▽
砥石の音が部屋に響く。一抹の椿油を垂らす。
研ぎ澄まされた刃が机に並べられ、ランタンの明かりで煌めいている。
静寂に包まれた闇夜に一人、部屋の中でナイフの手入れをするのがクレオの日課となっていた。
皇帝の位を簒奪したゲイル・ルーグナーによる継承戦争が終わりを迎えてからというもの、クレオはテオ・マクドール直々の命により戦線を退き、マクドール邸に身を置いている。どこよりも安全であったはずの帝都で発生した五将軍嫡男の誘拐は、戦争の影に隠れ大事にはならなかったが、黄金の都と称されたグレッグミンスターの名に傷を付けるには十分な出来事でもあった。
二度と同じことを起こさぬよう、せめて息子が成人するまで家を守ってはくれないかと乞われ、尊敬する将軍の願いならと、クレオはそれを了承した。
二つ返事で快諾したものの、始めは家政婦の真似事をさせるのかと落胆した。今はその考えを改め、武術の腕を磨きながらこの家を守っている。
戦地に赴くことが無くなったとはいえ、クレオはテオ直属の配下である認識を変えたことはない。それでも、予想以上に懐いてきたテオの息子・ティアに、予想外に家事炊事に手慣れていたグレミオに、毎日一つ屋根の下で過ごしていると家族という繋がりが芽生えた。この家を預けられていることをつい忘れそうになるほどに。
彼らとの関係はクレオにとって酷く心地良く、今はティアの日々の成長を見るのが楽しみでもあった。
だからこそ一人になったこの時間に、人を殺めるだろう武器を目を盗むように手入れするのが日課になった。むしろより一層、この時間を大切にするようになった節すらある。
この家を守る。しかしそれは、既に命令など無くてもクレオが望んでいることでもあった。
ある日、静まり返った室内に遠慮がちに扉が叩かれた。
「……クレオ、入ってもいいかな」
静かではあったものの、この部屋へと歩み寄る音は聞こえていた。それが耳に馴染んでいた足音だったために、何の警戒もしていなかったというだけだ。
「どうぞ。……どうしたんですか?」
声の主であるティアは、ゆっくりと扉を閉めた後に、にこりと笑んで見せた。
「クレオ、いつも夜に何かをしているから、見てみたくて」
「それで態々、ベッドに入ったのに狸寝入りをして、皆が寝静まるのを待っていたんですか? 全く。グレミオが聞いたらさぞ怒るでしょうに」
「正直に伝えたところで拒否されて寝かされてしまうだろう? 見たらすぐに戻る。……大丈夫だよ」
最後に呟いた言葉は、こちらの身を案じるものだろう。今ここにティアがいることがグレミオにばれてしまったら、己と共に小言を貰ってしまうことを察している。まだ十にもならないほど幼いというのに、周囲の人を見る目は聡い。どことなく父親の血を感じられて、クレオは眉根を開いた。
「坊ちゃんは楽しみにしていたのだと思いますが、ほら。ただのナイフの手入れですよ……面白くないでしょう?」
「そんなことないよ。とても綺麗だ」
腰掛けていた椅子から立ち上がるのと同時に、ティアは先程までクレオが磨いていたナイフが並べられた机に駆け寄った。食い入るように見詰める姿に思わず次いで出た言葉を、否定される。
「僕は未だ未熟者で、その上扱うのは棍棒だ。それでも、このナイフが手間をかけられたものだと察するし、クレオが手入れを粗雑にしていないことだって分かる」
言いながら、ティアは一つのナイフを手に取った。玩具のように扱う子ではないことは分かっている。クレオはそれを止めることなく、ティアの為すがままにさせた。ランタンの火に掲げた。
灯りの落とされたマクドール邸は、この街と同化するようにひっそりと闇夜に包まれている。そんな中で光を受ける刃物の煌めきは眩しくすら感じられた。角度を変えて何度か刃を見回した後、ティアはそのまま元の場所へと戻した。
「クレオの大切なものを見せてくれてありがとう」
「大切だなんて……ナイフはナイフですよ」
「だって、クレオはその武器で、僕を守ってくれるんでしょう?」
僅かに眉尻を下げて笑いかけたティアに、クレオは思わず目を丸くしていた。ともすれば護身用だと思われても仕方が無い、刃渡りが然程長くもない刃物だった。それを武器と称したティアに、クレオはかける言葉が見付からなかった。
今となっては最初から手に馴染んでいたように思えるこの武器を、始めから選んでいたわけではない。
女だてらにと悪口を言われながらも日々鍛錬をしていたあの頃。家の名を持たぬ一兵卒、とりわけ性別が女であるが故に妙な者に絡まれることも少なくはなかった。長剣が使えないわけではなくむしろ上手く扱うほうではあったが、それを気に入らない輩に因縁を付けられることも多かった。
見かねたテオが、投げナイフを使ってみないかと言い出したのが発端だった。
瞬発的な力で相手の急所を狙うことができるその武器は長剣よりも使い勝手が良く、始めは隠し球のように使用していたのが今はこればかり使ってしまっている。
玩具だと揶揄されることも少なくはなかったナイフを、ティアは迷うことなく武器だと言った。それが、こんなにも嬉しいとは思いもしなかった。
「坊ちゃんには敵いませんね」
「……気を悪くした?」
「いいえ、とんでもない。こんなに褒めても何も出ませんよ」
そう素直に告げると、ティアは先程までの口振りが嘘のように、満面の笑みを浮かべた。
相も変わらず闇と静寂に包まれている屋敷に、足音が響く。
家主であるティアが、子供の治療のためにグレッグミンスターへとなんの音沙汰もなく戻ってきた。しかも、隣国で起きている戦争の首魁を連れて。
夜も更けそうな時間にこのまま帰らせることもできず、ティアがリアンとナナミを屋敷へ泊まらせることに決めたのが数刻前のことだった。皆が部屋に戻り寝静まってからしばらく経過していた。
記憶よりも音を殺していないその所作に、クレオは思わず口角が上がった。
手入れをしているときにやってくる、何よりも守りたかった大事な子。ここで出会うのもかれこれ数年ぶりだった。
「開け放しているなんて不用心だな」
律儀に部屋の入口で声をかけてきたティアに、クレオは笑った。
「ずっとひとり身だったもので扉を閉める文化が抜け落ちました。どうぞ」
許可を受けて傍に寄ってきたティアは、ナイフに油を垂らしている様子を何も言わずに見詰めている。布切れで刃全体を拭きながら、一つ一つをシースに収めていく。
「……面白いものではありませんよ?」
「面白いさ。クレオが武器の手入れをするところを見るの、好きなんだ」
クレオは最後の一本をシースに納めながら、苦笑した。
十年前からずっと、ナイフの手入れをする様を何故かじっと見ていたティアが今も同じ言葉を口にしたからだ。
きっとティアは、覚えてはいないだろうけれど。
「あら、それは光栄ですね」
満更でもなさそうに、クレオは胸を張って見せた。