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    love_murasakixx

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    成立済五七。
    七海が幼少期の五条に会う話で、少し映画の内容に触れる予定。
    とりあえず書けたところまでですが、まだ続きます→→完結しました(2022.7.3)
    先にお知らせしておきますが、死ネタではありません。

    2022年6月19日:続きを加筆
    2022年7月3日:ラストまで加筆

    #五七
    Gonana

    時を紡ぎ、心寄せる不意に意識が覚醒する。
    辺りを見回すが全く覚えのない景色が広がるばかりで、現状を把握する術にはならなかった。


    (……此処は、どこなのだろうか)


    首を傾げつつも、何気なく自らの手を見て───ぼんやりと透けている事に気づき、思わず眼を瞪った。
    そして思い出す、意識が覚醒する直前、自らの身に起きた事を。


    (そうだ、私は……)


    ◆ ◆


    それは、とある任務の最中の出来事だった。
    この日の祓除対象は特級相当の呪霊で、幾ら一級の七海と言えども到底敵う相手ではなく、そもそもが抜擢される事だってない……通常ならば。

    本来は特級呪術師である五条が別地での任務を終えた後、この呪霊に対応する予定であった。
    しかし呪霊が想定外の動きを見せ始め、とうとう非術師に被害が及び始める。
    そこで呪霊の足止めとして選ばれた術師が七海であった。

    七海は期待以上の働きをみせた。
    お陰で非術師を襲い喰らわんと食指を動かしていた特級呪霊の標的は七海へと変わり、彼が巧みに呪霊の気を引いている間に逃げ遅れた非術師達の避難も無事に終えた。
    あとは出来るだけ戦闘を引き延ばし、五条の到着を待てば良いだけ。

    三十分、一時間と経過し、やがて戦闘は軽く二時間を超えた。
    一瞬たりとも気の抜けない格上の呪霊相手の戦闘は、確実に七海の体力と精神力を削る。
    最初のうちこそ躱していた呪霊の攻撃も、今では喰らう回数の方が圧倒的に多い。
    最早七海は満身創痍であった。

    それから更に数十分が過ぎ、いよいよ七海の体力も尽きかけようとした時。
    帳を突き破って何者かが侵入した気配と同時、聞き慣れ過ぎた叫び声が七海の耳に届いた。
    それは確かに尊敬は出来ずとも信用し信頼を寄せる特級術師の───己が愛して止まぬ恋人の声。

    視界の端に、此方に駆け寄りながら攻撃の構えをとる五条の姿が映り込む。
    もう大丈夫だと、ほんの僅か気が抜けた瞬間───安心感からか右足からガクリと力が抜け、七海の身体が大きく右側に傾いだ。

    倒れ込む視界に映る五条が、焦ったように構えを解くのが見えた。
    それはそうだ、だってこのまま術式を放ってしまったら七海まで巻き添えにしてしまう。
    だから本来ならば、七海は五条の攻撃の邪魔にならぬよう、その場から大きく飛び退かなければならなかったのに。

    最後の最後でとんでもない大失態だ、いっそ笑える程の。
    そんなにも彼を───五条を頼りにしていたなんて、彼に知られたら間違いなく調子に乗らせてしまうだろう、だからこれは絶対に秘密にしなければ。
    場違いにもそんな事を考えながら、薄く笑みを浮かべた七海が体勢を立て直そうとする、その隙を───当然の如く、特級呪霊が見逃してくれる筈もなく。


    脇腹に一際鋭い激痛が走り───七海の意識はそこでブツリと途切れる。
    遠くで自分の名を呼ぶ、五条の声が聞こえた気がした。


    ◆ ◆


    それからの記憶がない、という事はつまり……


    『……私は、死んだのか』


    そう呟く声すら、どこかぼんやりと濁って聞こえる。
    もう一度、半透明の己の手をまじまじと見つめるが、死んだという実感なぞまるで沸いてこない。
    さてどうしたものかと、思わず溜息を零した。

    七海がその場で頭を悩ませている間、何人かの見知らぬ人間がすぐ側を通り過ぎていった。
    しかし誰一人として七海に気づく様子を見せなかった、それどころかぶつかったと思ったら身体を通り抜けていく者すらいる始末。
    それ等が示す事はつまり、やはり自分はもうこの世の者ではないのだろうという結論でしかなく。


    『…随分と呆気ないな、終わりなんてものは』


    知らず空を仰ぎ、吐き捨てるように呟いた。
    雲ひとつない抜けるような晴天はどこか【彼】を彷彿とさせ、七海の胸をチクリチクリと刺して痛みをもたらす。


    『……五条さん、』


    つい落とした名前に、思わず顔を歪ませた時だった。



    「おい! だれだ、お前」

    『っ、』


    高く幼い、それでいて鋭い声に怒鳴りつけられ、七海は反射的に振り返った。
    下げた視線の先には着物を雑に着崩した少年がいて、挑むように七海を睨み上げている。
    ふわふわとした白銀の髪、人形のように大きく美しい蒼い瞳を持つその少年は、七海にとある人物を強烈に思い出させる外見をしていて。
    思わず七海はその名を呟いていた。


    『…五条、さん……?』

    「…なんでおれの名前知ってんだよ。つーかココ、おれんだし。みんなゴジョーだし」

    『ああ、まあ……それは、そうですが』


    つい零してしまった名に、少年は実に横柄な口振りで反応を返してきた。
    実にこまっしゃくれたその態度に、七海はこの少年は間違いなく五条本人なのだと確信する。
    どういう理論かはさっぱり判らないが、七海が彼を見間違う事なぞ有り得ないのだから。


    「で、お前は何なの? じゅれーか?」

    『呪霊、ですか……そうかも知れません』

    「……ふーん」


    死んだ拍子に意識が過去へ跳んできた、なんて誰が信じるだろう。
    そもそもそれだって合っているかも判らないのに。
    だから七海は曖昧に頷くに留めておいた。
    相手は(まず間違いなく)五条とは言え子供なのだ、余り複雑な話をするのもどうかと思ったので。

    しかし彼は、子供であってもやはり五条らしかった。
    大きな青い瞳をじっとりと細めた少年は、ふくふくした頬をさも不満そうに膨らませて七海を無遠慮に眺め回す。


    「なー、お前さ、ホントにじゅれー? なんかちがう気がすんだけど」

    『……どうなんでしょうか。良く判らないんてすよ、私にも』

    「そうなんだ。アレか、もしかしてゆーれー、ってヤツ? お前しんだの?」

    『…ええ、恐らくは』

    「…………」


    自分で聞いておきながら黙り込んでしまった彼に、七海は思わず手を伸ばしてその柔らかそうな白銀の髪を撫でてみる…ちゃんと触れられた、これまた不思議な事に。
    弾かれたように顔を上げた少年は、パチパチと数度瞬きをした後……ニッカリと眩しい笑顔を見せた。


    「へへっ、お前、なでるのじょーずじゃん」

    『……それは光栄です』

    「そーかそーか! よし、もっとなでて良いぞ! おれがゆるす!」

    『図々しいですね、アナタ』


    つい大人の五条に対する態度と同じように返答してしまい、七海はハッとして子供の五条を見下ろす。
    案の定、彼はきゅっと眉を寄せて寂しげな眼差しで七海を見上げていた。


