無自覚な執愛の芽吹き「五条さん。私、ちょっと出かけてきます」
その言葉に、ソファーで報告書に目を通していた五条がバッと顔を上げて発言主を見遣った。
「は? え、何、なんだって?」
「ですから、少し出かけてきますと」
「はぁあ 待て待て、何言ってんのお前、ダメっつーか無理に決まってんだろ!」
ローテーブルに報告書を放り投げ、大股で発言主である七海に歩み寄り、五条はちょっと怒ったように眦を吊り上げて見せる。
対する七海は、何がいけないのかと言った様子で五条を見上げていた。
「あのねぇ七海、お前、ついこの間ようやくベッドから起き上がれるようになったばかりなんだよ? リハビリだってまだ始まったばかりだってのに、そんな状態の身体でドコ行くって?」
「なので、リハビリを兼ねて出かけてこようかと思ってるんですが」
「ダメダメ、却下。認められませーん」
大袈裟な身振りで、両手で作ったバッテンを目の前に突き出してやる。
すると七海もあからさまに不満を全面に押し出し、刺々しい声音で反論してきた。
「貴方に却下される謂れはありません。私には私の事情があるんです」
「あぁそうだね、僕だって別にお前のプライベートを制限するつもりはないさ。だけどな、僕は硝子や学長や伊地知、他にも沢山の奴等からお前の事を任されてるんだよ」
「…それは、聞いてますが」
「だろ? だから、皆からお前を託された僕の立場から言わせてもらうと、今のお前の発言は随分と自分勝手と言わざるを得ない」
「…………」
普段正論を嫌う五条の至極真っ当な正論に、七海自身もそれを理解しているのだろう、浮かべた不満が一転して申し訳なさげなものに変わる。
「……済みません、自分でも判ってはいるんです。ですが、どうしても今日、行きたいところがあって」
「……はぁ、」
眼前の悄然と項垂れた男を見遣り、五条は大仰に溜息を吐いた。
そうしてから、ガリガリと髪を掻き回しつつ「ちょっと待ってて」と言いおいて背を向ける。
「……あの、五条さん?」
「着替えてくる。僕も一緒に行くから」
「え、 あの、それは、」
戸惑いがちに声をあげた七海に、五条は身体半分をドアに潜らせながら振り返った。
「言っただろ? 僕はお前のプライベートを制限したい訳じゃない、って。だから僕が付き添って行くのなら何の問題もない、そうでしょ?」
「! 五条さん、」
「すぐ支度する。いいか、先に行ったりするなよ!」
念を押すように言い残し、今度こそ五条はドアの向こうに消える。
それを見送った七海は、何か言いたげに開きかけていた唇を、グッと強く引き結んだ。
まるで何かを堪えるように。
◆ ◆ ◆
『渋谷事変』───
一部の人間達からそう称される天災級の事件から、早くも三年が経とうとしている。
その間、破壊に破壊され瓦礫の廃墟と化した都心部は徐々に復興の兆しを見せ始め、多くの犠牲者を出した彼の地は、今や新たな都市が形成されようとしていた。
かつて獄門疆に封じられた五条は自らの、そして彼の教え子達の尽力により、およそ二年前にやっとその中から解放された。
状況把握もろくに成されぬまま、甚大な被害の後始末や変わらず蔓延る呪霊の祓除とに追われた五条は、解放から数ヶ月経ってからようやく周囲の近況を知るに至る。
五条の見知った者、そうでない者。
実に多くの命が、あの事変で失われていた。
その事に胸を痛める中、とある人物の近況を目にした五条は、その美しい双眸を零さんばかりに見開いた。
七海建人。
五条のひとつ下の後輩で、一級呪術師。
彼はあの事変において瀕死の状態で発見され、速やかに家入の元に運び込まれた。
一命は取り留めたものの、家入の懸命な治療も虚しく、七海はその日から一度も目を覚ましていない。
左眼球の喪失。
上半身に負った重度の熱傷。
その他、大小様々な裂傷。
特に熱傷は左半身が酷く、損傷レベルはⅢ度。
そして発見された時、七海は心肺停止状態に陥っていたという。
僅かだとはいえ、心臓が役目を止めていたその時間は彼の心身に少なからず悪影響を及ぼしており、七海は呪術師どころか、まず間違いなく以前のような健常者としての生活を送る事は不可能だと診断されていた。
多忙の合間を縫って、家入の許可の元、五条は初めて七海の見舞に訪れた。
高専内に建てられた医療施設、その一番厳重に警備が敷かれた病室のベッドに眠る後輩に歩み寄る。
彼は酸素マスクを装着され、何本もの点滴を施され、ただ静かにそこに横たわっていた。
「……七海、」
五条の口から零れたのは、自分でも驚く程にか細く、頼りない声。
しかしその呼びかけに返答はない。
七海は変わらず目を閉じたまま、己に繋がる数々の管や機械の手を借りてやっとの事で生きている、そんな状態なのだ。
左目に宛がわれた眼帯、皮膚を走る熱傷の痕。
柔らかい光を湛えたオリーブの瞳はその色を閉ざし、陽の光を浴びて煌めいていた金の髪も、白磁のような肌も、今は全てが燻んでしまっていた。
『このまま意識が戻らなければ、いよいよ生命が危ない』
この部屋に来る途中、そう苦々しく零した家入の言葉が五条の脳裏に響く。
死ぬ……?
