聡い子供と鈍い大人「初めまして、伏黒恵君。七海建人です」
その瞬間の、脳天から雷に撃たれたかのような甘く刺激的な衝撃を、中学一年生になったばかりだった伏黒恵はきっと一生忘れないだろう。
◆ ◆
伏黒が姉の津美紀と共に五条に引き取られ、彼を後見人として生活するようになってから、そろそろ六年が経つ。
その間、何だかんだと呪術界のアレコレについて叩き込まれ、時には任務に同行させられたりもして。
気付けば中学生になった頃には伏黒は一端の呪術師見習いに成長していた、あくまでも見習いではあるが。
『恵も中学生になった事だし、これからはもっとハードな任務にも着いてきてもらうからね(はぁと)』
とは、彼の師(と呼んで良いのか定かではないが)である五条の言で。
ふざけんな、ド畜生が。
いっつもあっちこっち連れ回した挙げ句、死にそうな目に遭わせては好き勝手ほざきやがって。
年齢の割に随分と達観した子供だった伏黒は、五条と出会ってから間違いなく柄も、なんなら態度も悪くなった。
度胸だって並の呪術師には負けていない、良いか悪いかはさておき。
さて、伏黒が中学校生活初の夏休みに突入した次の日、彼は五条にとあるレストランへと連行されていた。
勿論、同意の上ではない。
何なんだ全く、今日は朝から宿題を片付けてしまう気だったのに、と。
折角のやる気を削がれて不機嫌全開な伏黒は内心の不満を隠す事なく、五条の「何でも好きなモノ頼んでいーよー」との言葉通り、値段も見ずに気になったメニューを片っ端から頼んでやった。
ざまぁみろ。
「ちょっと恵ぃ、頼み過ぎじゃない? そんなに食べれるの?」
おかしそうに含み笑いをする五条に「ヨユーです」とだけ返す。
育ち盛りの食欲ナメんなよ。
「……それで、今日は何の用なんですか。俺、今日は夏休みの宿題片付けるつもりだったんですけど」
「うわ、恵ってば真面目だねぇ。夏休みは始まったばかりだよー? 若人は青春をもっと謳歌しなきゃ。そうだ、恋バナでもする?」
「……アンタの恋バナなんて、どうせロクなモンじゃないでしょ」
「言うねー。恵、いつからそんな可愛げなくなっちゃったの?」
可愛くなくて結構。
フンと鼻を鳴らして、伏黒は「で、用件は」と改めて訊ねた。
そのつっけんどんな態度に五条はやれやれと言った風情で肩を竦めたが、彼が気分を害した訳ではないという事を伏黒はそれなりの付き合いで判っているので問題はない。
「今日はね、恵に紹介したいヤツがいるんだ。僕の後輩なんだけど」
「……五条さんの後輩?」
「そう。一般人からの出戻りなんだ」
「…………」
出戻りってなんだっけ。
そう考えていたのがバレたのか、五条が先の話の補足に入る。
「ソイツさ、高専を卒業した後、呪術師にならずに普通の会社員になったんだよ。でも、それを辞めて、わざわざコッチに戻ってきたってワケ」
「…わざわざこんな世界に戻るなんて、ソイツ、よっぽど物好きなんですね」
「ははっ、確かに。まぁでも腕は確かだし、信頼出来る良いヤツだから」
その言葉に伏黒はおや、と思う。
あの五条が手放しで『信頼出来る良いヤツ』と言い切った、その事に関して珍しいなと、そう感じたのだ。
五条に敵が多い事は伏黒も良く理解している。
と言うか、任務に連れ回されるようになったここ数年で否応なしに理解せざるを得なかった。
そして、五条にとって心から信頼出来る人間というのが限られている、という事も。
今の彼の口振りから察するに、その後輩とやらは彼が信頼出来る数少ない人間の一人なのだろう。
伏黒はそう結論付け、運ばれてきた熱々のハンバーグを早速食べ始めた。
待っていては折角のハンバーグが冷めてしまう、どうせなら美味しいうちに食べてしまいたい。
「うーん、良い食べっぷり。その後輩もね、普段はあんま表情変わんないんだけど、美味しいモン食べてる時だけはちょーっとだけ頬が緩むんだよね。そこが可愛くってさぁ」
「へー、そうですか」
「あらら、キョーミない感じ? それにしても遅いなぁ、アイツ」
ボヤきながら五条は手元のスマホに目を落とす。
それを見ながら伏黒は、五条の後輩とは女なのだろうかとボンヤリ考えた。
だってあの五条が『可愛い』と言ったのだ、それってもしかして相当珍しいのでは?
