原作雑土で連載してみる05 タソガレドキは常時から戦に向けて準備を行い、諜報活動を行っている。ゆえに、多少きな臭いのは、いつもの事だった。
つまり、今のタソガレドキで何が起こっているか、土井は掴み切れていない。
何かあるであろう、と警戒しながら、指定された場所に向かう。
山道を辿る。急な道を登って、下って。ようやく目的地が見えた頃には、日が落ちかけていた。
ここに来るまでの道中で、いくつか気配を感じた。そのうちのいくつかは消え、残りは土井から距離を取って着いてくる。土井はあえて振り切らず、忍んだ気配をそのままにしていた。
進むと、更に気配が増えた。
増えた気配は、土井をつけているのではない。気配が忍んでいる場所に、土井が入り込んだのだ。
最初に監視の視線を感じた瞬間。もしも土井が何も知らない通行人だったなら、そこで引き返すのが懸命だったろう。
土井は何にも気付かないふりをして、森の深くまで入って行った。もし、ここから引き返しても、彼らは土井を放っておきはしないだろう。その程度の殺気はあった。
目的地まで、もう少しか。と、思った所で、木の影から人が現れた。雑渡だ。
雑渡は、忍び装束ではない。ふつうに町中にいるような平服だった。
雑渡は土井を見て、少し目を細めた。暗くてよく見えないが、おそらく笑っているのだろう。
「こんな場所まで来てもらって、申し訳ない」
「あなたの呼び出しは、いつも変な場所ですからね。慣れました」
話をしながら、一緒に歩き出す。
何をすればいい、と目で問い掛けても、雑渡は薄く微笑むだけだった。
ある一点に差し掛かった時。雑渡が、急に動いた。
ぐい、と土井が腕を引っ張られる。驚いているうちに、そのまま引き寄せられて、木の幹を背にする形で抱き締められた。
驚いた土井は、だが、雑渡を見て、声を上げるのをやめた。雑渡の顔が近付いてきて、唇が合わさる。
屋外で雑渡から口を吸われるのは、初めてだった。
少し驚きながらも、土井はそれを受け止める。目を閉じて、雑渡の胸に手を置いて、口を開けて雑渡の舌を招き入れる。
何度も唇を合わせながら、雑渡は待っているようだった。
周囲にある気配たちが動くのを。
示し合わせた訳ではない。が、タソガレドキが危険を知らせる合図は、土井にもはっきりと分かった。
雑渡は横へ、土井は上へ飛んだ。
弓がまず雑渡のいた場所へ。間をおかずに、土井のいた場所へ。ほぼ同時に突き刺さる。
すぐさまタソガレドキ忍軍たちが、続いて弓を放ったのであろう忍者たちが姿を現し、乱戦が始まった。
雑渡の姿は、土井の視界から消えた。
土井は枝の上でしゃがんで、幹で身を隠しながら、状況を見る。小競り合いの人数であるが、その分、双方とも練度は高そうだ。
両者の観察して、何かが飛んで来たら避ける。もしくは返す。
手を貸す義理はない。何をしろとも、するなとも言われていない。つまりは、何もしなくてもいいという事だ。
終わるまで高みの見物といきたかったが、そこまで甘くもない。苦無が飛んで来たから、胸元から出席簿を取り出して、叩き落とす。小手先の攻撃ではなく、明らかに土井は狙いを定めていた。
一箇所に留まっていれば、当然、的になる。土井は木から飛び降り、飛んできた棒手裏剣を出席簿で跳ね返すと、駆け出した。
少し移動した所で、見知った気配が付いてきているのが分かった。
「君が私の護衛か?」
走りながら問えば、尊奈門は不本意そうな顔で、
「そうだ。離れるなよ」
と返した。
「では、守ってもらうとしよう」
この言葉に尊奈門が反応するより早く、また手近な木の上に避難して、見物に回る。追手の対応を、尊奈門に任せて。
尊奈門の動きに、また随分と修業をしてきたのだろうな、と呑気な事を思ったり、敵の忍者を観察したり、チョークを投げて援護をしたり。
「余計な事はするなッ!」
と、尊奈門に怒鳴られたり。
本格的に加勢するつもりはないから、
「よそ見はするなー」
なるべく手は出さずに、声を飛ばす。生徒へするように。
手を貸す義理がないとは言え、顔見知りが自分を守って怪我するのを黙って見ているほど、薄情者にはなれない。
土井を狙った攻撃も時折あったが、幾度かの攻防の末、彼らは早々に諦めたようだ。土井が積極的に動かないと見た彼らの意識は、尊奈門へと集中していく。
行動があまりにも分かりやすく狙いやすくて、ついつい手を出しては、尊奈門を怒らせる。
そんな事をしているうちに、囲む気配がどんどん少なくなっていった。
