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    sabasavasabasav

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    「幸せだった頃」。ワンドロワンライ久々の参加でした。坊ちゃんの誕生日の話。マクドール家。テッドと出会う前。

    #幻水小説

                  ▽


     夕暮れの気配が屋敷の敷地を包み始めていた。燃えるような西日が中庭の石畳を赤く染め、風に揺れる枝の影が長く伸びている。鍛錬場として使用している草原に立つ少年の背に、その光が静かに降り注いでいた。
     ティア・マクドールは長棍を両手に構え、ひと息ごとに型を繰り出していた。その動きは派手さこそないものの、無駄がなく、丁寧に積み重ねられた日々を感じさせるものだった。
     額から滴る汗が顎を伝い、地面に落ちる。数度、呼吸を整えるように目を閉じたティアは、やがてゆっくりと棍を納めた。
    「……ふう」
     肩で息をしながら、ティアはゆっくりと体を起こす。決して軽い疲労ではなかったが、それも心地よい。今日はやけに集中できていた気がする。だが、それはきっと、何かを押し込めるための集中でもあったからだ。
     今日は、自分の誕生日だった。従者たちに何度か「欲しいものは?」と尋ねられたが、曖昧な笑みを浮かべただけで話を逸してしまった。冗談を交えて誤魔化すのは、もはや癖のようなものだ。
     ――本当は、望みがある。でも、口にはできなかった。
     ティアの心の奥には、ただ一つの願いがあった。皆と一緒に、穏やかに食卓を囲みたい。そして、その輪の中に父がいてくれたなら。それ以上を望むことはない。
     しかし、テオは今、遠征で家を空けている。軍務は厳しく、いかに百戦錬磨の将であっても、自由に動くことを許されてはいないだろう。
    「戻るか……」
     棍を手に、屋敷へと歩みを進めた。堅牢な煉瓦造りの邸宅は、夕日に染まりながらも、どこか安心感を与える佇まいだった。重厚な扉の前に立ち、扉を開けようとした瞬間――
    「坊ちゃん、おかえりなさい」
     声の主はグレミオだった。相変わらずエプロンを身に着けており、ティアの姿を見るなり駆け寄ってきた。
    「ただいま」
    「鍛錬に勤しむのは良いことですけどね。誕生日くらい、休んでも……」
     そう言いかけて、グレミオは少し目を逸らす。そして、どこか意味ありげな微笑を浮かべた。
    「そうでした。坊ちゃん、来客がお待ちですよ」
    「……えっ? 僕に?」
     不思議そうに眉をひそめながら屋敷へ入ると、そこにいたのは――
    「……父さん?」
     ティアの声が震えた。
     玄関の明かりの下、そこには鎧姿のままのテオが立っていた。銀の武具が淡く輝いている。
    「どうして……ここに?」
     驚きと喜び、混乱が入り混じった表情でティアは足を止めた。
    「今日はお前の誕生日だろう」
     テオはそう言って微笑んだ。僅かに疲労が見え隠れするが、その眼差しは変わらぬ厳しさと、どこかに深い優しさを宿していた。
    「北方に遠征中だったはずでは……グレッグミンスターまで戻るのは大変だったでしょう?」
    「正直に伝えるならば、多少の無理はあった。だが、私にはここに戻る価値があった。ただそれだけのことだ」
     ティアの胸に熱いものがこみ上げてきた。
     どうして言葉にできなかったのだろう、この想いを。
     ただ、目の前の父がここにいる――その事実だけで、胸が満たされていくのを感じていた。