そんな事を考えつつ、二品目のチキングリルを食べ始めた時だった。
「五条さん、お待たせしました。遅くなって済みません」
流れるような落ち着いた低音が、伏黒の耳を心地好く震わせた。
ハッとして顔を上げた伏黒の目に飛び込んできたのは、柔らかに煌めく黄金色の髪にモスグリーンの瞳を備えた、五条に負けず劣らずの美しい男。
「おっそいよ七海、何してたのさ?」
「それが、予定していた電車が遅延していて。幸い直ぐに運転再開したんですが、それで遅れました」
そう言うと、『ななみ』と呼ばれた男は、そこで初めて伏黒に視線を合わせた。
「失礼、騒がしくしてしまいましたね」
「あ、っ……いえ、あの、」
穏やかに話しかけられ、伏黒は動揺の余りフォークを取り落としてしまった。
フォークはガチャンと大きな音を立てて皿の上に落下し、幸いにも床やテーブル上を汚す粗相だけは免れる。
「す、済みませんっ、」
「いえ、構いませんよ……ああ、ちょっと失礼」
「え、……っ、」
不意に『ななみ』の手が伸びてきて、伏黒の頬を柔らかく拭った。
その手が紙ナフキンを持っていた事に気付いた時には、既に手は頬から離れていった後で。
「あ、あの、」
「いきなり失礼しました。フォークを落とした時に、ソースが頬に跳ねたものですから」
「え、あ…あ、ありがとう、ございます……」
しどろもどろに礼を述べれば、『ななみ』はニコリと微笑んだ。
想像以上の柔らかな微笑に、伏黒の鼓動がおかしな音を立てて大きく跳ねる。
と、どぎまぎしている伏黒の目の前で、一連の流れを黙って眺めていた五条がさも不満そうに唇を尖らせながら『ななみ』の腕を引いた。
「ちょーっと、七海ぃ? なーに未成年を誑かそうとしてんだよー?」
「失礼な事を言わないで下さい。心外です」
腕を引かれる力に逆らわず、『ななみ』はそのまま五条の隣に腰を下ろした。
真正面から向かい合う形となり、伏黒は思わず紙ナフキンで自分の口元をゴシゴシと拭う。
「恵、コイツが今日お前に紹介したかった後輩、七海ね。等級は二級」
「初めまして、伏黒恵君。七海建人です」
「っ、ふ、伏黒恵です、」
改めて自己紹介され、伏黒も会釈と共に名乗り返した。
ななみけんと、と彼の名前を胸の裡で何度も繰り返す。
すると五条が面白そうに口元を緩めると、七海の肩を抱いて笑った。
「恵のヤツさぁ、お前の事『わざわざこんな世界に戻ってくるなんて物好き』だって、そう言ってたんだよ?」
「っ! ちょ、五条さんっ!」
「何だよ、ホントの事じゃーん」
先の暴言を本人の前で暴露され、あからさまに伏黒は狼狽えた。
どうしよう、七海の機嫌を損ねてしまったかも知れないと、どんどん全身の血の気が引いていく。
しかしその心配は杞憂だと言わんばかりに、七海が肩に回った五条の手を雑に払い除けて吐き捨てた。
「本当の事なんです、別に構わないでしょう? それよりも貴方のその言い方、悪意を感じますよ」
教え子に対する言い方じゃない、ピシャリとそう叱り付ける七海に伏黒はぱちぱちと目を瞬かせた。
え、怒ってないの?本当に?