    「……ごめん。イヤなら止めていーよ」

    『いえ、嫌ではありませんよ。その、アナタが私の知り合いにとても良く似ているもので、つい……失礼な言い方をして済みませんでした』

    「……イヤじゃない?」

    『ええ、全然。もっと撫でても良いですか?』

    「…しょーがねーな。ゆるしてやる!」

    『ふふ、ありがとうございます』


    あどけなく笑う少年に心を揺さぶられ、七海もつい笑みを浮かべながら思った通りの柔らかい髪を撫でてやる。
    するとその手を不意に掴まれ、向こうからも触れる事が出来るのかと何とも不思議な心持ちになった。


    「なあお前、これからどーすんの? ジョーブツ、すんの?」

    『…そうですね。出来たらその方が良いのでしょうが……』


    己が本当に死んだのかどうかすら判らないが、少なくともここに…恐らくは過去に長居をするべきではない、それだけは判る。
    過去とはいえ最期に五条に会えたのは僥倖だった、その面影を胸に抱いて逝けるのならば願ってもない事だ。
    そう思って頷いたのだが、何故か少年は不服そうに唇を尖らせた。


    「えーっ、そんなすぐにジョーブツしなくてもいーじゃん。お前、おれんこいよ。おれがメンドーみてやるからさ!」

    『……そんな簡単に決めて良い話ではないでしょうに』

    「へーきへーき! なんたっておれ、ゴジョーサトルだから! みんなおれの言うことはだいたい聞いてくれるし、ダイジョーブ!」

    『…………』


    ああ、やはりこの少年は五条悟その人なのか。
    そう言えば以前、彼の幼少期の時分の話を聞かされた事があったが、確かにその際『望めば大抵の事は叶った』と五条は言っていた。

    無下限の術式持ち、しかも六眼を所有する、五条家の大事な跡取り息子である五条悟。
    それはそれは甘やかされて育てられたのだろうとその時はそう思ったものだが、果たして本当にそうなのだろうか。

    だってそれなら、何故目の前の五条少年の目はこんなにも寂しそうなのか。
    見ず知らず、しかも得体の知れない存在の自分に撫でられただけで、どうしてこんなにも嬉しそうに笑うのか。

    そうして七海は気付く。
    甘やかされる事、望みを叶えて貰える事が、必ずしも幸福に繋がる訳ではないという事実に。
    自分とてこれまで散々それを痛感してきたというのに、今の今まですっかり忘れていた───自分に抱えきれない程の幸福を与えてくれる【彼】……つまりは五条のお陰で。



    「……なあ、ダメか? お前、そんなにジョーブツしたい?」

    『っ、あ、』


    袖を掴まれて注意を引かれ、七海はハッと我に返って五条少年を見遣った。
    まるで縋るように甘えるように見上げてくる彼を見ていると、自然と口許に笑みが浮かんでくる。


    『まあ、成仏出来るならした方が良いのでしょうが……生憎、どうしたら良いのか判らなくて』

    「だったら!」


    蒼の瞳をキラキラと輝かせ、五条少年が勢い込んで言う。


    「やっぱりおれんトコ来いよ! ダイジにするから、な」

    『…アナタ、私を犬や猫と間違えてやしませんか』

    「ユーレイだって似たようなもんだろ?」

    『全然違うでしょう…はあ、』


    実に安易な考えをさも名案とばかりに告げる五条少年。
    その子供特有のお気楽さに、知らず七海の肩の力が抜けていく。


    『……まあ、そうですね。成仏する方法が判らない以上、しばらくはアナタの傍に居させてもらえると助かります』

    「! マジで」

    『ええ。構いませんか?』

    「オッケーオッケー、まかせとけ! よし、そうと決まったらお前の名前おしえろ! あ、おれはゴジョーサトルな!」

    『宜しくお願いします、五条さん。私は七海と言います』


    本心から嬉しそうに目を輝かせる五条少年が余りにも微笑ましかったので、だからつい、七海も当たり前のように名乗ってしまったのだが。


    「え? ゴメン、名前もっかい言って?」

    『……七海、です』

    「あっれぇ、おっかしいなぁ。なんかさ、お前のハナシはちゃんと聞こえるのに、名前だけよく聞きとれねーの」

    『…………』


    不思議そうに首を捻る五条少年を見下ろしつつ、七海は状況把握の為に思考を巡らせた。

    確定した訳ではないが、恐らくここは過去の世界。
    そして遠い未来、成長した五条と自分は高専で初めて出会うのだ。
    五条がいつまでこの頃の事を覚えているのかまでは判らないが、しかし。
    いつか必ず出会う自分の情報を今の幼い彼に与える事は、決して得策ではないように思う。

    だったら、余計な事は伝えないに限るだろう。


    『……聞き取れないのなら、アナタの好きなように呼んでもらって構いませんよ』

    「イヤ、まった! もっかい、もっかい名前言え! おれ、お前の口のうごきで何言ってるのかわかるから! ホラなんだっけ、フクワジュツ?」

    『それを言うなら読唇術でしょう……私の名前は七海、です』


    どうしてもゴネる五条少年に押し負けて、七海は乞われるまま、もう一度己の名を一音一音ハッキリと口にする。
    その唇の動きを凝視していた五条少年は、同じように自分の口をパクパクと動かしてはしばらく必死に考え込んでいた。
    やがて何か閃いたのかパッと目を輝かせながら顔を上げ、そして自信満々にこう言い放った。


    「わかった! お前の名前、カカシだな なっ、そうだろ」

    『…………は?』


    全くの斜め上からそう断言され、思わず七海は気の抜けた素の声を上げてしまった。
    しかしその誤りを訂正しようにも、五条少年のキラキラした期待に満ちた目は余りにも眩し過ぎて。


    「なあなあ、合ってんだろ? なあってば!」

    『ふ、ふふっ……ええ、そうですね。合っていますよ』

    「マジか! やりぃ!」

    『おや、私が何を言っていたのか、ちゃんと判っていたのでは?』

    「えっ、 あ、あったりまえだろ! へへ、おれって天才!」

    『…………』


    無邪気に喜ぶ五条少年のあどけない笑顔に、七海も僅かに口許を綻ばせた。
    どうせ本名は明かさない方が良かったのだ、だったら七海もカカシもたいして変わらないだろう。
    どうせどちらも母音は同じなのだし。


    「おいカカシ、どうしたんだよ? おれ、へやにもどるから、いっしょにいこうぜ」

    『……ええ、判りました。しばらくお世話になります、五条さん』


    さっさと歩き出した五条少年の後に続いてそう声を掛ければ、彼は頭の後ろで両手を組みながら悪戯っぽくニッと笑った。


    「おれのことはサトルでいーよ。よろしくな、カカシ」


    ◆ ◆ ◆


    五条少年に連れられて足を踏み入れた彼のへや
    そこは子供一人の部屋とは思えぬ程に広く、そして拍子抜けするくらい物の少ない和室だった。
    この年頃の子供が好みそうな玩具や本は何ひとつ無く、代わりにあるのは厳めしい古文書の類いや堅苦しい作法の本、そして七海には用途の判らない呪具の数々。
    それ等は目の前であどけなく笑う五条少年と比較すると、余りにちぐはぐな印象を七海に与える。

    そして、そんな子供らしからぬ部屋の中で、一際異彩を放つモノが座卓の上に鎮座していた。


    『……あれは、』

    「ああ、アレ? ランドセルだよ。え、もしかしてカカシ、ランドセル知らない? そんなイマドキっぽいカッコしてるのに、カカシってもしかしてめっちゃムカシの人だったりする?」