七海が……?
七海が死ぬ───
そう考えた途端、五条の喉がヒュッとおかしな音を立てた。
「…イヤだよ、七海。お前まで僕を置いていくの……?」
ベッドの傍らにあった椅子に崩れるように座り込み、五条は誰にも聞かれた事のないような萎れた声で呟いた。
五条にとって七海は、他の呪術師仲間と一線を画した存在であった。
かつて学生であった自分を知る、数少ない者。
五条とは別の意味で稀有な術式持ちの家入や、補助監督として常に自分を支える伊地知、恩師として気を配ってくれる夜蛾もそのうちにあたる者達だが、七海はその誰とも違った。
七海は唯一、五条と同じ『呪術師』として彼と共に前線に立ってくれる、そんな男だった。
家入や伊地知も呪術師といえばそうなのだが、五条と同じように呪霊を祓う訳ではない。
夜蛾は後進の指導の為、なかなか現地に赴く事ができない。
七海だけなのだ。
七海だけが、等級こそ違えど自分と同じ目線を持ち、自分と同じ場所で、自分と同じように呪霊を祓って生きている。
時には同じ任務に就き二人で呪霊に立ち向かったり、或いは五条が強敵の祓除に専念できるよう、七海が進んで後塵を払ったり。
七海は決して自分を裏切ったり欺いたりしない、信頼のおける唯一の存在だった。
学生時代から目をかけていた後輩。
そのうちの一人であった灰原は若くして世を去り、親友だった夏油は呪詛師となった中で。
一度去りながらも自らの意思で再び戻ってきてくれた七海に対し、何故か五条は知らず知らずのうちに『七海は絶対に自分の傍からいなくならない』という自信と信頼を抱いていた。
そして今───それがどんなに根拠がなく儚いモノだったのかという事実に、彼はとうとう気がついてしまったのだ。
「……七海、僕さ。自分でも気づかなかったけど、随分とお前を頼りにしてたみたいだ」
だから、死なないでよ。
僕を置いて、逝かないで。
七海の手を握り締め、五条は初めて神に祈る。
どうかこの男を連れていかないでくれ、と。
初めて触れた後輩の指先は冷たくかさついていて、それが無性に悲しかった。
◆ ◆ ◆
「ひとまず駅まで行きます」
そんな七海の言葉に頷き、二人連れ立って最寄り駅までの道程を歩く。
五条と七海が暮らすこの街は駅を中心に開発が進んでおり、何か欲しいものがある時は取り敢えず駅前まで出れば大抵のものが揃う。
少し都心からは離れているが交通の便は良く、活気のある住みやすい街だった。
「で、どこに行きたいの? 七海」
「そうですね…まずは切符を買わないと。ICカード、失くしてしまったんですよ」
「は え、電車乗るの どこまで行く気なんだよ」
「そんなに遠くはありませんよ?」
「……あのなぁ、」
五条は呆れたように七海を見た。
彼は自分が病み上がりだという自覚が薄いのではないだろうか。
「(……いや、違うな)」
元々七海は自分本位な人間ではない。
その彼が、こうまで自分の意見を押し通すという事は、どうしても今日行かなければならないところがあるのだろう。
自分の身体に無茶を強いてでも。
「(…ま、僕がついてるんだし、問題ないか)」
そう結論付けた五条は、「判った、それじゃ切符買おっか」と七海を促した。
駅の構内に入り、券売機で切符を二枚買って。
さぁ改札へ向かおうとした時、五条のスマホが軽快な音を立てて着信を知らせた。
