと思っていたのに。
「大変だね。手伝おうか?」
「いえ……雑渡さんの手を煩わせる事ではないので……」
どっと疲れが湧いて来る。
呆れて言葉もないとは、この事だ。きり丸にも、雑渡にも、自分にも。
何の期待もしていないはずが、この男が、自分に会いに来てくれたのかと一瞬でも思ってしまったのが情けなかった。やはり自分は甘いし、だいぶ彼への情が募っている。
「はぁ……」
ため息と共に、気持ちを切り替える。
「きり丸がご迷惑をおかけしました。お届けありがとうございます。お急ぎでないなら、お茶でも吞んでいって下さい」
諸々の感情は脇に寄せて、「土井先生」として謝罪と感謝を伝える。
きり丸が帰ってきたら、まずは何から叱るべきか。いや内職を終わらせなければ、何を言っても聞きはしないだろう。
とりあえずお茶を淹れようとすると、雑渡に手首を掴まれた。
「何です?」
「礼ならば、茶よりもこちらがいい」
こちらとは?と問う前に、雑渡の顔が近付いてくる。
少し驚いたが拒む理由もないから、土井は抵抗することなく唇を重ねた。
雑渡はとにかく口付けが長い。そして激しい。臓物まで吸い取りたいのか、と思う事があるほどだ。
しかも逃げようとしても無駄なほど、力を込めて土井の体を固定する。
もう土井も諦めて、積極的に乗るようにしていた。
重ねるだけだったのは最初だけで、すぐに舌が入って来る。
荒い息が限界近くなった頃、ようやく雑渡は腕の力をゆるめた。
「はぁ……苦しかった」
「それはすまない」
息苦しさにぐったりしてしまうのも、いつもの事だ。
雑渡の肩に頭をのせて、息を整える。髪や背中を、雑渡の手が宥めるように撫でた。
大きな手は心地よくて、居心地が悪い。ふと気付けば、土井の手は雑渡の着物を握りしめている。本心が漏れ出ているようで、恥ずかしくなり、そっと手を離した。
「……何か、この辺りで御用事があったのでは?」
何とか理性をかき集め、掠れた声で尋ねる。
「あるといえばあるが、一晩くらいなら空けられない事もない」
雑渡の両手が、土井の頬を包む。そのまま、上を向かされた。
「土井殿は、どうして欲しい?」
目を細めてこちらを見下ろす雑渡に、苛立ちを感じた。
あんな激しい接吻の後で、わざわざ尋ねる。土井の答えをわかっていながら。
腹が立ったので、できれば殴らせて欲しい。
そんな素直な言葉は口に出さず、代わりに雑渡の首に手を伸ばす。
土井からの口付けは短く、素っ気ないものだったが、雑渡は満足そうな顔をした。
「内職より私を選んでもらえて良かった」
「あんたねぇ……!」
山積みの内職を忘れかけていた土井は、恨めしそうに雑渡を睨む。
土井を揶揄う時の雑渡は、それはもう人の悪い顔で、楽しそうだ。
それ以上は責められず、まして腕を振り払う事もできない理由は、惚れた弱み以外になかった。
明日、きり丸はいつ頃に帰ってくるのだろう。きり丸の事だから、終わっていない内職を、責めてくるかもしれない。
その時は、雑渡のせいにしよう。彼の起こした面倒事で、手が離せなかったと。
その位はいいだろう。半分は事実なのだから。
開き直った土井は、目を閉じて雑渡の口付けを受け入れた。