    『いえ、ランドセルくらい知ってますよ。そうではなく、アレはアナタのランドセルなんですか?』

    「そりゃそうだよ。ココ、おれのへやだし」

    『……そう、ですか』


    当然のように頷いた五条少年から視線を外し、今一度ランドセルへと目を向ける。

    真新しい、ピカピカの黒いランドセル。
    五条少年はそれを確かに自分のモノだとそう言ったが、しかし七海は五条が小中学校へは行っていなかったという事を、他ならぬ本人から聞いていた。
    不特定多数の非術師が出入り可能な学校という開かれた場所では、まだ幼い彼を暗殺等の危険から護るのが困難だった為だと、特段珍しくもない事のように五条はそう話していたのだが。


    『(私がここに来た事で、過去が変わってしまったのか…? イヤ、ここが私が生きていたあの世界の過去だとは、まだ決まっていない……)』


    かつて五条本人から聞いた話と現在の状況における微妙な差異。
    この据わりが悪くなる違和感を放置して良いものか悩むが、だからと言って今の七海にはどうする事も出来はしない。
    取り敢えず不用意な発言だけはしないようにと、七海は肝に深く銘じた。

    と、ここで七海は先程から気になっていた疑問を口にした。


    『サトルさん。アナタは今、何年生なんですか?』

    「うん? まだだよ、四月から一年生になるんだ」

    『四月から……』


    呟いて部屋を眺めれば、壁に掛けられていたカレンダーに気付いた。
    成程、今は三月なのかと心に刻む。


    「カッコイイだろ、このランドセル! ホントはもっといろんな色があったらしいんだけど、おれ、かうのがおそかったから黒しかのこってなかったんだって」

    『買うのが遅かった? 準備に時間がかかったんですか?』

    「ううん。ホントはおれ、このあいだまで小学校ってなんなのか知らなかったんだよ。だれもおしえてくれなかったから」

    『…………』


    ああ、やはり。
    元々彼は学校に通う予定ではなかったのだ。


    「でもな、おれのキョーイクガカリ?ってやつが、コドモは学校にいくものだっておしえてくれて。ソイツのはなしきいてたら、おれも学校ってとこにいきたくなって、そんでめっちゃたのみまくったんだ」

    『……それで、来月から通うんですね?』

    「うん! なあ、学校ってどんなとこかなぁ? なんかさ、トモダチってのがたくさんできるんだって! すっげーたのしみ!」

    『それならその教育係の方に、もっと沢山教えてもらえばどうです?』


    純粋に小学校に通う事を楽しみにしている様子の五条少年に何気なくそう言えば、彼はちょっと小首を傾げながら答えてくれる。


    「それがさ、ソイツこの前くらいから来なくなっちゃったんだ。他のヤツに聞いたら、ビョーキになってやめちゃったんだって。おれの知らないこと、いーっぱいおしえてくれてオモシレーヤツだったのに」

    『…………』


    病気で退職。
    特段珍しくもない話だが、何故か引っ掛かる。
    しかし七海の気掛かりも露知らず、当の五条少年は無邪気に笑ってランドセルを背負ってみせた。


    「な、どう? にあう?」

    『ええ、とても良く似合ってますよ。楽しみですね、小学校』

    「うん!」


    ランドセルを背負ったまま、心底楽しげな笑顔で五条少年は部屋をパタパタと走り回る。
    と、部屋の障子の外から、遠慮がちな女の声が聞こえてきた。


    「…悟さま。御当主様がお呼びでございますが」

    「! わかった、今いく…カカシ、おれちょっと行ってくるからさ、ココでまってて」

    『はい、判りました』


    七海が頷いたのを見届け、五条少年はランドセルを下ろして畳へ転がすと、やや駆け足で部屋を出ていった。
    入れ替わりに、恐らくは五条家の女中と思われる女二人が入ってきたが、やはり七海に気付く様子はない。
    二人は部屋をぐるりと見回したあと、視線を交わして怪訝そうな表情を浮かべた。


    「悟さま、誰かと話していたように思ったんだけど……誰もいないわよね?」

    「え、じゃあさっきまでのは独り言なの? それって放っておいて大丈夫?」


    それを聞いていた七海の眉間に皺が寄る。
    そうか、この状況は端から見れば、五条少年が独り言を言っているようにしか見えないのか。
    彼におかしな風評被害がついて回る前に、次からは周囲に重々気を配らなければ。

    五条少年が戻ってきたら彼にも注意しておこう、そう決めた七海の傍らで女中達のお喋りは続く。


    「もう、悟さまってばランドセルを放り出したまま!」

    「勝手に触ると怒られるから、そのままにしておきましょ。それにしても良い迷惑よねえ、小学校に通うだなんて」

    「ホントホント、私達の仕事が増えるばかりだし。そう言えば、その元凶の教育係の術師はどうしちゃったんだっけ?」

    「ああ、外部からきてた人だったわね。あの人ならもうとっくに『処分』されたそうよ」

    「あー…ま、仕方ないわよね、悟さまが本来知らなくて良い事まで教えて、小学校入学なんて余計な手間まで増やしてくれちゃったんだし」

    「そうそう、御当主様もすごくお怒りで、どうも生きたまま実験用の呪霊の餌にしちゃったらしいわよ」

    「うっわ、可哀想」

    『…………』


    まるで良くある事と言わんばかりに軽い調子で話す二人とは対照的に、七海の表情には深い陰が落ちていた。

    先程五条少年はその教育係の事をこう言っていた、『知らない事をいっぱい教えてくれた面白いヤツ』と。
    あの年頃の子供の好奇心や知的欲求を満たし、教え導いていた筈の人間。
    五条少年が受けるべき教育があるという事を正直に伝えただけであろうその人物を、五条家は『余計な真似をした』という事実だけで安易に亡き者としてしまったのだ。
    五条少年には何ひとつ真実を伝えないまま。

    大人達の欲と保身にまみれた世界の中で、五条はきっとこれまで生きてきたのだろう。
    こんな何もない、まるで牢獄のような部屋を与えられ、大人に都合の良いだけの呪術の本や呪具を玩具代わりに押し付けられて。
    産まれ落ちたその瞬間から生命を狙われていたという世界のパワーバランスを容易く崩す最強の存在は、何不自由ない世界で誰よりも不自由に生きる事を、本人の預かり知らぬところでずっと余儀なくされてきたのだ。


    『……それなら、私が』


    現在自分がどのような状況におかれているのか、今も理解は出来ていない。
    仮にここが過去だとしたら、改変してしまうような軽はずみな行動は慎むべきだ。

    それでも……それでも七海は五条の為、某かの力になりたかった。
    否、正しくは───そうする事で己の贖罪をずっと願っていた、とも言える。
    それは五条を想えば想う程に七海の心を雁字搦めにして離さない、まさに呪いと呼ぶに相応しい罪過であった。


    七海が五条と交際を始めたのは、彼が呪術界へ復帰してすぐの頃。
    復帰の為に頼ったかつての先輩である五条からずっと昔から好きだったのだと好意を告げられ、七海は不思議な程すんなりとその想いを受け入れた。
    戸惑いも躊躇いもなく、まるでそうする事が当たり前のように。
    気付けば七海もまた、五条へ厚い信頼と深い愛情を抱くようになり、二人の交際は頗る順調であった。

    しかし七海は心の奥底に、五条に対する罪悪感と負い目をずっと抱えていた。
    学生であった過去。
    力足りずに同級生を死なせてしまった事に加え、幼稚な逆恨みとも呼べる刺々しい感情を五条に抱き、そして身勝手に呪術界を去った七海。
    そしてこれまた身勝手な都合で復帰したいと申し出た七海を、五条は責めるどころか理由を問う事もなく、ただ純粋に喜んでくれたのだ。
    『本当は呪いも何も関係ない世界で幸せになって欲しかった』、本音を滲ませた声でそう言って笑いながら。