「あぁもう、何だっての…七海、悪いけどちょっと待ってくれる? ……そうだな、あそこのベンチに座って待ってて」
「判りました……任務ですか?」
「イヤ、多分報告だけだから。ちゃんと待ってろよ」
「……子供じゃないんですよ」
少しだけ顔を顰めた七海に苦笑を返し、五条は人気の少ない壁際まで移動して連絡に応じる。
電話の相手は伊地知で、やはり五条の言った通り任務の調査報告だった。
それ等の報告に対して二、三の指示を飛ばし、ついでに教え子達の近況を確かめる。
五条の教え子達は、あの事変を乗り越えてより一層の成長を見せ、今ではかつて五条が担っていた特級案件の任務ですら代わりにこなしてみせるようになった。
その著しい成長ぶりを見ていると、彼等がいつか自分と肩を並べるようになる日も近いのではないかと、五条は一人期待に頬を緩ませるのだ。
通話を終え、スマホをポケットに押し込みながら視線を走らせれば、ちゃんとベンチに腰を下ろした七海の横顔が見えた。
黒い眼帯に火傷の痕が痛々しいその横顔に、五条の胸がズキンと痛む。
「(…いけない、僕が気にしちゃダメだ。七海に気を遣わせる)」
針で刺されたような鋭いその痛みを振り払い、七海の元へと戻ろうと足早に歩を進める。
だがその足は、不意に耳に飛び込んできた声にピタリと止まってしまった。
「ねえねえ、あそこに座ってる人のカオ…見た?」
「見た見た! 何アレ、火傷? 気味悪いよね」
「ホントホント。よく人前に出てこれるよねぇ、恥ずかしくないのかな?」
「どんだけ図太い神経してるんだろ」
「…………」
それは恐らく、地元の高校生と思われる二人の女子生徒の会話。
話の槍玉に上がっているのは間違いなく七海で、何も知らない少女達は、七海の顔に残る火傷痕を興味津々に眺めながらも容赦なく論っている。
放っておけばいい、所詮は何も知らない他人の言う事だ。
判っている、冷静な頭でそう理解しているのに。
それでもどうしてか、五条には我慢ならなかった。
「ねぇ、キミ達~」
「「え、?」」
突然背後から声をかけられ、振り返った少女達は驚愕に目を見開いた。
何しろそこでは、彼女達がこれまで生きてきて見た事もないような美しい顔をした長身の男が、人好きのする笑顔で見下ろしていたのだから。
「っ、え、何、おにいさんナンパ?」
「そうなのー? えー、お茶くらいなら付き合ってあげてもいいよ?」
この世のものとは思えぬ程の美形に話しかけられた少女達は、すっかりナンパ目的だと思い込んだのか、至極上機嫌で頬を紅潮させながらはしゃいでいる。
男……五条はそんな少女二人をにこやかに見下ろすと、やはり飄々とした調子で話しかけた。
「アイツさぁ、僕の後輩なんだ」
「え?」
「はぁ? おにーさん、何言ってるの?」
唐突に始まった話に、二人は揃って眉を顰めた。
しかし五条は笑顔を崩さぬまま、視線だけをスイと前方へ流す。
「ほら、今キミ達が話してただろ? アイツだよ」
五条の視線の先にいるのは眼帯をした金髪の男で、少女達はそれで全てを理解したらしくサッと顔色を変えた。
気まずさに耐えかねてその場から逃げだそうとしたのだが、意に反して足が地面に吸いついてしまったかのように動かない。
「アイツのあの傷、ね。僕を助けようとして負った怪我なんだ」
そんな少女達に構わず、五条は更に言葉を繋ぐ。
余りに淡々としたその口調が却って恐ろしくて、少女達は身を寄せ合いながら息を呑んだ。