日は完全に落ちている。
闇に紛れて、追手たちは消えた。離れた所の戦いの気配もなくなっていく。
撤退の動きに、追うべきかと少し思ったが、それはタソガレドキの仕事だ。一人で来ている土井が深追いしても、収穫は少ないだろう。
土井は木の上から飛び降りて、肩で息をする尊奈門に近付く。
「もう大丈夫そうだな。ありがとう」
「ふ、ん……よ、余計な、手出し、を……」
尊奈門は息を切らせたまま、土井を睨む。あちこち斬られているだろう尊奈門からは、血の匂いがする。尊奈門自身に深い傷はなさそうだから、返り血であろう。
「君に目の前で死なれたら、さすがに寝覚めが悪いからなぁ」
「あれしきで……ッ!」
息が整いきらないうちに急に大声を出した結果、尊奈門は咽せた。
命じられたとはいえ、土井を守るのは不本意だったろうに。そう思うと、少し気の毒になる。
それにしても。
事が落ち着くと、腹が立って来た。
雑渡に。
連絡がなっていない。囮になる、というのは聞かされていたが、突然恋仲の真似事をさせられるとは聞いていない。
「雑渡さんは、向こうか?」
「お、い! 待て!」
「何だ?」
尊奈門はどうにか息を整えた。
「聞きたい事がある」
「うん」
「おまえはこの助太刀に、同意していたのか?」
「学園長に頼まれたからね。というか、君がこの場所を指定する文を持ってきたんだろう」
「……この忍務の話だとは、知らなかった。後で聞かされた」
雑渡は味方にまでその調子なのか、と少し呆れる。とはいえ、それは悪意ではないだろう。雑渡に限らず、タソガレドキの者は尊奈門にだいぶ甘い。
「君は相変わらず呑気だな」
「何だと!?」
尊奈門は怒ったが、多少は自覚があるのか、すぐ大人しくなった。
「いや、私の事はいい。おまえこそ、同意して来たのなら、何故そんなに怒っている」
「それは……」
土井に渡された情報が少なかったから。
それだけといえば、それだけだ。
いや、そうだろうか。腹の底からの苛立ちは、そんなに単純なものだろうか。
「あの人が、私に何も話さない、から?」
ああそうか。
口に出した事で、苛立ちへの回答を得た。
つまり、自分は拗ねているのだ。雑渡は大事なことを、何一つとして土井に話さないから。
今回の件も大概だが、その苛立ちの中には、これまでの積もり積もった不満がある。土井の心を知っていながら、自分の手の内はまるで明かさない雑渡への。
雑渡にぶつけた所で、仕方がない。これは土井の心の問題だ。
雑渡に文句を言ってやろうと思っていた。しかし、そんな気もなくなった。
色に溺れると言うのは、この事か。
頭の中で、潮時だという声がした。急に心が重くなった。
「はぁ……帰るかな」
「おい待て!」
「え、帰っちゃダメか?」
「当たり前だ! いや、そうではなくて、聞きたい事があると言っただろうが!」
「もう答えたじゃないか」
「本題がまだだ! その……」
尊奈門は珍しく躊躇いがちに、口を開く。
「おまえは、組頭と、恋仲なのか?」
「は? そんな訳ないだろ」
呆れた顔で、即座に断じたのに、尊奈門は眉間を寄せたままだった。土井を真っ直ぐに見て、今度はハッキリと言う。
「隠すな」
強い声と視線に、土井は軽く動揺を覚えた。妙に確信のある声だった。
「隠してないさ。あの人が私と恋仲なんて、あり得ない。考えなくても分かるだろう?」
なるべく軽い調子で返す。
身体の関係はあるが、土井は雑渡を想っているが、恋仲ではない。雑渡は土井を好きではないのだから。
嘘はついていない。
「だが……」
尊奈門が、またもや口籠る。理由は分からないが、納得していないのは明らかだ。
もしかしたら、先程の口付けを見て、そう思ったのだろうか。
「さっきのは単なる芝居だよ。あのくらい、誰とだってできる」
土井は静かに尊奈門に近付く。いささか乱暴に、尊奈門の顔を両手で挟んで引き寄せる。
「君とだってな」
至近距離の尊奈門の顔が、ぎょっとして歪む。嫌がられているのは明らかだが、ひとつしておくべきだろうか。先程の雑渡の行為に、大した意味はないと思い知らせるために。
「うちの部下を、あまり揶揄わないでもらえるかな」
至近距離から声がして、土井が横を見る。同時に、尊奈門が土井から離れた。飛び退く勢いに、苦笑する。
「申し訳ない。ただ私も、やられっぱなしは愉快でないもので」
冷えた声で返す。
ぴり、と空気が張り詰める。
雑渡は、土井と尊奈門の間に割り込みながら言った。
「そこは説明しよう。尊奈門、先に戻っていろ」