    五条は何ひとつ七海を責めたりしなかった。
    ただいつも対等に自分の隣に立ち、支え、まっすぐに愛情を向けてくれる。
    そんな彼に相応しい男になりたい、術師としては無理でもせめて一人の人間として対等でありたい。
    それは七海の願望であり、目標でもあった。

    しかし一度逃げ出した自分に、果たしてそんな資格があるのだろうか。
    何をやっても所詮は中途半端でしかない自分なぞ、本当に彼の傍にいて良いのだろうか。
    五条と何気なく戯れる日々の中、七海は幸せを感じながらも、常にそんな思いを心に抱え込んでいた。


    今、自分がいるこの世界の五条少年が、果たして自分を愛してくれたあの五条と同一人物なのかは判らないけれど。
    それでも───先程自分に向けてくれた無邪気な笑顔を曇らせたくはない。
    ほんの少しでも構わない、彼を年相応の子供として甘やかしてやりたい。
    所詮自己満足に過ぎないと理解していても、今、それが出来るのは自分だけなのだから。



    「……い、おーい、カカシってば! どーしたんだよ、ボーッとしちゃって」

    『っ、』


    気付けばそれなりの時間が過ぎていたようで、部屋には女中達の姿は既になく、いつの間にか戻ってきていた五条少年が心配そうに七海を見上げていた。


    「なあ、ダイジョーブ? ハラでもいたい?」

    『いえ、大丈夫ですよ。御当主のお話は終わったんですか?』

    「あーうん、テキトーにへんじしておいた。とーさんのはなし、なっげーんだもん」


    頬を膨らませて不満げに文句を零した五条少年だが、そんな事よりと顔を上げて目を輝かせた。


    「なあカカシ、何かしてあそぼーぜ! 何する?」

    『遊ぶ、と言われても…私はそういう事は余り詳しくなくて、』

    「だったらおれがおしえてやるからさ! な、いーだろ?」


    期待と、そして不安が入り混じった瞳が、ひたりと七海を捉える。
    その一途な純粋さが、七海にはとても尊く眩しいものに見えて。


    『……まずは、ランドセルを片付けましょうか。アナタと遊ぶのはそれからですよ、サトルさん』

    「! うんっ!」


    ポンと頭に手を乗せて、柔らかい髪を優しく掻き撫ぜてやれば。
    五条少年は大きな目を見開いてから、弾けるように可愛らしく笑った。

    ◆ ◆ ◆

    「カカシ、いってきまーす!」

    『はい、行ってらっしゃい。先生の話はちゃんと聞かないとダメですよ』

    「わかってるー!」


    じゃーなー!と元気良く手を振って、五条少年はパタパタと部屋を出ていった。
    それを見送る七海は、今の大声でのやり取りが誰かに聞かれやしなかっただろうかとヒヤヒヤしていたが、どうやらそれは杞憂だったらしい。
    遠くから聞こえる家人の行ってらっしゃいませの声を聞きながら、七海は一人感傷めいた溜息を吐いた。

    七海が過去ここに来て、早くも一月程が経過していた。
    その僅かな月日の合間ですら五条少年を取り巻く環境は日々目まぐるしく変容しており、そこに透けて見える五条家おとなの汚濁まみれの欲望や執着は、それ等の類いを見慣れている筈の七海をもってして尚、心底吐気を催すようなものばかり。


    『(あの人は、ずっとこんな息苦しい環境の中で生きてきたのか)』


    五条は過去を多く語らない。
    問えば答えてくれるものの、自ら好んで語る事はしない。
    こんな窮屈な環境だったのならばそれも無理からぬ事、きっと楽しい思い出なぞロクに無かったに違いないのだから。


    『……確か、今日から給食が始まるんだったな』


    カレンダーを眺め、五条少年の今日の予定を反芻する。

    此度、五条少年は念願の小学校へ入学した。
    無事に入学式を終えて帰宅したのがちょうど一週間前、その際の彼は随分としょんぼりした様子だった。
    話を聞けば、同じクラスになった子供達の誰とも、一言も話す事が出来なかったのだと言う。

    それもその筈、周囲の子供達は幼稚園や保育園等を通じて既にある程度のコミュニティを築いている者が多く、新顔の子供が途中から参加するには少々勇気が必要だ。
    加えて五条少年はこれまで同年代の子供達と接する機会等ほぼ皆無に等しかった為、尚更接し方が判らないのだろう。
    更に言えば彼は幼いながら非常に美しい容姿をしており、それが却ってクラスメート達から敬遠されてしまう要因のひとつに挙げられる事は容易に想像出来た。

    おれ、トモダチできないのかなぁ

    悲しげにそう零した少年の頭を優しく撫ぜて、七海は穏やかな口調で告げる。


    『大丈夫、サトルさんならすぐに皆と仲良くなれますよ。大切なのは、相手の気持ちを思い遣る心です』


    泣きそうな顔で見上げてくる五条少年にそう言い聞かせつつも、七海は自分にそれを言う資格等無いなと心の裡で自嘲した。

    だって自分は逃げたじゃないか。
    孤独を深めていく五条を横目に、自分だけさっさと逃げ出したじゃないか。
    独り孤高に佇む五条かれの心に寄り添おうともせずに。
    そんな自分が何を偉そうに、説得力の欠片も見当たらない言葉を吐き散らかしているのだろう。

    それでも五条少年は、未だ幼いながらも少なからず感じるモノがあったようだ。
    コクリと小さく頷くと、明日は頑張って話しかけてみる!と意気込んでみせた。


    五条少年の勇気が身を結んだのか、次の日帰宅した彼の表情は実に晴れやかだった。
    嬉しくて堪らないといった様子で話しだした五条少年によると、今日、数人のクラスメートと話をする事が出来たらしい。
    更には中休み、その子達と一緒に遊んだという。


    『それは良かったですね。楽しかったですか?』

    「うん! おれの知らねーあそびばっかだったけど、みんな色々おしえてくれた!」


    明日も遊ぶ約束したんだ!と話す五条少年の頬は興奮の為か紅潮し、ぱっちりとした大きな瞳は喜びと期待でキラキラと輝いている。
    それはまさしく、正しい子供のあるべき姿だと七海には思えた。


    「なあカカシ、学校ってたのしいんだな! おれ、学校だいすき!」

    『そうですね。これからもっともっと楽しい行事が沢山ありますよ。遠足とか、運動会とか』

    「うん! あ、あとね、おれ、早くキュウショク食べてみたい! カカシ、キュウショクっておいしい?」

    『ええ。でも好き嫌いをせずに、ちゃんと食べるんですよ?』

    「うっ…が、がんばる……」


    途端に渋い顔をしたいとけない子供に、七海は微笑ましげに口角を上げた。
    それが、先週末の話だ。


    入学して一週間が経ち、今日から給食が始まる。
    五条少年は給食を大層心待ちにしていたようで、持参する給食袋やナフキンも、自ら選んだ布地で作ってもらったモノを楽しそうに準備していた。
    心配していた交友関係も、どうやら少しずつ友達と呼べるような相手が出来てきたらしく、今日は誰々と何をした、明日は誰々と何をする、そんな可愛らしい報告を七海は本人から受けるようになっていた。