そんな疑問が頭の中でぐるぐる回る。
「ちぇ、お前ってばホント子供に甘いよねぇ。偶には先輩に、つーか僕に優しくしてもバチは当たらないよ?」
「貴方に優しくする意味が判りません」
「うわ、ひっでぇの!」
悪態を垂れつつも五条は実に楽しげに笑う。
それが七海に向ける五条の信頼の厚さを物語っていて、伏黒の胸が何故だかモヤリと奇妙に軋んだ。
「ほら、七海も好きなモノ頼んでいーよ。飯、まだだろ?」
「ええ。それじゃ、お言葉に甘えて」
「そういう時だけ素直だよね、お前……」
若干引き気味の五条に構わず、七海は数品の注文を済ませると伏黒に視線を向ける。
「伏黒君? 遠慮せず、冷めないうちに食べて下さい」
「っあ、ハイ、ありがとうございます、」
完全に止まっていた手を再び動かして、半分程まで減っていたチキングリルを口に運ぶ。
既に大分冷めてしまっていたが、もうそんな事は気にもならなかった。
チラ、と目線だけを七海へと向ける。
彼は五条と何やら仕事の話をしているようで、呪霊だの呪詛師だのといった伏黒にも聞き覚えのある単語が何度も耳に飛び込んできた。
『……キレイなヒト、だな』
五条と話す真剣な横顔に、初見で感じた事を改めて思う。
どちらかと言うと中性的な美貌の持主である五条とは方向性の違う、成熟した大人の男の色気。
恐らくは海外の血が入っているのだろう、金糸輝き彫りの深い外見もまた、彼の美しさをより一層彩り際立たせていた。
そしてひとつ気付いた事がある、五条の相好の崩れっぶりだ。
拾われるような形で世話になり始めてからというもの、伏黒は五条のこんな楽しげで気を抜いた様子を見た事が無い。
口元には軽薄な笑みを絶やさず、相手が誰であっても常に一定の距離と客観的な態度を保ち続けている五条。
その彼が、この七海という後輩に対しては自ら距離を詰め他意のない笑顔を見せ、心底から楽しげに言葉を交わしている。
その様は、まるで。
『……まさか、な』
脳裏を過った考えを、伏黒は軽く頭を振って否定する。
その時、すぐ近くから携帯の着信音らしき音が鳴り響いた。
それは伏黒にとって聞き覚えのあるメロディで。
「……五条さん。鳴っているの、貴方のスマホでしょう。早く出てあげたらどうです」
「えー、やだよ。絶対呼び出しに決まってるし」
「判っているなら、なおのこと早く出て下さい。いつまでも鳴らしっ放しだとお店にも迷惑ですよ」
「…ハイハイ、判りましたよ……ほーら、やっぱり伊地知からだ。もしもし、五条だけど、……」
あからさまに不機嫌になった五条は、それでも電話に出ると一旦席を離れていった。
それを見送り、七海は呆れたように肩を竦める。
「済みません、騒がしくして。気にせずにどうぞ」
「っあ、はい、…ドウモ」
穏やかな微笑みを向けられて、伏黒は些か挙動不審になりながらも、律儀に軽く会釈をしてから目の前の皿を空にするべく手を動かした。
ハンバーグ、チキングリルと食べ終え、今食べているのはシーフードカレー。
育ち盛り食べ盛りの伏黒にとってこの量を食べる事は苦にもならないが、真向かいに座る七海には食いしん坊な悪ガキだと思われているかも知れない。
そう思うと、恥ずかしさにほんの少しだけ手の動きが鈍ってしまう。
せめて出来るだけ行儀良く食べようとひたすらカレーを咀嚼していると、仏頂面を晒した五条が戻ってくるのが目についた。
どうやらかなりご立腹らしい。
「七海ぃ、悪いんだけど、僕一旦席を外すわ。ちょっと高専まで戻ってくる」
「それは構いませんが、随分急ですね。火急の案件ですか?」
「それがさぁ、上層部のジジイの一人が、ただの一級案件を僕に処理させろってしつこく騒いでるらしいんだよね。伊地知が何とか宥めてくれてたんだけど、どうにもダメだったらしくて泣き付かれちゃった」
乱雑に髪を掻き上げながら忌々しげに吐き捨てる五条。
これは相当お冠だなと見当付けた伏黒は、余計な口は挟まず静観を決め込む。
「そういう事情なら仕方ありませんね。伊地知君が気の毒です、早く行ってあげて下さい」
「判ってるって。それより七海はどうする? 僕もすぐ戻れるか判らないし、今日はお開きにしとく?」
「……!」
その言葉に伏黒の手が止まった。
そんな、自分はまだ彼の……七海の事を何も知らないのに、もう別れなければならないのだろうか。
だが五条からしてみれば今日は伏黒と七海の顔合わせといった認識でしかなかっただろうから、これで散会となっても何もおかしくはない。