「幾ら僕が先輩だからってさ、放っておけば良かったんだ。なのにアイツ、わざわざ助けにきたんだよ。自分の方が大怪我してたのに」
そう、いっそ放っておいてくれれば良かったのだ、自分の事なんて。
なのに七海は足を止めなかった。
怪我や熱傷の所為できっと意識も朦朧としていた筈なのに、それでも五条を助ける為に死力を尽くして戦った。
「一年以上も意識不明のまま、何度も生死の境を彷徨ったクセに。それでやっと気が付いたと思ったら、開口一番僕の心配するんだよ? ね、アイツって大概イカれてるだろ?」
七海の意識が戻ったのは、偶々五条が見舞に来ていた日だった。
その頃には五条も七海の身体の清拭や床擦れ防止の為の体勢入れ替え等、一通り彼の身の回りの世話を手伝うようになっていて。
この日も最早日課にもなってしまったそれ等の世話を終え、さぁそろそろ帰ろうかと何気なく七海の顔を覗き込んだ五条は、思わず驚愕に目を見開いた。
ほんの僅かではあるが、七海の残された右の瞼がうっすらと持ち上がっていたのだ。
『な、七海……七海っ!』
真っ正面から覆い被さるように大声で呼びかける。
今こちらに引き戻さないと二度と七海は目覚めない、何故かそんな予感がしたからだ。
『頼む七海、起きてくれっ……!』
五条の必死の叫びが届いたのだろうか。
今にも閉ざされようとしている瞼の奥、ぼんやり濁ったオリーブ色に、ほんのりとだが光が灯った。
ゆらゆらと視点を彷徨わせたその碧が、やがて五条を捉えたのかひとところで視線を止める。
『七海、七海…! 俺が判るか……』
ゆっくりと、しかし声を張って呼びかければ、片側だけの瞳がひとつ瞬きをして。
そうして彼はゆるりと唇を吊り上げ、目を眇めた。
かさついて艶を失くした唇が少しずつ動いて、声にならぬ言葉を紡ぐ。
五条さん
貴方が無事で良かった
音はなかった。
だが彼は確かにそう言ったと、五条にはハッキリと判ったのだ。
そしてその時五条は、初めてこの後輩に恐怖した。
この男の自己犠牲とも呼ぶべき生への執着の希薄さが、心底恐ろしかった。
七海は別に自らの生を蔑ろにしている訳ではない、それは確かだ。
だがそれでも彼は戦いにおいてその身を、生命を投げ出す事に、きっと何の躊躇も抱かないのだ。
必要とあらば、それが最善であらば、七海はいとも簡単に自らを犠牲にするのだろう。
「(……させるかよ、そんな事)」
自分の立場を理解してくれるであろう、唯一の後輩。
絶対に自分を裏切らないだろう、義理堅い男。
「(死なせない……絶対に死なせるもんか)」
未だぼんやりとしている七海を見下ろしてナースコールを押しながら、五条は誓う。
その後彼は七海の介添えとしての立ち位置を確立し、そうして現在の同居に至る訳だ。
「自分の事はいつだって後回しでさ、他人の心配ばかりして。今だってそう、僕の所為であんな大怪我負ったのに、僕に文句のひとつも言いやしない。お人好し過ぎて泣けてくるよ、ホント……だからね、」
不意に五条の声のトーンがグッと低くなった。
同時に周りの温度までガクンと下がった気がして、少女達は全身を走る悍ましい程の寒気に唇を戦慄かせる。
「君達みたいにさ、アイツの事なーんにも知らない奴等にアイツを悪く言われるの、僕すっごくムカつくんだよねぇ。だからさぁ…君達の事、」
───殺しちゃっても、良いよね?