    間違いなく、五条少年は現在いまを楽しんでいる。
    子供である事を謳歌し、子供の時でしか体験し得ない貴重な時間ときをその小さな身体いっぱいで受け止め、学び、大切に過ごしている。

    もしこのまま順調に月日を重ねていけたなら───小中学校へは通わなかったと話していたあの五条の過去は、この【現在】へと置き代わってしまうのだろうか。
    仮にそうだとしたならば、きっと寂しい少年時代を過ごしてきたであろう五条の過去に、少しでも楽しい思い出を作ってやれるのかも知れない。

    もしかしたら自分はその為に過去ここに来たのではないか、と。
    ふとそんな事を考えて、七海は苦笑しながら首を横に振る。
    理由はどうあれ、今はただ五条少年の笑顔を守りたい───誰よりも傍で。


    『……今日は、どんな話を聞かせてもらえるのか』


    きっと輝くばかりの笑顔で帰宅するだろう五条少年を思い、七海は窓の外を見遣る。
    薄曇の空の下、散り始めた桜が風に揺られ一片の花弁を地へ落としていた。


    ◆ ◆ ◆


    それから数時間が経過した頃。
    何やら母屋の方が慌ただしい事に気付き、七海は五条少年の部屋をスルリと抜け出て騒がしさの元へと向かう。
    そこでは五条家の家人をはじめ要職に就いているらしき者達が、皆一様に険しい顔をして走り回っていた。


    「帳は下ろしたのか 取り敢えず、今は誰も学校に立ち入らせるなよ!」

    「誰か狗巻家に連絡を取れ! 待機させていた他の呪言師達にも声を掛けて、早急に現場へ向かわせろ!」

    「病院と警察への連絡は済んだのか 五条の名を出して構わん、呉々も事を公にさせるな!」


    『学校…病院、警察…… まさか五条さんに何かあったのか』


    切れ切れに聞こえてくる単語からして、どうやら五条少年の身に何かあったのは確実だ。
    何があった、まさか命を狙われたのか……
    そんな不安が七海の脳裏を過る。
    今すぐにでも彼の元へ駆け付けたいが、生憎七海は五条少年の共に過ごすと決めたあの日から、何故か彼の部屋近辺から離れる事が出来ないでいた。

    もどかしい気持ちを抱えたまま、尚も母屋の周辺から離れられずにいると───


    「おい、ボサッとするな! しゃんと歩け!」


    一際の大声に振り返ると、五条家の親戚筋にあたる男に腕を掴まれ、半ば引き摺られるように歩く五条少年の姿があった。
    一切の抵抗もせず、引き摺られるまま俯いて歩く五条少年の表情は窺い知る事が出来ない。
    見れば衣服に多量の血痕らしきモノがこびりついているが、どうやらそれは彼自身の怪我という訳では無さそうだ。
    七海に気付く事もなく人形のようにされるがままの五条少年に、七海の胸に言い様の無い不安が過る。

    男は足音も荒く廊下を進み、やがて五条少年の部屋に辿り着くと、乱暴に障子を開け放つ。
    そうして五条少年を強引に部屋へと放り込み、続けて彼のランドセルもまるでゴミでも捨てるかのような粗雑さで部屋に投げ込んだ。


    「良いか、学校は今日付けで退学手続きをしてきたからな。しばらくは部屋で大人しくしてろ」

    「…………」


    五条少年の返事を待たず、男はやはり乱暴な仕草で障子を閉めると足早に母屋へ戻っていく。
    七海は僅かに躊躇いを見せたが、すぐに踵を返して男のあとを追った。
    何があったのか知らなければ五条少年を宥め慰める事も出来ないし、今の彼のあの様子では説明を求めても恐らくは無駄だろうから。

    それにしても小学校を退学だなんて、一体彼の身に何が起きたのか。
    暗殺に対する対策は万全だった筈だが、それでもまだ不十分だったとでも言うのだろうか。
    考え得る様々な事柄を思い浮かべる七海の前で、男はとある部屋へと入っていった。
    その障子をスルリと抵抗なくすり抜ければ、室内には先の男ともう一人、確か五条家の重鎮の男の姿。


    「ご苦労だったな。首尾は上手くいったか?」

    「はい。悟に持たせていた給食袋…アレを作らせた際に仕込んでおいた呪いが、思ったより早く発動したようです」

    「然もありなん。子供なんてモノは皆、無邪気でありながらも無意識に呪いを産み出しているようなものだ。まだ未熟で理性の抑えが利かぬ小学生なぞ、尚の事」

    「悟にちょっかいをかけてきた子供は、悟に触れられた瞬間、身体の半分が吹っ飛んで即死だったそうです。それを見ていたクラスメート達も阿鼻叫喚の騒ぎとなり、一時は大騒動だったとか」

    「人という生き物は自分より秀でた者に対して、素直に畏怖するか妬み嫉むかのどちらだからな。あの給食の袋に、悟への悪意に反応して対象者を攻撃する呪いを練り込んでおいたのは正解だった」

    「悟も自分がやったのだと信じて疑っていません。これで学校に行きたい等とは言い出さなくなるでしょうね」

    「全く、前任の教育係も面倒な事をしてくれたものだな。仮にも五条家の跡取りがあんな有象無象共の集まる学校に通うなぞ、末代まで恥を晒すところだった。新たな教育係の選出は任せるが、呉々も人選は間違えるなよ」

    「畏まりました。学校や死んだ子供の家族への措置は如何致しましょう?」

    「学校側へは金を積んで黙らせろ、幾ら使っても構わん。念の為、監視の蝿頭を関係者全員につけて脅しておく事も忘れるな。死んだガキの家族に関しては、そうだな……金で何とかなりそうなら金を使え、ごねるようならその家族毎消せ。その方が面倒がない」

    「はい。目撃者に関しては、呪言師達を使って記憶を操作しておきます」

    「ああ、任せたぞ。私は御当主様へ報告に行く」


    二人が部屋を出ていったあとも───七海はしばらくその場から動く事が出来なかった。
    余りの怒りに目の裏は真っ赤に染まり、握り込んだ拳はぶるぶると震え治まる事がない。

    御三家の一柱である五条家がこの世界においてどんなに強い影響力を持っているのか、非術師の家系出身の七海ですら今は良く理解している。
    しかしだからと言って、こんな非道な事が許されるのか。
    まだ世の清濁すら知らぬ幼気な子供の憧憬の念を利用してまで……そうまでして守らねばならぬ道理なぞあって堪るものか。

    五条少年は好奇心旺盛で遊びたい盛りの、どこにでもいる子供。
    唯一、この世に産まれながらの最強という特別な肩書を持ってはいるが、それでも彼は未だ見ぬ世界へ……小学校という社交場に期待と憧れを抱いていた、極々平凡で無垢な子供なのだ。

    そんな五条少年こどもの純粋な思いを踏みにじり、あまつさえ彼に同級生殺しの冤罪を押し付けて。
    こんな極悪非道を許せる筈もないだろう。


    今にも叫びだしたくなる衝動を辛うじて堪え、七海は急いで五条少年の部屋へと戻る。
    今は何より彼の傍に行かなくては、アナタは何も悪くないのだと諭し抱き締めてやらなければ。
    そう強く決意する七海の視線の先で、不意にある部屋の障子がスパンと開いた。
    見ればそこは今まさに目指していた五条少年の部屋で、室内から姿を覗かせた五条少年が窺えない表情のままゆらりと一歩、廊下へと足を踏み出してくる。