『……イヤだ。七海さんの事、もっと知りたい』
グッとスプーンを握る手に力を込めた、その時。
「いえ。折角ですから、もう少し伏黒君と話をしていこうと思います。いずれは共に任務に就く事になるでしょうから」
「………!」
ハッと顔を上げれば、眼前の七海は五条に向かって穏やかに微笑みかけていて。
だが対する五条はどこか不満げだった。
「えー? それならさぁ、また僕が一緒の時で良くない? な、恵もそう思うだろ?」
「っ、いえ、俺も七海さんともっとお話したいですっ……!」
思考する間隙も無く───伏黒は叫ぶようにそう答えていた。
刹那の間の後、七海がどこか楽しそうに口角を上げて五条を見遣る。
「と言う事ですので、五条さん。私と伏黒君はこのまま親睦を深めようと思いますので、どうぞお構いなく」
「……あっ、そ。それじゃ恵をヨロシクね、七海。僕、ちょっと行ってくるから。早く終わったらまた来るよ」
「判りました。あんまり伊地知君を困らせないで下さいよ?」
「判ってるって。じゃあね」
ひらりと手を振った五条は先程垣間見えた不満げな様子を一切見せる事なく、足早にその場を立ち去っていった。
ずっと息を詰めていた伏黒は、離れていく師の背中を見つめつつ、ほぅと気を緩ませ───
「……っ、!」
つう、と伏黒の背を冷汗が伝った。
店を出る間際、チラと振り返った五条のサングラス越しの蒼い瞳。
それが───全てを凍て付かせるような絶対零度の温度で以て鋭く睨め付けていたからだ。
呼吸をする事さえ禁じられたかと思える程に苛烈な視線は、ただ真っ直ぐに伏黒だけを見据えている。
身を竦ませるような緊張感に、伏黒がゴクリと息を呑んだ時。
「…伏黒君? どうかしましたか?」
「っえ、あ、何でもないですっ、」
不意に掛けられた柔らかな声にハッと我に返り、慌てて視線を巡らせて見れば。
果たしてその先には既に五条の姿はなく、伏黒はようやく人心地がついた気分になる。
それを見つめていた七海が、少しばかり声を落として口を開いた。
「…伏黒君。君は、今の生活に不満はありませんか?」
「えっ…?」
どういう意味だろう。
そんな疑問のまま首を傾げると、七海は伏黒にも判り易い言葉で話を続ける。
「君の事は五条さんから聞いていますよ。君の術式の事、そして生い立ちの事も」
「…………」
「こうして話していても判ります、君の呪力も術式も底が知れない。禪院家の血筋も勿論あるのでしょうが、何より君自身の素質と才能でしょう」
どうやら褒められているらしい。
血筋だなんだは良く判らないし伏黒の知った事ではないが、こうして七海に褒められるのは純粋に嬉しかった。
だが、逆に七海の表情が少しだけ強張っている事に気付き、伏黒は緊張に身を固くする。
「…伏黒君。五条さんは君の素養を見抜き、期待しています。いつか君に、自分と肩を並べる程の術師になって欲しいと」
「……はあ。そう言えばそんな事、良く言われます」
「君も知っているかも知れませんが、この世界で生きている術師の絶対数は決して多くない。常に人手不足と言っても大袈裟ではありません」
成程、と思った。
だから五条は自分のような子供にすら過度とも思える期待を寄せているのかと、妙に納得できた。
しかし七海の表情からして、話はそう簡単なモノではなさそうだ。
「人手不足が慢性化している今の状況では、君のような子供ですら戦力とみなされます。呪力さえあれば何の問題も無い、ましてや君は御三家である禪院家の血を引くうえ『あの』五条さんの庇護下にありますからね」
そこまで言って、七海はただでさえ真っ直ぐに伸びた姿勢を更に正すと、ヒタリと伏黒を見つめた。
「伏黒君、率直に聞きます。君は、呪術師になりたいと思っていますか?」
「……え?」
「君の生まれも、五条さんの教えも何もかも関係なく。伏黒君……君は君自身の意志で呪術師になりたいと、今、そう考えていますか?」
「っ、……俺、は、」
すぐに答えを返せず伏黒は項垂れる。
そんな事、考えた事もなかった。
否、心のどこかで『考えてはいけない事』だと思っていた、そう言った方が正しいのかも知れない。
五条の後ろ楯を受け、自らの生い立ちを聞かされて。
難しい話は良く判らなかったけれど、それでもその日から幼かった伏黒の胸裏には常に『姉を守りたい』、という強い思いがあった。
その為には『呪術師』とやらになるしかないのだと、それ以外の選択肢なんて存在しないものだと思っていた。