五条の艶やかな唇が、そう紡ごうと開きかけた時だ。
「何をしてるんですか、五条さん」
「「………っ」」
凍りついたように固まっていた少女達の、まるで鉛を落とし込まれたかの如く重苦しかった周囲の空気が、一瞬にして和らいで消えた。
弾かれたように顔を上げた少女達の眼前には、背後に立つ美形の男には劣るものの、やはり背の高い男が立っている。
その顔、特に左側には、大きな熱傷の痕が色濃く残されていた。
「あっれぇ、どうしたの七海。待ってて、って言ったじゃん」
「ずっと待ってましたよ。アナタこそ、何故こんなところで油を売っているんですか」
「えー、別に油売ってたワケじゃないって。このコ達がさぁ、なーんにも事情知らないクセにお前の傷痕見て悪く言うもんだから。ま、教育的指導ってヤツだよ」
「「っ、」」
本人を目の前にして暴露され、少女達は気まずさと恐怖に身を竦ませた。
まさに前門の虎、後門の狼である。
七海はそんな少女達を見下ろすと、やがて小さな溜息を落とした。
「それは仕方ないでしょう? こんな姿、驚かれて当然ですよ」
「はぁ だってお前、こんな何にも知らない奴等にとやかく言われる筋合いないだろ」
「何も知らない人にまで、いちいち事情を説明して回る必要性もないでしょうに……貴女方、」
「「っ、」」
先程まで自分達が無遠慮に論っていた本人から話しかけられ、少女達は揃ってビクリと肩を跳ね上げた。
きっと手酷く責められるのだろう、そう思うと今にも耳を塞いでしまいたくなる。
しかし、次に聞こえてきた言葉は予想外のものだった。
「この人が失礼を働いたようで済みません。それと、私の外見で貴女方を驚かせてしまい、申し訳ありませんでした」
「「………」」
「ちょ、七海! お前が謝る事なんて、」
思わず抗議する五条を隻眼で睨みつけ、七海は彼の二の腕を引っ掴むと改札に向かって歩き出す。
「七海、おい、」
「良いから、電話が終わったのなら行きますよ。それとも、私一人で行きましょうか?」
「! …あーハイハイ、判りましたよ」
「「…………」」
ゆっくりと遠ざかる男達の背中を少女達はただ呆然と見送っていたが、やがて顔を見合わせてひとつ頷くと、タッとその場から駆け出した。
「あのっ、待って下さい……!」
「「! ……?」」
はて、今のは自分達への呼び掛けなのだろうかと。
疑問符を浮かべながら振り返った五条と七海の眼前に、先程の少女達が並んで立っている。
まだ何かあるのかと五条の視線が自然と険しくなったのにも気づいているだろうに、少女達は怯む事なくまっすぐ七海を見上げ、そして。
「あのっ…さっきは本当にごめんなさい!」
「失礼な事を言って、済みませんでした…!」
「「……!」」
七海、そして五条が眼を瞪るその前で、少女達が勢い良く頭を下げた。
その様子に七海の目元が柔らかく細められる。
「……顔を上げてくれませんか」
「「…………」」
少女達は恐る恐るといった様子で顔を上げ、七海を見上げた。
彼女達の眼差しに先程までの不躾な色は浮かんでおらず、ただただ反省と罪悪感とが混じり合って揺れている。
それをまっすぐに見つめながら、七海は柔らかな声音で口を開いた。
「貴女方が謝る必要はありません。私は自分の外見が周囲にどんな影響を与えるか、全く意識していませんでしたから。それを教えてくれて感謝しています」
「そんなっ、」
「私達、」
「……でも、」
何か言いたげな少女達を制すると、七海は微笑む。
「謝ってくれて、ありがとうございます。嬉しいです、とても」
「「………!」」
柔らかく穏やかな微笑みを向けられた少女達の目が、驚いたように見開かれて。
直後、紅を散らしたかのようにボポポッと頬が赤く染まったのを、五条の目はハッキリと見てとった。
「それでは失礼します。五条さん、行きましょう」
「あー、そうね」
再び背を向けて歩きだした二人の背中に、僅かに弾んだような少女達の声がかかる。
「あ、ありがとうございましたっ!」
「気をつけて下さいね…!」
その言葉に足を止めた七海は身体半分振り返ると、小さく微笑んで会釈を返す。
「ありがとうございます。貴女方も、どうかお気をつけて」
そうして再び前を向いて歩きだした七海の傍らに、五条が続く。
その表情はどことなく面白くなさげで。
「…五条さん、どうしたんです。なんだか不満そうな顔ですね」
「いーや、別に何でも? たださ、お前ってホンット人たらしだよなぁと思っただけ」