    そして手にしていたモノ───そう、彼のランドセルを、目の前の池目掛けて放り捨てたのだ。


    『…………っ』


    思わず七海は声にならぬ叫びを上げ、手を伸ばす。
    しかし間に合う筈もなく、ランドセルは派手な水飛沫を上げてそのまま池の中へと沈んでしまった。
    慌てて駆け寄り拾い上げようと手を伸ばすも、その指先は水に触れる事すら出来ずに虚しく宙を搔く。
    そうして七海は改めて思い知る、この世界の自分は全てにおいて無力なのだと。
    水中に沈むランドセルひとつ拾ってやる事の出来ない、実に矮小な存在でしかないのだと。


    『……五条さん、』


    已むなくランドセルの救出を諦め、既に閉め切られてしまった部屋の障子の前に立つ。
    耳を澄ませれば聞こえる、微かにしゃくり上げる声……泣いているのだ、五条少年が。
    まばゆく輝く太陽のように楽しそうに嬉しそうに笑う、あの子が。


    『サトルさんっ……!』


    堪らず飛び込んだ室内、部屋の片隅───抱えた膝に顔を埋め、小さく肩を震わせる五条少年がいた。
    刺激しないようにそっと近付き、震える細く頼りない背中を優しく撫ぜる。


    『サトルさん』

    「っ、」


    大袈裟なまでにビクンと肩を跳ねさせた五条少年は、それでも顔を上げようとはしない。
    まずは泣き止ませるのが先決かと、もう一度名前を口にしようとした矢先───酷く掠れた声が七海の耳に届いた。


    「…………学校。もう行かなくていいって」

    『……サトルさん、』

    「おれ、わるい子だから。アイツのこと、ころしちゃったから。だからっ……」

    『違う! サトルさん、それは違います、』

    「ちがわねーしっ!」


    七海の手を振り払い、五条少年が顔を上げた。
    その頬はしとどに濡れ、今も水を張った大きな瞳からポロポロと涙の粒が絶え間なく零れ落ちていく。


    「おれっ……おれ、そんなつもりじゃなかったのに! アイツがおれのかみの毛の色ヘンって言って引っぱるから、だから止めてって言ったのに、でも止めてくんねーから、」

    『…サトルさん、もういいですから』

    「だからおれ、やだって……ほんのちょっと、すこしだけ、アイツのこと押しちゃったんだ……そしたらアイツっ……!」

    「サトルさん、判りましたから……だから一旦落ち着きましょう」


    激しくしゃくり上げながらも、辿々しく何が起きたのかを話す五条少年。
    その様は見ていて実に痛々しく、胸が引き千切られんばかりに苦しくなる。


    「アイツが血だらけでふっとんで、そしたらっ、まわりのヤツらがみんな、お、おれのこと、ヘンな目で見てっ……ひめい上げて、バケモノって……!」

    『…………』

    「とっ、トモダチになれた子も、おれ見てこわい、って……やっと、やっとトモダチできたのに、みんな、こっち来ないでって言っ、て……!」


    人間は自らよりも秀でたモノには畏怖するか、妬み嫉むか。
    先に五条家の要人が話していた言葉は、ある意味真理ではあるのだろう。
    だが、それが五条少年への仕打ちへの免罪符になるのかと言えば決してなり得ないし、なり得る訳もない。
    心優しいこの少年が、本来通う筈ではなかった小学校でやっと友達を作る事が出来た彼が、どうしてこんな理不尽で悲しい思いをしなければならないのか。
    七海には判らなかった。


    「……もういい。おれ、もうウチから出ない。外なんか行かない……」

    『! サトルさん、それはダメです。そんな事、しなくて良いんですよ』

    「だって……外に出たら、きっとおれ、まただれかにケガさせちゃう……そんなのやだ…もうそんなこと、したくない……!」

    『……サトルさん、』


    目の前の子供の柔く脆い心が壊れかかっている。
    こんな幼いうちから世界に絶望して、自らの力に恐怖して、それこそ彼を取り巻く大人達の思うがままに心を閉ざそうとしている。


    ───させない。
    そんな事、絶対にさせるものか。
    彼には、五条少年には、必ず幸せになってもらわなければ。
    いつか出会う筈の自分が、誰よりも彼に幸せを贈ると───そう、決めたのだから。

    そして七海は確信もした。
    自分がこの世界に飛ばされたのは、今、目の前で壊れようとしている五条少年の心を守る為だったのだと。



    『……本当に、もう外には行かないのですか?』

    「……うん。そうすれば、もうだれもケガしたり、こ、……ころしちゃったりしなくてすむ、し」

    『そうですね。確かに閉じ籠っていれば、誰も傷付けずにいられるでしょうね。でもそうしたら、もう二度とお友達を作れませんよ?』

    「っ、い、いらないっ…! トモダチなんか、おれ、いらねーもん…!」


    未だ止まらぬ涙を拭う事もせず、五条少年はそんな強がりを吐いてみせる。
    他人を傷付ける事を恐れ悲しむ事の出来る優しい子供の、余りにも哀切に満ちた嘘。

    そんな五条少年の小さな背中にそっと手を添えて、七海はゆっくりと、噛んで含めるように口を開いた。


    『…そうですか。アナタが、サトルさんがそうしたいのなら、私は何も言えません。ですが……』


    温かく薄い背中をゆっくりと撫でてやりながら。
    慎重に言葉を選びつつ、七海は祈る思いで次の言葉を口にした。


    『……独りは、寂しいですよ?』

    「…………っ」


    弾かれたように顔を上げた五条少年の涙が宙を舞って畳へと落ちた。
    濡れたまろい頬を優しく拭ってやりながら、潤んで深みを湛えた美しい蒼の双玉を真正面から覗き込む。


    『サトルさん、アナタの持って産まれたチカラは余りにも強大です。時には思いもよらない事態を引き起こしてしまう事もあるでしょう』

    「…………」

    『ですがそれ以上に、アナタのチカラは沢山の人達を救う事が出来る、唯一無二の大切な宝物でもあるんです』

    「……ウソ、だ」


    ポツリと零れた声に覇気は無い。
    それでも七海を見上げる瞳の奥に、救いを求めて必死に手を伸ばす愛児まなごの姿が確かに存在しているのが垣間見えて。
    その手を掴んで引っ張り上げる為、七海もまた、誠意と真理を織り交ぜた言葉という名の救いの手を差し伸べる。


    『嘘ではありませんよ。しかし今のままでは、その宝物もただの石ころでしかありません。その石ころを宝物に変えられるかどうかは、サトルさん……アナタ次第です』

    「……おれ、しだい? どうすればいいの…?」


    きゅ、と五条少年の小さな手が、七海のスーツの袖を握り締めた。
    縋るような控えめな所作を見せるその手へ、七海も自らの武骨な掌をそっと重ねて包み込む。


    『先ずは、チカラの使い方を学びましょう。アナタのチカラは即ち、アナタの意思を根源として成り立つチカラです。状況を瞬時に見極め、何が最善なのかを判断し、それを実行する為に正しくチカラを行使する。アナタにはそれが出来る……いえ、アナタにしか出来ないんです』

    「…むずかしいこと、よくわかんないけど。でも……おれにはムリだよ、そんなこと」

    『確かに今はまだ無理ですね。でもアナタだって、いつまでも子供のままじゃないでしょう? 成長して大人になって…いえ、大人になる前だって、アナタはこの手で沢山の人達を救うんですよ。今だって……』