「……俺、ガキの頃から、イヤ、今もガキなんですけど、とにかく五条さんにあちこち連れ回されて」
「ええ」
「色んな任務を見せられて、その合間に自分の術式の使い方や戦い方を教えられて、」
「ええ」
「津美紀を…姉を守りたいなら強くなれ、そう言われて。強くならなきゃ、ずっとそう思ってきました」
ゆっくり、途切れ途切れに話す少年の言葉を、七海は急かす事もなく黙って聞いている。
「だから…呪術師にはなる、ならなきゃいけないって。それしかないんだって、」
「それは違います」
「……っ!」
きっぱりと断じられ、伏黒は驚いたように七海を見た。
七海は真正面から伏黒の視線を受け止め、真摯な眼差しで言葉を続ける。
「先程も言いましたが、この世界は常に人手不足です。呪力を持つ者はその大多数が呪術師としてこの世界に身を置いている。それは御三家の人間であれば尚の事」
「…………」
「君も御三家のひとつ禪院家の出自である以上、本来ならば呪術師になるのは逃れられないでしょうが…幸いにも今の君には五条さんの後ろ楯がある。だから」
ふう、とひとつ息を吐いて。
七海は慈しむような優しい眼差しを伏黒に向けた。
「もし君が呪術師にはなりたくない、将来目指したいものがあると言うのなら。私はそれを全力でサポートします」
「えっ…」
「君の将来を、大人の汚い事情で縛りつけてしまう事があってはなりません。君の未来は君自身で決めて良いんですよ、伏黒君」
「で、でも、この世界は人手不足だって…! それに五条さんも、俺は呪術師になるべくして生まれた人間だって、」
「人手不足は今更です、君が心を砕く事はありません。五条さんは、……」
五条の名を出した七海は僅かに逡巡する様子を見せたものの、それでも伝えるべきだと判断したのだろう。
ほんの少しだけ口角を上げ、七海が笑う。
「……伏黒君、五条さんを悪く思わないであげて下さいね。あの人は…あの人の背負うモノは余りにも多く、そして重すぎて、彼以外には誰も背負う事が出来ないんです」
「…………」
「どれだけ多くの呪術師がいたとしても、この世の誰一人として五条さんの背負うモノを軽くする事は勿論、ほんの僅か代わる事すら出来ない。五条さんは…五条さんは常に孤独の中で生きているんです」
「……なんとなくですけど、そんな気はしてました」
「ふふ、君は聡い子ですね。察しの通り、沢山のモノを背負う五条さんは、君のように素質のある人材を育てるという使命を抱えながらも、未来ある若者をこれ以上この世界に関わらせたくないとも考えています」
伏黒はこれまでの五条の指導を思い返してみる。
表面上はニヤけた笑みを浮かべながらも、彼の指導は非道な程に厳しかった。
生命の危機を感じた事だって一度や二度ではなかった。
だが、それでも伏黒が弱音を吐かなかったのは、偏に姉の為ではあるものの、五条がただ厳しいだけではなかったから。
底を見せない飄々とした眼差しの奥に、期待にも祈りにも似た『何か』を伏黒は見出だしていた。
伏黒は幼いながらも、その期待に応え祈りを叶える事が、即ち姉を護る事に繋がる事を理解したのだ。
きっと呪術師としての伏黒の成長が期待となり、相反して伏黒が呪いの世界に関わりないところで平和に生きていく事が、五条の祈りなのだろう。
「伏黒君。先程も言いましたが、君は自分の事を第一に考えて良いんです。禪院家に産まれたからではない、五条さんに言われたからでもない。君がどうありたいのか、それを考えてみて下さい。答えは今でなくとも構わないので」
「……七海さんは、」
「はい?」
俯き加減だった伏黒が顔を上げ、七海を見つめる。
子供らしい純粋な、それでいてまるで子供らしくない射抜くような強い眼差しで、少年は続けた。
「…七海さんは、一般人として生きる事を選んだのに、わざわざ戻ってきたんですよね? どうしてなんですか?」
「私、ですか……?」
「はい。確かに七海さんは呪術師として生きるべき人材なのかも知れないですけど、それでも戻って来なければ平和に生きていけましたよね? なのに、どうして」
「……そう、ですね」
冷めたコーヒーを口に運びながら、七海はしばし思案に耽る。
その態度からは、子供の質問だからと適当に茶を濁そうとするのではなく、真摯に向き合おうとしてくれている事が容易に読み取れた。
しばし落ちた沈黙の後、七海はカップを置くと僅かに苦笑を浮かべて見せた。
「実に情けない話ですが、正直今でも良く判らないんです」