「……はあ? 何の話ですか」
「判んなきゃいーよ、別に。それより早く行こうぜ」
「道草食っていたのは貴方でしょう……」
呆れ顔の七海の肩を軽く押して。
五条は未だ背後から飛んでくる少女達の熱視線から七海を守るように、その姿を遮るように、極めて自然体を装って彼の背後に回った。
どうにも面白くない、どこか不愉快にも感じる、そんな感情を無理矢理呑み込んで。
◆ ◆ ◆
最寄り駅から鈍行で七つ目の駅、そこで七海は電車を降りた。
ここまでの所要時間、凡そ二十分程。
平日の昼間とあって車内はそれなりに空いていたものの、五条がどんなに勧めても七海は座る事なく、出入口付近に立って流れる車窓を眺めていた。
五条もその傍らに立ち、密やかな声で七海と他愛ない話に興じていたのだが、その間にも好奇に満ちた無遠慮な視線が七海に向けられている事に遣り場のない苛立ちを感じていた。
七海の熱傷痕は特に左上半身側に大きく残っているが、右半身側とて決して無傷な訳ではない。
ただ、左半身側がより酷いという、単純な比較の話だ。
幸か不幸か五条は直接見る事はなかったが、七海は上半身丸ごと炎に包まれたのだという。
それなのに何故、動かせる程度には右半身が無事だったのか。
推測にしか過ぎないが、恐らく七海は少しでも長く戦い抜く為に、無意識に利き手側を呪力で強化したのではないだろうか。
その場には禪院真希、そして連れ去られてしまったが伏黒恵がいたという。
例え呪術師と言えど未成年の子供、ならば彼等は七海が守るべき尊い存在。
そして何をおいても救出しなければならない、呪術界最強の男。
彼等の存在が、あの時の七海を生に繋ぎ止めるきっと唯一だった。
そうでなければ今、七海はこうして五条の隣に立っていない。
これ等は全て家入の推論だが、五条も概ねその通りだろうと思っている。
渋谷でのあの事変で取り返しのつかぬ深傷を負い、呪術師を退いた今も尚、七海は五条にとって誇るべき後輩である。
その彼がこうして不躾かつ理不尽な視線に晒される事、それが五条にはどうしたって我慢ならない。
しかし七海は今後一生、他人からのこの無遠慮な視線に晒されて生きていくしかないのだ。
慣れなければいけない、気にしたらいけない、少なくとも七海本人は気にしている素振りを見せていないのに、それでも五条はどうしても堪えきれなかった。
「ねえ、あそこに立ってる人の顔……」
今またジロジロと七海を眺め回しながら、口さがない噂話を始めようとする中年の女二人連れ。
その二人を眼光鋭く睨みつければ、女達はビクッと肩を跳ねさせ慌てて目を逸らした。
釘を刺す意味を込め、しばらく剣呑とした空気を隠さずに女達を睨んでいると、やがて居た堪れなくなったのか二人連れはそそくさと電車を降りていった。
「五条さん? 何かありましたか?」
「んー、別にぃ?」
不思議そうに首を傾げた七海にそう答えつつも、五条は彼に気取られないように周囲に目を光らせ、七海へ向けられる悪気なき悪意を片っ端から睨み潰す。
特に悪質そうな視線の主にはほんの少しだけ呪いを飛ばしてやったが、それを七海に咎められる事はない。
何故なら七海はもう、呪いを祓う事はおろか見る事すらできないのだから。
だから至近距離で練り上げられた五条の呪力にも気づけないし、それを呪いとして非術師に向けて飛ばした事だって判らない。
今の七海には、残された右眼で実際に見える世界だけが全て。
「……寂しいよ、なんかさ」
「……? 何か言いましたか?」
「いや……何でもない」
それきり口を閉ざした五条に、七海もそれ以上追及する事はなく。
それから目的の駅で降りるまで、二人の間には沈黙だけが横たわっていた。
ホームに降り立った七海は、慣れた足取りで改札を出て歩き出した。
その様子に、この駅で降りるのは初めてではないのだなと五条は推察する。
歩行速度はゆっくりながら、それでも確かな足取りに一切の迷いがないのがその証拠だ。
道中、一言二言と会話を交わしながら歩いていると、不意に七海の足がピタリと止まる。
つられて立ち止まった五条が何気なく周囲に目を向ければ、そこは。
「……墓地? ここがお前の目的地なの?」
「ええ。こっちに裏門があるので、そちらから入りましょう」
寺と墓地との入り口を兼ねているだろう門扉を避け、七海は少し離れた裏門から直接墓地へと入った。