    重ねていた掌で小さく滑らかな掌を包み込み、優しく手を繋ぎ合わせる。
    細く折れそうな程に頼りない指がおずおずと絡められてきたのを見て、七海の唇に笑みが浮かんだ。


    『…今だって、アナタの存在が私を救ってくれた。見知らぬ世界に放り出されて途方に暮れていた私をアナタが見つけて、傍に置いてくれたんです』

    「……だって、そんなの、」

    『アナタにとってはそんな事でも、私にはどんなに心強かったか判りますか? アナタの存在に、笑顔に……私がどれ程救われた事でしょう。サトルさん、私は……』


    七海は腕を広げると、五条少年をそっと胸に抱き込んだ。
    刹那、身を固くした子供を宥めるように慈しむように、髪を、背を、何度も何度もゆっくりと撫でる。


    『…私は、アナタに出会えて本当に良かった。アナタが私を救ってくれた。だから私も……アナタが幸せになれるよう、少しでも手助けがしたいんです』

    「! そうなの…? カカシ、おれと会えてうれしいの…? おれ…おれ、シアワセになってもいいの……?」


    震える声が七海の耳朶に深く沁み入る。
    自分自身の持つ力に恐怖しつつも、それでも尚外界への憧れを捨てきれず───幸福な未来を切望する愛しいひと
    きっと幾つもの絶望と自責を繰り返して大人になっていった、自分を愛してくれた五条の穏やかな笑顔が脳裏を過り、七海は胸の中の子供を抱き締める腕に力を込めた。


    『ええ、ええ、勿論です。アナタは誰よりも幸せにならなければいけない。その為なら私は何だってしてみせる』

    「……カカシ?」

    『ねえ、サトルさん。今の…いえ、今も昔も、そして未来も、私はアナタへ何もしてあげられない弱い存在でしかありません。それでも……私は何よりもアナタが大切で、アナタに幸せになって欲しいと、心からそう願っています。だから、』

    「…………」


    いつしか五条少年の涙は止まり、直向きな眼差しが射抜くように七海を見上げている。
    その強い視線を真正面から受け止めて、七海はキッパリと言い放った。


    『……だからどうか、自分のチカラを恐れないで。二度と外に出ないなんて、そんな哀しい事を言わないで。いつかの未来には、アナタにとって素敵な出来事が沢山待っているんですから』


    どうか、どうか届いて欲しい、と。
    七海はそう祈りながら、五条少年に言い続けた。

    学生時代に五条を見捨て途中で逃げ出した自分の、そのくせ何の相談もなく身勝手に復帰を果たした自分の浅く薄っぺらい言葉に説得力なぞ皆無だとは判っているが、それでも───それでも自分は、五条に幸せであって欲しいのだ。
    例えそれが自分の存在とは無縁の幸せであったとしても、五条かれが笑って生きていけるのならそれで構わない。

    だって七海はそれ程までに、五条を愛しているのだから──…




    「……なあ、カカシ」


    ずっと黙って聞いていた五条少年が、先とは較べるべくもない力強い声で呼び掛ける。
    それに応えるように彼を見れば先程まで怯え泣いていた儚い少年はどこにもおらず、強い決意と覚悟を決めた表情かおをした一人の男がそこにいた。


    『サトルさん……?』

    「カカシ、おれ、決めた。やっちゃったことはもうどうにもできないけど……だから、もうこんなことしなくてすむように、おれ、強くなるよ」

    『……! サトルさん、』

    「自分のチカラのこともっとベンキョーして、ちゃんと使えるようになる。学校に行けないのはざんねんだけど……カカシが言ってたように、オトナになったらたくさんあそんで、今までの分をとりかえすんだ」

    『……ええ、そうですね。アナタならきっと出来ますよ、私が保証します。全てを投げ出すのは、それからだって遅くはないんですから』


    ああ、届いたのか───こんな自分の軽い言葉を、五条少年はしっかりと受け止めてくれたのか。
    なんと嬉しく、そして有難い事だろう。

    思わず強く五条少年を抱き寄せると、彼の腕が縋るように七海の背に回り、ぎゅっとしがみついてきた。
    その仕草すらも愛おしい。

    と、五条少年が七海の胸に顔を埋めたまま、ポツリと呟いた。


    「……カカシ。おれ、がんばるからね。ぜったいシアワセになってみせるから、だから……おれのこと、わすれないで。どんなにとおくからでもいいから、おれを見守ってて……」

    『え、……あ、!』


    まるで別れの挨拶のようだと、ふと七海が自らの身体を見れば───その全身はあちこちがボンヤリと輪郭がブレはじめ、消えかかっている。
    とうとう七海がこの世界からも消え去る時がきてしまったらしい。

    そんな、何故このタイミングで。
    目の前の少年に、もう少しだけでも寄り添ってやっていたかったのに。

    戸惑う七海を余所に、五条少年は七海に抱きついたまま、小さな声でポツポツと言葉を落としていく。


    「カカシ、おれね……カカシに会えて良かった。いっぱいあそんでくれて、色んなことおしえてくれて、ありがとう。おれ、カカシが大好きだよ」

    『っ、私もですよ、サトルさん…ここでアナタに出会えて本当に良かった。私もアナタが大好きです』

    「ホント……? ねえ、また会えるかなぁ…?」


    青く澄んだ瞳から、折角止まった涙が再び零れ落ちそうになっている。
    それが頬を伝う前に指先で拭ってやると、七海はひとつ大きく頷いた。


    『ええ、必ず。いつかの未来でまた会いましょう、サトルさん』

    「! うん、それじゃヤクソク! ぜったい、ぜったいにまた会おうな!」


    七海からの肯定を得て破顔した五条少年は、少しだけ背伸びをすると、七海の唇に自らの薄い唇を素早く押し当てた。
    その余りの早業に七海は思わず呆気に取られてしまう。


    「へへ、ヤクソクのちゅーだ!」

    『……全く、アナタは。仕方のないヒトですね』


    得意気に笑う五条少年に苦笑を返すと、七海はそのまろく滑らかな頬に軽く触れるだけの口づけを落とし、その身体を最後にもう一度強く抱き締めた。


    ◆ ◆ ◆


    「………み! おい、七海っ…!」

    「…………う、」


    何やらひたすら名前を呼ばれ、七海は心地好い微睡みから強制的に覚醒させられる。
    薄く開いた瞳の先では、見慣れている筈なのにどこか懐かしさを覚える恋人が、どういう訳か切羽詰まった形相で自分を見下ろしているのが見えた。


    「………え、」

    「っ! 七海、気が付いた 大丈夫か、どこか痛むところは」

    「…………」


    必死に呼び掛けてくる五条が大層珍しく思えて、七海は僅かに首を傾げつつジッと恋人を見つめる。
    その視線に不安になったのか、五条は柳眉を情けなく下げて顔を近付けてきた。


    「なあ、どうしたんだよ七海…まさか僕の事が判らないとか言わないよな……?」


    縋るように震える睫毛に、澄んで煌めくふたつの蒼に、どうしようもなくあの幼子の面影が重なって見えて。
    七海はゆっくりと手を持ち上げると、目の前に迫る男の頭を優しく撫でる。


    「……大きくなりましたね、サトルさん」

    「…………は、」


    刹那───パチリと目を瞬かせた五条は、一息置いてからぶわりと一気に顔を真っ赤に染めた。
    それはもう、これでもかと言う程に赤く。


    「なっ、な、なな何言ってんだよオマエ ちょっと硝子、しょーこぉー! 七海がヘンなんだけどぉー」


    そうして真っ赤に染まった顔を隠すかの如く騒ぎ立てたかと思うと、五条は足音も荒くバタバタと部屋を飛び出して行ってしまった。
    遠くから「廊下を走るな、大声出すな!」と叱責する家入の声が聞こえ、どうにもおかしくなった七海はくふくふと小さく含み笑いを洩らしたのだった。