「……判らない? それは、戻ってきた理由が、って事ですか?」
「ええ。適性や遣り甲斐、他にも色々あるとは思いますが……そのどれもが戻る決心をした理由であり、けれども一番の理由とは言い難い。ただひとつ言える事は、もう私はこの世界から離れる事はない、という事でしょうか」
キッパリとそう言い切った七海に、伏黒はふと頭を過った疑念をつい口に出してしまった。
「それは、……五条さんの為、ですか? あの人の力になりたくて、だから七海さんは戻ってきたんですか…?」
聞いてから、しまったと思った。
自分は何を言っているのだろうと、伏黒は内心おおいに焦る。
しかしその疑念をぶつけられた七海は、平然としたまま首を横に振ってみせた。
「それは有り得ませんね。恥ずかしながら、私が五条さんの背負うモノの大きさと重さに気付いたのは、こちらに復帰してからなので」
「! そう、なんですか」
「ええ。勿論今は、少しでもあの人の力になれればとは思っていますけれど……あ、これは五条さんには内緒ですよ?」
立てた人差し指を唇に当て茶目っ気たっぷりにウィンクしながら微笑む七海に、伏黒は思わず頬を赤く染めながらもコクコクと何度も首肯する。
そうしつつも彼の胸裡では、ある決意が確固たる信念をもって固まっていた。
「……七海さん。俺も、自分がこの先どうしたいのかなんて良く判らないですけど、でも」
グッと拳を握り締め、少年は強い語調で己の決意を吐露する。
「俺、呪術師になります。呪術師になって、少しでも五条さんの役に立てるようになりたい」
「! ……伏黒君、」
でも本音は、七海さんの傍にいたい。
もっともっと貴方に近付きたい、共に戦えるようになりたい。
その想いは今は呑み込んで、伏黒は真っ直ぐに七海を見つめる。
その視線を見極めるように正面から受け止めた彼は、ややして少し躊躇いがちに声を発した。
「…危険で、苦しいだけの世界ですよ」
「判ってます」
「……仲間や友人を、目の前で失うかも知れません」
「それも覚悟の上です。そうさせない為にも、俺はもっと強くなりたい」
「……伏黒君」
少年の固い決意に、七海もそれ以上を口にするのは野暮だと悟ったのだろう。
鋭利さを纏わせていた視線をふと緩め、彼は口許に穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「君の覚悟は受け取りました……ありがとう、伏黒君」
「え、……あ、いえ、俺、」
「ですが、君はまだ若い。もしも気が変わったのならその時は遠慮なく教えて下さいね。可能な限り、君の力になると約束します」
「だ、だったら……! れ、連絡先を教えてもらってもいいですか…」
咄嗟にスマホを差し出してそう願えば、七海は突然の伏黒の奇行とも思える行動に虚を衝かれたように目を瞬かせたのち、ニコリと微笑んで頷いた。
◆ ◆
「あーっ、やぁっと見つけた! 七海ぃ、お前どこほっつき歩いてたんだよ」
そんな声と共に五条が戻ったのは、既に太陽が傾き始めた頃。
帰路を急ぐ人々を避けるように街中を歩いていた七海と伏黒に、五条は小走りで駆け寄ってきた。
「お疲れ様です、五条さん。私達の居場所なら、伏黒君が連絡を入れてくれていた筈ですが」
「えー? 何もきてないけど?」
「っあ、済みません…忘れてました」
不満げに唇を尖らせる五条に伏黒がペコリと頭を下げる。
少年のその頭をくしゃりと撫でて、七海は笑った、
「済みませんね、五条さん。伏黒君とのデートが余りにも楽しすぎて、私も連絡するのを忘れてました」
「……! 七海さん、」
「でも、次からは忘れないようにしましょうね? 伏黒君」
「っ、はいっ!」
頬を紅潮させて元気良く返事を返す少年の姿に、五条はサングラスの下の目を眇めた。
「……ふぅーん。随分と仲良くなっちゃってまぁ、僕ビックリだよ」
面白くなさげに五条はそう吐き捨てるが、七海は別段気にしていないようだった。
もしかしたら五条のこういう態度にも慣れっこなのかもしれないと、伏黒は自分の知り得ない彼等の時間を想像しては心を曇らせる。
それに追い打ちをかけるように五条の無情な声が響いた。
「ま、何にしても仲良くなってくれたなら結構。それじゃ七海、僕は恵を送っていくから」
「判りました。呉々も伏黒君を宜しくお願いしますよ、五条さん」
「誰にモノ言ってんだ、っつーの」
「ふふ、そうでしたね。それでは伏黒君、今日は一日お疲れ様でした。楽しかったですよ、とても」