     夕食の準備が整った食卓には、パーンとクレオの姿もあった。テーブルにはグレミオ特製の料理が並び、暖かい湯気と香ばしい香りが室内を包んでいた。
    「坊ちゃん、これはグレミオの自信作ですよ。野牛のシチュー、昨夜から煮込んでいたんです。坊ちゃんのお好きな味に……ああ、テオ様のお口にも合えば良いんですが……」
     グレミオはいつものように落ち着かない手つきで料理を勧めながら、ティアの肩越しにちらちらとテオの様子を窺っていた。
    「坊ちゃん、さっき鍛錬してるところを通りすがったんですが、見事なもんでした。今度俺と手合わせでもどうです?」
    「パーン、あんたが教えるとまた〝力技〟になるでしょ。坊ちゃん、もっと丁寧な動きをする人に頼んだほうがいいですからね」
    「なら、クレオが教えればいいだろう」
    「残念だけど、私は飛び道具使いだよ」
     ティアは皆のやり取りを見てふっと笑った。思わずこぼれた笑みに、自分でも少し驚く。けれど次の瞬間、胸の奥がじんわりと温かく満たされていくのを感じていた。
     テオは無言で杯を傾けながら、しばらく息子の顔をじっと見ていた。そして不意に、グラスをテーブルに置いた。
    「ティア」
     名を呼ぶ声に、場が一瞬だけ静まった。皆の視線が集まる。
    「こうして顔が見られて、本当に嬉しい。……随分、立派になったな」
    「そんな……僕は、まだ」
     言いかけて、ティアは口を噤んだ。
     ——本当は、まだ。
     父の手で頭を撫でられたかった。声にならない甘えが、ほんの一瞬胸に灯る。
     けれどそれを口にするには、自分はもう歳を取りすぎていた。帝国の将軍の嫡男として、皆の前で求められるのは、子供ではなく、未来を託すに値する男の顔だ。
     だからティアは、黙って微笑んだ。ただ、どこかぎこちなく。
    「いや。お前は、もう私の背を追いかけるような子供ではない。……誇らしいよ」
     ティアは言葉を失った。テオの眼差しには、確かな温かさと、少しの寂しさが滲んでいた。
    「テオ様。坊ちゃんは本当に……立派に育ちました」
     グレミオの声は少しだけ震えていた。
    「私たちは成人の儀まで、変わらず坊ちゃんをお守りいたします」
    「クレオと同じく」
     クレオとパーンが静かに言った。
     ティアは何も言わずに頷いた。その瞳は、誰にも見せない強さと、まだ名もない不安を宿していた。
     この時間が、ずっと続けばいい――心の奥底で、誰にも言えない願いが、生まれては消えていった。
     笑い声が、どこか遠くで響いている。
     食器の触れる音。灯りの揺れ。家族の影。
     柔らかな温もりが肌を撫でていく。
     ……それが少しずつ遠ざかっていくことに、ティアは気付いていなかった。
     足音が、どこかで微かに響いた。
     椅子が軋んだような音。窓の外で風が何かを叩いている。
     湯気の香りが薄れていく。
     息が白むほどではないはずなのに、背筋を寒さが這い上がった。
     目の奥が重く、額に冷たいものが触れていた。
     ぬくもりが、崩れていく。
     それでもまだ、心は夕餉の温かさに縋ろうとしていた。
    「ティア殿」
     静かな声が、耳の近くで響いた。
     ……次の瞬間、瞼の裏が瞬きのように淡く開き、視界がぼやけながら現れる。
     石でできた、見覚えのない天井。長年見慣れた自室のものではなかった。
     ティアは、ようやく現実の中に己がいることを悟った。
     湿った布が額にのっている。手を動かそうとすると、筋肉が鈍く痛んだ。
     現実が、夢の膜を静かに剥がすように、輪郭を取り戻していく。
     遠ざかった食器の音。父のあたたかな眼差し。誰かの優しい声。
     けれどそれらは、全て過ぎ去った。もう、戻らない。思い出すことすら、痛みに変わる。
     それでも、胸の奥でささやかな願いが微かに残っていた。
     忘れたくない。あの時間を、あの温もりを。
     でも——その想いに囚われていては、立っていられない。
     ティアは目を伏せたまま、拳をそっと握った。その僅かな力に、心が引き裂かれるような痛みが走る。
    「……ティア殿」
     再び呼ばれて、ようやくティアは顔を上げた。
     療養室の天井。人気のない空気。
     マッシュが、椅子に腰かけてこちらを見ていた。
    「……ああ、マッシュ。もう起きてる」
     掠れた声が、唇の端から漏れた。
     起き上がるにはまだ体が重すぎた。全身に鉛を詰められたような痛み。
     だが、意識ははっきりしている。戦場の匂いも、剣の感触も、まだ皮膚に残っていた。
    「あなたはテオ・マクドールとの戦いの後……重傷を負い、意識を失っていました」
     その言葉と共に、記憶が一気に押し寄せる。
     戦場。肉親との一騎打ち。刃を交えた末、自らの手で父親の命を奪った。夕餉を囲んだ笑顔は、もう手の届かない場所にある。大切だったその温もりを、自らの手で切り捨てた。
     それでも、進まなければならない。
     ティアはゆっくりと息を吐き、視線を前に向けた。
     軍の長としての意志が、静かに宿る。
    「……帝国の動向を報告しろ」
     その声には、少年の影はなかった。
     ただ静かに、命を背負った者の声が響いていた。

        
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