「……はい」
尊奈門は何か言いたそうな顔をしていたが、雑渡の顔を見て、諦めたようだ。土井をひと睨みして、去っていく。
雑渡は土井に向かって、こちらへ、と促す。
案内されたのは、程近い場所にある小屋だった。
古びた小屋は、木や雑草に覆われるようにして何とか建っているように見える。土井も来た事がある場所だった。
中にはタソガレドキの者が何人かいたが、雑渡と土井が入っていくと、一礼して出て行った。
「それで、私は何に巻き込まれたのですか」
戸が閉まって二人だけになった途端、土井は不機嫌を隠しもせず問う。雑渡は、ごく普通の顔をしていた。
「私を狙う連中を、一気に掃除をしておきたくてね」
「私を巻き込んだ理由は?」
「向こうに、土井殿の事を掴まれていた。忍術学園に手を出される前に、片付けたかった」
「それは私を巻き込む理由になりますか?」
「その方が、話が早い。実際、見事に引っかかってくれた」
だろう、と目で問われる。確かに引っかかってくれた。
「学園長には、どこまで話されました?」
「どちらの話を?」
「今回の忍務の話です」
「原因からほとんど話したよ。あまり外聞の良い話ではないから、詳細は聞かないでくれると助かるが」
「では、あなたではなく学園長から聞きます」
今は雑渡を問い詰める気はない。何しろ彼との会話は疲れるし、学園長が把握しているのなら問題はない。
「それにしても……私について、部下の方々には何と言ったんです?」
「土井先生に協力を頼んで、忍術学園から借りてきたと」
「まあ、間違ってはいませんがね」
さすがに土井との関係を話したわけではないか、と安堵する。雑渡の立場を考えれば、まさか公言はしないだろう。
が、先程の尊奈門の反応が引っかかる。特に、「恋仲か」という問いが。
土井の見たところ、そんな誤解をしているのは尊奈門だけだった。他の顔を合わせた忍者たちは、土井に対してまるで普通だ。
恐らく雑渡が事前に話していたのだろう。恋仲を演じると。
尊奈門には、聞かされていなかったのか。さすがに、それはないだろう。
では、どうして土井にそんな問いをしたのか。
もう一度、尊奈門と話をさせてもらうか。そう思うのとほぼ同時に、雑渡が口を開く。
「尊奈門をどう思う?」
「は?」
雑渡の問いに、間抜けな反応をしてしまった。
随分と幅の広い質問だ。返答に困る。どういう意図か、どうとでも取れる。
「順調に強くなっていると思いましたよ。彼はまだ伸びるでしょう。先程も動きは悪くなかった」
当たり障りのない答えは、当然、雑渡が望んだものではないのだろう。黙って土井を見ている。
「できれば、私の所に来るのはやめさせて頂きたいが、まぁ無理なんでしょうね。生徒たちとは割と仲良くやってくれているから、助かります」
こんな無意味な事ならば、いつまででも話せる。だが、あまりにも無駄な時間だ。
雑渡が切り上げる気配もない。仕方なく、土井は考えた。
土井自身が、尊奈門を見て思う事。それを知りたいのだろう。
「彼は、愛され、大切に育ったのでしょうね。そういう子を見ると、安心します」
決して逸らさない彼の直向きな目を思い出しながら、土井の声が少し柔らかくなる。
彼は土井の生徒では勿論ないけれど、感覚としては近い所にいる。見ず知らずでも、真っ直ぐ走る若手に、少しくらいは手を貸してやりたくなる。
教師を続けているせいか、年齢を重ねたせいか。煩わしさを感じなくもないが、土井は尊奈門も、今の自分も、嫌いではない。
「うーん……そうですね。私は彼が、けっこう好きですよ。本人には言わないで欲しいですが」
「ほう」
雑渡の纏う空気が、一段冷えたような気がした。
「はは。そう怖い顔をしないで頂きたい。好きとは言っても、纏わり付いてくる近所の子どもに対するようなものですよ。欲はない」
言いながら、土井は雑渡の目を見る。いつもの土井を探るような目が、少しだけ和らいでいる。
今まで彼が何を考えていたのか、やっと、少しわかった。
「雑渡さん。あなたの方は?」
「どういう意味かな?」
「尊奈門が、大事なのでしょう?」
雑渡は答えなかった。
こちらにばかり喋らせるつもりか。苛立ちが蘇る。
「あなたが私に構うのは、つまり、尊奈門のためだったのですね」
たった今、気が付いた。随分と鈍いものだと、自分で思う。
「彼がムキになって突っかかる私を調べて、私が彼に対して何らかの意図を持つか、知りたかった。私は、そんなに分かり辛かったですか?」