    ◆ ◆ ◆


    「どーよ七海、久々の任務の調子は?」

    「……まあ、相変わらずクソとしか言い様がありませんね。とは言え、それなりに対応は出来たと思いますよ」

    「そっ。そりゃ何より」


    七海が負傷による怪我の療養から復帰して、一月程経った頃。
    予想外に怪我が酷かった為に療養期間が長引いた七海は、凡そ一月半の入院とリハビリを経て、この日久々の現場復帰と相成った。
    何の問題もなく任務を完遂させ、報告の為に高専へ戻った七海を出迎えたのは、現在進行形で九州へ出張している筈の恋人で。


    「それより、どうしてアナタがここにいるんですか、五条さん。確か九州へ出張と聞いていましたが」

    「えー、それ聞いちゃう? 聞いちゃう~?」

    「…………ウザ、」

    「あ、ちょっとオマエ、今ウザいっつったろ ダメでしょ、大事な恋人にそんな口利いちゃ!」


    歩きながら自分の周りを器用にウロウロする五条に、七海はサングラスを外して眉間を揉みながら溜息を吐く。


    「……で、結局何の用なんですか?」

    「用って、恋人の様子が心配だっただけだよ?」

    「…っ、そう、でしたか……それは、ありがとうございます」


    直球で向けられた心配という名の好意に、七海は居た堪れなくなり視線を逸らし───そうして、目に飛び込んできた光景に足を止め、目を瞬かせた。


    「ん? どしたの、七海」

    「五条さん、あの……彼は?」

    「彼? ……ああ、憂太の事ね」


    七海の視線の先を追った五条は、そこで同級生達と鍛練に励む一人の少年を見て頷いた。


    「ほら、前に話しただろ? 東北に、術師数人を返り討ちにした調査対象者がいるって。あの子がその対象者、乙骨憂太だよ」

    「…高専に迎え入れたのですね」

    「だってさ、上の爺共がこぞって秘匿死刑にしろって煩かったんだよね。本人もそれを受け入れちゃってたし」

    「本人が? 何故……」


    入学して間もないのか、呪術師としてはまだまだ未熟さが目立つ、善性が服を着て歩いているかのような男子学生。
    同級生と並んで楽しげに笑う彼が、少し前まで自ら死刑を望んでいたなんて容易に信じられない。

    その疑問を正しく汲み取ったのか、五条も足を止めると乙骨達を見つめながら、その時の事を思い返すように口を開いた。


    「……憂太にはさ、里香っていう特級過呪怨霊が憑いてるんだよね」

    「特級過呪怨霊、ですか」

    「うん。里香は憂太が大好きでね、死んでからもずっと憂太と一緒にいて憂太を守ってる。それこそ、憂太が望む望まないに関わらずね」


    望む望まないに関わらず。
    その言葉が含む真意に気付き、七海の顔が僅かに曇った。


    「憂太はその事に苦しんでたんだ。自分の意思に反して他人を傷付けてしまう事に、里香の手を汚させてしまう事に。だから自ら死を選ぼうとしてた」


    未成年の学生が抱えるには余りにも重い事実。
    それ等を全て独りで抱え込み、死を選ぼうとした乙骨に、七海は胸を痛ませる。
    そんな七海を安心させるかのように笑い掛け、なんて事ないように五条は言った。


    「だからさ、言ってやったんだよね。独りは寂しいよ、って」

    「………っ」


    覚えのあるその言葉に、七海はハッとして五条を見遣った。
    五条は七海の視線に気付いているだろうに、乙骨から視線を外さないまま言葉を続ける。


    「憂太のチカラは……まぁ呪いなんだけどさ、使い方次第で人助けにも使える訳じゃん? だからチカラの使い方を学びなさい、全てを投げ出すのはそれからでも遅くない、ってね。そう言ってあげた訳」

    「…………」

    「ま、それが伝わってくれたからこそ、憂太は今ココにいる訳なんだけど。あのコはきっといい術師になってくれる、そんな気がするんだ」


    なーんて、実はただの受け売りなんだけどね、と。
    そう茶化した口調で言いながら、五条が笑って七海を見れば───


    「───…っ、」

    「え、七海 ちょっと、急にどうしたの」


    五条の慌てた声を聞きながら───七海は柔らかな光を湛えるその双眸から、幾つもの涙の雫を溢れさせていた。
    慌てた五条がかさついた指先でその涙を拭うも、透明な雫は枯れる事なく次から次に頬を伝い落ちていく。

    ああ───届いていたのだ、自分の言葉は。
    こんな薄っぺらくて軽い自分の言葉がちゃんと彼に伝わって、今の今まで五条のなかに息衝いてくれていた事が、何よりも嬉しくて堪らない。


    「…っ、済みません……ちょっと、目にゴミが入ってしまって、」

    「あのさぁ、その言い訳、流石に無理があるからな? まぁ良いや、その涙の理由は後できーっちり聞かせてもらうから覚悟しとけよ? 【カカシ】くん」

    「……っ ご、五条さんアナタ、まさか覚えてっ……」


    ギョッとして顔を上げた瞬間、唇に五条のそれがふわりと重ねられて続く言葉を呑み込んでしまう。
    完全に意表を突かれたキスに、七海が羞恥やら怒りやらで色々綯交ぜになっていると、突如二人の背後から元気な声が次々に飛んできた。


    「おいコラ悟。なーに七海サン泣かせてんだよ、あぁ?」

    「……おかか」

    「あーあ、まさみちに言ってやろーっと」

    「あ、あの、こちらはどなたですか……?」


    二人が振り返ってみれば、先の話題の主である乙骨達一年生がいつの間にやらそこにいて、揃って五条に冷たい視線を向けている。


    「え、ちょっとオマエ等、誤解だって! 僕が七海を泣かせたんじゃな……え、アレ、もしかしてコレって僕が悪い……?」

    「おーし殺す。そこに直れ、ドクズ野郎が」

    「ご、五条先生、こういうのは良くないと思いますよ……?」

    「はぁあ だから僕の所為じゃないって言ってるだろ! 七海も黙ってないでさ、何か言ってやってくんない」


    教え子に詰め寄られて困惑頻りな五条に、七海は何だか無性におかしくなってしまって。
    だから、つい。


    「まあ、程々でお願いしますね。何しろその人、それでも私のコイビトなもので」

    「っ、 え、な、七海…… い、今のもう一回言ってくんない、ねえ」


    呆然としたのも束の間、顔を赤くしつつも必死の形相で七海に詰め寄る五条。
    それを見ていた一年生達は、互いに顔を見合わせるとやれやれと言いたげに肩を竦めた。



    あの日あの時、大人達の非道な仕打ちに傷付き泣いていた子供はもういない。
    宣言通りにチカラの使い方を学んで強くなった子供は今、七海の目の前で教え子達の目も憚らずに喚き散らす事だって出来る、文字通り最強の男となって現在いまを生きているのだ。

    ああ嬉しい、本当に嬉しい。
    余りにも嬉しいものだから、七海は未だに自分の周りで何だかんだと言い募る五条こいびとの胸倉を引っ掴むと、実に情熱的なキスをひとつ見舞ってやったのだった。


    ◆ 了 ◆
     
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