「お、俺もです…! 七海さん、今日は色々と本当にありがとうございました!」
伏黒は七海の大きな手を両の掌で包むように握り締めた。
その余りにも親しげな様子に五条の眉がピクリと跳ねたが、伏黒はお構いなしに七海へ話しかける。
「あの、今度任務のない時にまた会ってくれませんか? 俺、もっと七海さんに色々教えてもらいたくて、」
「こーら恵、七海は一級への昇級査定も控えてるんだから無茶言って困らせないの」
「良いんですよ、五条さん。伏黒君、私で良ければ是非また会いましょう。今度は私のお気に入りのカフェへ行きましょうか」
「! はい、行きたいです! それじゃ、あとで改めて連絡しても良いですか」
「ええ、勿論」
穏やかに微笑みながら頷いた七海に、伏黒も顔を綻ばせて嬉しそうに笑う。
その様子を五条は独り蚊帳の外で眺めるしか出来ずにいたが、やがてその楽しげな空気を破るようにパンパンと大きく手を叩いた。
「ハイハイ、そこまで~! 恵、いい加減帰らないと津美紀が心配するよ」
「それはいけませんね。では伏黒君、また今度」
「っ、はい、……」
伏黒はまだ何か言いたげな唇をキュッと一度噛み締めてから、七海に向かってペコリと頭を下げた。
「七海さん、今日はありがとうございました。任務、どうか気を付けて下さいね」
「ありがとうございます。伏黒君も夏休みの宿題、今度会う時までには終わらせておいて下さいね?」
「はいっ…!」
素直な良い返事に七海は微笑むと、「それじゃ失礼します」と五条に頭を下げてその場を立ち去った。
小さくなるシルエットからいつまでも目を離さない伏黒のその肩を、五条は苛立ったようにトンと叩いた。
「恵、帰るよ。いつまでもそんなトコで突っ立ってたら邪魔」
「……っす、」
先程までの七海への態度とは一変した愛想のない返事は、五条の苛立ちを更に高める。
「恵、随分と七海が気に入ったみたいだけど。さっきも言った通り、アイツは一級査定控えてるし任務も詰まってるんだから、ワガママ言って困らせんじゃないよ」
「…………」
「まぁ七海は『子供』には特に甘いからね。別にお前だけに優しいワケじゃないから、その辺勘違いしない方がいいぜ」
「…………」
聞いているのかいないのか全くリアクションを返さない伏黒に、五条の舌打ちが夜道に響いた。
「……恵。お前、態とだろ。連絡寄越さなかったの」
「っ、」
僅かに跳ねた肩が、少年の答えと動揺とを如実に物語る。
それを確信として得た五条は、今度こそ声を、そして態度をも尖らせた。
「何だよ、図星? そうまでして七海と一緒にいたかった、ってワケ? ったく、七海もどこまで子供に甘いんだか」
「………」
「まぁ何にせよ、七海はお前みたいなケツの青いガキなんか相手にしないよ。憧れるのも良いけど、もっと現実を見たら? 大体、」
「五条さん」
つらつらと説教染みた言葉を投げ散らかす五条の言葉を、先を歩いていた伏黒が不意に語気強く遮った。
立ち止まり、身体半分振り返った少年は、ギラギラと煮えるような視線でもって五条を睨め付けている。
「五条さん、俺、呪術師になります。いつか七海さんに安心して背中を預けてもらえるような、そんな強い術師に」
「……ふーん? それは良い心掛けだけど、その為に七海に迷惑掛けるのは感心しないな」
「それは大丈夫です、ちゃんと七海さんに連絡先教えてもらいました。七海さん、いつでも連絡してきて良いって、そう言ってくれましたから」
どこか得意そうに語る伏黒に、五条は小馬鹿にしたような笑みを唇に浮かべて見せた。
「はは、これだから子供は判ってないね。幾らそう言ったからって頻繁に連絡寄越されたら仕事の気も散るし、そもそも七海はお堅いから公私混同はしないよ」
「そうっスね。だから、ちゃんと教えてもらいましたよ」
「……教えてもらった、って何を」
「プライベートの連絡先です。七海さん、スマホふたつ持ってるんで、プライベート用の連絡先を教えてくれました」
「……は?」
何それ、僕聞いてないんだけど、と。
そう口に出しかけた五条は、辛うじてその言葉を喉奥に押し留める。
それを目敏く見て取った伏黒は、先程の仕返しとばかり楽しげに口角を上げて話を続けた。
「五条さんの言う通り、七海さん、一級査定も控えてるから忙しいって言ってました。だから、」
ひらり、伏黒が自分のスマホを手に持って、見せびらかすように五条へと翳して見せる。