雑渡はやはり、答えない。だが、もう返事は必要なかった。
「彼のあの素直さでは、心配になるのも無理はない。私がよからぬ事を考える輩でなくて良かったですね」
「あの子の目は、そこまで節穴ではないよ」
「では、あなたが心配性という訳ですか」
「たまに言われる」
雑渡は、ため息混じりに認めた。
「あれは私の恩人でね」
静かな声に、そうですか、と土井は返した。
詳しく聞く必要はない。その辺りの事実関係は、もう知っている。
年若い恩人。それは、土井にも覚えのある感覚だった。
だから土井は、苦く笑うだけだった。
気持ちは、わからないでもない。いや、わかってしまう。例えば利吉が妙な相手に入れ込んでいたら、土井だって注意くらいは払うだろう。
ここまでするかはともかく。
「それで、私は合格という事ですか?」
「私が判断する事でないよ。しかし、土井先生が尊奈門に含む所がないのは、理解した」
「それは何より。ではこれで、私の調査は終わりですね。用が済んだのですから、もう私には会いには来ないで頂きたい」
雑渡は返事をしなかった。させないように、土井が、彼に背を向けて去ろうとしたのだ。
雑渡の心が土井にない事など最初からわかっていた。
わかっていても、思ったより、苦しい。痛い。痛みに耐えるのは慣れているはずなのに、初めての恋の痛みは未知すぎて、平静でいる自信がない。
だが、去る事はできなかった。雑渡に、腕を掴まれていた。
「……まだ、何か?」
問答無用で振り払わず、問うくらいの理性はあった。
「最後に、一つだけ聞きたい」
「何です」
「私を選んだ理由は?」
「はぁ?」
選んだつもりはない。誰とも比較などしていない。気が付いたら、この男が心に居ただけだ。
だが雑渡は真面目な顔をしている。
「私に惚れられたのが、そんなに不思議でしたか」
「うちには他にも良い男がいるからね」
「まったくですよ。もっと素直な人も、見目の良い人も、いくらでもいる」
「では、なぜ私を?」
言うまでは、離してもらえないようだ。
土井は仕方なく、口を開く。
答えはある。問われる前から何度も考えていた。
突き詰めれば、原因はひとつだけだった。
「あなたが、忍玉は可能性だとおっしゃった」
それ以上は言おうとしない土井に、雑渡は首を傾げる。
「……それだけ?」
「ええ、それだけです。他もまあ、無関係とは言いませんよ。身体も中身もね。けれど、いちばん最初の理由は、本当に、それだけです」
彼が土井に好意があったからではない。生徒たちに好意があって、実際に見守り、手助けもして。そういう姿を見て、心を惹かれた。
雑渡は学園にとって、曲者である。けれど同時に、自由とは言い難い立場にも関わらず、できる全力を生徒たちへ向けてくれる人だ。
だから土井は、どれだけ腹が立ったとしても、雑渡の何かを変えて欲しいとは思わない。
「あなたの関心は、どうぞこれまで通り生徒たちへ。私の事は、あの子たちを見守る壁だと思って頂ければ結構」
そのままでいて欲しい。土井の方など見ずに。
「なるほど、大きな壁だ」
「それはもう」
土井は力の抜けた雑渡の腕を取り、外した。彼に触れるのは、これが最後だろうなと思いながら。
「納得して頂けたようで、何より」
随分と長くかかってしまった。
「今回の件、報告は私ではなく学園長先生にお願い致します」
念の為、と土井が言う。
「承知した」
雑渡が返す。
土井が小屋を出る。雑渡の気配も同時に消えた。
あっさりとした別れだ。
終わった。
やっと、終わった。
「はぁー……」
終わってしまえば、あっけないものだ。どっと力が抜ける。とてつもない開放感と安心感に、しゃがみ込みそうになったが、堪えた。
もう土井を気にする気配はない。土井は誰にも会う事なく、帰路を辿った。
解放された安堵の奥に、寂寥感がある。土井は何とかそれを押し込んで、表に出ないようにした。
森を抜けて、更に歩いて、馴染みのある道に入る。そこまで来てようやく少し、気が抜けた。
「よかった」
漏れた呟きと同時に、一筋だけ、涙が落ちた。
恋心というのは、随分と身勝手で不便なものだ。できればもう、味わいたくはない。少なくとも、忍者でいるうちは。
ぐい、と腕で顔を拭う。
顔を上げて大きく息を吸い込み、伸びをする。
帰ろう。
そう思える場所があるのが、何よりの救いだった。あの場所が、今の自分にとって一番大事だ。それさえ見失わなければ、大丈夫。
まだ痛む胸を抱えながらも、土井は、しっかりした足取りで見知った道を歩き出した。