それなりに広い墓所内に人影はなく、二人が砂利を踏みしめる音だけがやけに大きく周囲に響いて聞こえる。
やがてひとつの墓石の前で足を止めた七海に倣って五条もそちらへ目を向け、そこに刻まれていた文字に大きく目を見開いた。
「! ここって……灰原の、墓……?」
「ええ」
「え、なんで……だってアイツの墓、高専にあるじゃん」
「あそこに納められているのは、彼の遺髪のほんの一部だけです。ご遺体は家族の元へお返ししました」
「……そうだったのか。知らなかった」
「あの時の貴方、私達の任務を引き継いだり他の任務に向かったり、何かと多忙でしたからね。無理もないですよ」
淡々とそう述べて、七海は墓石の前にゆっくりと片膝をつくとどこか懐かしそうな、それでいて申し訳無さそうな声で語り掛けた。
「久しぶりですね、灰原。しばらく来られなくて済みませんでした、色々と…本当に色々あって」
返答なぞある訳もないが、七海は構わず話し続ける。
「今日は五条さんも一緒なんですよ。もっと色々話してみたい、と言っていたでしょう? 良かったですね」
「……何それ、灰原そんな事言ってたの?」
思わず疑り深そうな声音になってしまったが、無理もない。
何故なら五条の記憶に住む灰原は、いつだって自分よりも夏油に懐いていたのだから。
しかし七海は柔らかく笑うと、小さく首を横に振って見せる。
「任務の組み合わせや、勿論性格の相性もあったでしょうけど。それでも彼は、間違いなく貴方の事も尊敬して慕っていましたよ。もっと貴方から色々教わりたい、話をしたいと、いつも言っていましたから」
「……そう、だったんだ」
言われてみれば学生時代、灰原とゆっくり話をした記憶はほとんど無くて。
かつての灰原の笑顔を思い出してみても、それはいつだって夏油や七海と共にある時のものばかり。
「……もっと、ちゃんと話をしておくんだったな」
零れ落ちた言葉に満ちるのは、確かな後悔の音。
墓石に向かって手を合わせていた七海はそれを耳敏く拾い上げると、やはりゆっくりと立ち上がった。
「……その言葉、灰原に会ったら伝えておきますね。きっと喜びますよ、彼も」
「うん、そうかな……って、何だよ『会ったら』、って。お前、降霊術でも使う気?」
妙な言い回しをする七海に問い訊ねれば、返ってきたのは。
「まさか。ただ、私もそう永くはないでしょうから。その時に彼に伝えておくと、そういう意味ですよ」
「……」
その瞬間、五条の全身が頭から冷水を被ったかのようにスウッと冷えた。
しかしそんな爆弾宣言を落とした張本人は、ケロリとした顔で「五条さん、帰りましょう」と促してくる。
気付けば周囲はすっかり夕闇に覆われていて、墓地と言う場所柄も相俟ってどこか不気味な様相を呈していた。
「……あんまりバカな事、言うなよな」
絞り出すかのように夕景の中へと落とされた言葉は、生憎七海の耳には届かなかった。
黄昏時、逢魔時。
そんなもの五条には何の脅威にならないし、怖れる事だってない。
それでも、ふらつきながら少し前を歩く後輩が。
もう人ならざる者共を見る事が叶わなくなってしまった男が、そんな奴等に連れていかれてしまわぬように。
五条はグッと拳を握り締めると、足早に彼の隣に並ぶ。
その心の裡に秘めた決意を決して気取られぬよう、口許に軽薄にも見える笑みを貼り付けて。
「七海ぃ、お前足元ふらついてるじゃん。身体、大分キツいんだろ?」
「……大丈夫、です」
「はい、嘘ー。ちょーっと失礼するよー?」
嫌そうに顔を顰める七海を無視し、その額に五条は己の掌をそっと押し当てる。
そこは案の定、かなりの熱を持っていて。
「ほーら、やっぱ熱あんじゃん! だから言っただろ、いきなりの遠出は無茶だって!」
「……聞いて、ません」
「言ったよ、言いました! ……全く、世話が焼けるなぁ」
深々と溜息を吐き出して、五条はおもむろに七海を抱き上げた。
所謂お姫様抱っこである。
「っ、 ちょ、五条さん、何をするんです」
「何って、今日はもう強制送還…ほら暴れんなって、危ないから。このまま家まで跳ぶからね」
「いや、大丈夫ですから降ろして下さい!」
「はい却下。じゃあ行くよー」
「ちょ、待って……!」
拒否の言葉も虚しく、七海は五条の術式によって強制的に自宅へと連れ帰られた。
その行動に滲む五条の本音に気付く事なく。
そうして帰宅するなり疲労と発熱で倒れた七海は一週間程寝込む事になり、五条の過保護をより一層拗らせてしまう結果となったのだった。