「これからの仕事の予定や、空いてる時間が出来たら。プライベート用のスマホから連絡くれるって、そう言ってくれたんですよ」
「……そんなの、お前を喜ばせる為のリップサービスに決まってんだろ」
「七海さんはそんな嘘を吐く人じゃない。それを良く判ってんのは五条さん……アンタだと思ってたんですけど、どうやら違ったみたいですね」
「っ……!」
言外に『七海さんの事を何も知らないんだな』と言われているのを悟り、五条の眦がキッと吊り上がる。
一回り以上も歳の違う子供にマウントめいたものを取られた気がして、腸が煮えくり返る思いだった。
「あれ? もしかして五条さん、七海さんのプライベートの連絡先知らないんですか? あぁでもそっか、特に誰かに教える必要もないって七海さん言ってましたしね」
「……恵。お前、調子乗んのも大概にしとけよ」
怒気を隠さぬ唸るような低い声に、伏黒は年齢に似合わない冷めた笑みを浮かべると大仰に肩を竦めてみせる。
そうしてまたくるりと背を向けると、さっさと歩き出してしまった。
苛立ちを隠す事なく、しかし五条は無言でその背を足音荒く追い掛ける。
ややして視界の先に伏黒姉弟の住むアパートが見えてきた頃、不意に伏黒が足を止めて五条を再度振り返った。
「五条さん、七海さんに会わせてくれてありがとうございました。俺、強くなって、必ず七海さんに認めてもらえるよう頑張りますよ」
「…………」
「だから、」
一旦言葉を止め、伏黒は五条を真っ直ぐ見据えると、挑発的に笑ってみせる。
その顔は中学生になったばかりの子供ではなく、立派な『男』の顔をしていた。
「俺の邪魔はしないで下さいね? 俺、いつか必ず七海さんを手に入れますんで…ま、五条さんには何の関係もないし、そもそも七海さんもアンタなんて相手にもしないとは思いますけど」
「はぁ… 何だソレ、俺は、」
別に七海の事なんて、と。
そう続けて零せば伏黒は僅かに目を瞪ったあと、今度は憐れんだように眇めた。
「そっか、アンタのソレ、無自覚なんですね。まぁいいや、だったらその言葉―――」
忘れんなよ
そう一言、言い捨てて。
伏黒は形ばかり頭を下げると、さっさとアパートへと向かっていってしまった。
自室のドアを開けた伏黒の姿が見えなくなるまでその場に突っ立っていた五条は、やがて僅かに首を傾げて眉根を寄せる。
引っ掛かるのはそう、先程の伏黒の捨て台詞だ。
「恵の奴、七海が好き、なのか…? イヤ、それよりも僕が無自覚ってどういう……」
七海の事に関して矢鱈と突っ掛かってきた伏黒。
そこに紛れもない好意があるのは明白だった。
でもそれは自分には関係のない事で、ならばどうして自分はあんなにも苛々したのだろうか?
七海は確かに信頼出来る良き後輩だ。
一度は呪いから離れた彼が再び戻ってきてくれて、不謹慎とは思いながらもとても嬉しかったのは記憶に新しい。
そう、だって七海は昔からお気に入りの後輩で、自分にとっては特別可愛く思えて、それで、それで――?
「……あれ、待って。まさか僕…」
それ等の感情が示す先の答に思い当たり、五条は思わず掌で口許を覆う。
じわじわと熱くなる顔、恐らく今の自分は耳まで赤くなっているだろう事は想像に容易かった。
「……成程ね。僕、七海が好きだったのか…気付かなかったなぁ」
長い間積もらせていたであろう、自覚したばかりの恋心に五条は笑う。
だがそうなると、それを自分よりも遥かに子供な筈の伏黒にいち早く察知された事が酷く悔しく思えてならない。
「……恵の奴、なーにが邪魔すんな、だよ。俺に喧嘩売るなんて百万年早い、っつーの」
泣く子も無理矢理黙らせる事で名の知られるこの五条悟サマに、真っ向から宣戦布告を叩き付けてくるなんて。
全く本当に向こう見ずと言うか、はたまた命知らずと言うべきか。
「……良い度胸じゃん。その喧嘩買うぜ、恵」
相手が教え子だろうが子供だろうが容赦はしない。
先に喧嘩を吹っ掛けてきたのは向こうなのだ、だったらこちらも全力で応戦するのみ。
「さぁて、まずは僕も七海のプライベートな連絡先をゲットしなくちゃね。話はそれからだな」
止めどなく沸き上がる高揚感に、知らず知らず頬が緩む。
伏黒に多少の遅れは取ったものの、そんなもの今から幾らだって取り返せる、無問題だ。
「精々七海に甘やかしてもらうんだな、恵。俺は俺のやり方で七海を堕とすとするさ」
オトナに喧嘩を売った事、後悔させてやるよ
そう胸中で独りごちて。
五条は足取りも軽やかに、伏黒のアパートを後にしたのだった。
◆ 了 ◆