その9 【一方その頃のコルベ】※時系列的に、ヨレンタが異端審問所から脱走した翌日の話です。※
コルベはいつも通り、ピャスト伯の天文研究所に出勤した。
割り当てられた研究室の扉を開ける。
『”おはようございます!コルベさん。”』
と真っ先に挨拶してくれるヨレンタさんが今日はいなかった。
「? ヨレンタさんは今日は休み?珍しいな……。
休みの連絡は貰っていないのだけれど。」
『あぁ!そう言えば今日は来ていないですね!』と、一緒にいた研究員が大げさに首を傾げた。
『まぁ、そういう日もあるんじゃないですか?』と続けて誤魔化した。
何だか、ソワソワしている。彼は何かを隠しているみたいだ。
「言いたい事があるなら、私に言いなよ。」
コルベは、研究員に声をかけた。
彼は、顔を背けて早口で答えた。
「い、いえ……。何でもないです。じゃあ、僕は仕事があるんで、失礼します!」
研究員は逃げるように、去っていった。
(「? 妙だな……ヨレンタさんに何かあったのか?」)
このところ、コルベには気になることがあった。
それは、ここ最近になって、頻繁にヨレンタさんの様子がおかしいことだった。
以前なら、コルベを見かけると嬉しそうな顔で近寄ってきてくれたのだが、
ヨレンタの論文をコルベ名義でピャスト伯に提出してからは、
避けられているのか、あまり姿を見掛けない。
***(5/5追記)
(――配属された頃の彼女は、初々しかった…。)
コルベは、”素直で可愛かった”頃の彼女を回想した。
「ヨレンタ君。ちょっと、
聞きたいことがあるんだけれど。」
コルベは、図書館にいるヨレンタを訪ねた。
「――ヨレンタ君、探してほしい資料があるんだ。」
「はい、何でしょう。」
「ええと、ダンテの叙事詩『神曲』の天国篇に出てくる”惑星に関する資料”について、だ。」
「は、はい!」
「月・太陽・木星などの各遊星天が、地球のまわりを同心円状に取り巻く様子を図に……。」
「え。ええっと……。」
「ん、ヨレンタ君、どうしたんだい?」
ヨレンタが、何だかもじもじしていた。
その様子を不審に思い、コルベは聞いた。
「あの……いえ、何でもないです!!」
*****(5/9追記)
「……え。ええっと……。」
ヨレンタが言葉に詰まったのは、頼まれた資料が難解だからではなかった。
ヨレンタは小さく膝を揺らし、視線をコルベの胸元に落としたまま、唇を結んだ。
(……まずい、行きたい。でも、今このタイミングで言い出すのは……。)
コルベの澄んだ声が響く。
「ん?、ヨレンタ君。どうしたんだい?」
彼女は首を横に振った。
「い、いえ! 何でもありません!」
だがその声はわずかに上ずり、姿勢は不自然に固く、足元では両足の踵がこすれ合っていた。
その原因は、ヨレンタが日々直面していた、ある“問題”があった。
【閑話休題:ヨレンタのトイレ問題】
ヨレンタは初の女性研究員だった為、勤務初日に、デリケートな問題にブチ当たった。
このピャスト伯の天文研究所では、(15世紀の中世ヨーロッパの屋敷なので、現代と比べると)トイレの数が少なかった。
そして男性研究員たちは、自分の研究室に、各自、小型の携帯おまるを持ち込んで、そこに用を足していた。
だが、ヨレンタは“女性”であるという理由で、その慣習から外されていた。
「女性は、屋敷の奥にあるトイレ塔の、使用人用トイレを使うように。」
初出勤の日、ヨレンタは、案内係の研究員からそう言われた。
トイレ塔は、とても遠かった。
「何故ですか?!」
ヨレンタは抗議した。
「女性用トイレは、この屋敷にはトイレ塔の一か所にしかない。それに君は女性だ。
風紀を乱すだろう?だから、おまるの持ち込みも許可出来ない。」
「……――はい。」
ヨレンタは悔しさから唇を噛んだ。
トイレ塔――それは、ピャスト伯の広大な屋敷の最深部にある。
図書館も備えた研究棟から中庭を越え、さらに廊下を二つ抜けた場所にある、川に面した石造りの塔だった。
往復だけで少なくとも、二十五分はかかった。
ヨレンタは毎回、走った。
それでも、三十分くらい勤務が中断してしまう。
勤務時間中に席を外すことへの無言の圧力。
ましてや女性は研究所でも彼女一人。
(だから……水も、できるだけ飲まないようにしてるのに……!
こんな事で、天文学を諦めたくない!)
ヨレンタは、唇を噛みしめた。空腹と脱水と緊張で、すでに視界がにじんでいる。
それでも彼女は、コルベの顔に目を戻し、無理に笑顔を作った。
――この程度、我慢できないと、女性が研究なんて無理だって、言われてしまう。
――コルベさんには、余計な心配かけたくない。
「じゃあ……探してみます。図は……ええと、木星の……あたり……から……」
言葉が遠のいていく。
コルベは、不審に思ったように、彼女をじっと見つめていた。
++++(5/11追記)
【近くのトイレを使わせてあげる上司コルベ】
「……ヨレンタ君。どうしたの?」
コルベの声が、少しだけ低くなった。
彼は手にしていた写本をそっと閉じ、彼女の肩に視線を合わせた。
ヨレンタの身体は小刻みに震えていた。
「君、……何か、我慢しているね?」
ヨレンタは、ビクリ!と肩を揺らした。すぐに首を横に振ろうとしたが、その動きは途中で止まった。
「……すみません。私、大丈夫です。すぐ戻りますから……っ!」
ヨレンタはそう言って、去ろうとした。
だが、重心が定まらず、よろける。
「おっと」
コルベは、彼女の肘を支えた。
「……どこへ行くつもり?」
言葉に詰まるヨレンタ。
「……ト、トイレです……。あの、奥の、塔の……」
だがその一言で、すべてを理解したコルベは、眉をひそめた。
「……塔?まさか!、毎回、あそこまで行っていたの!?」
「……はい。」
その瞬間、コルベの目の奥で、何かが鋭く光った。
「……何で?」
「女性用のトイレが、奥の塔の使用人用トイレしかないから……です。」
「知らなかった。なんてことだ……。」
だが彼は、すぐに穏やかな声に戻して言った。
「――僕の書斎を使いなさい。」
「え……?」
「図書館のすぐ近くだ。二階の西側の隅、あそこに私の書斎がある。近くにトイレもあるし、鍵もかかる。今後、困った時は、そこを使えばいい。」
ヨレンタは、ぽかんと口を開けたまま、言葉を失った。
「でも……それは……規則では……」
「規則?ははっ、君は、そんなものを気にしていたのか。」
コルベは、鼻で笑った。
「じゃあ、これは命令だ。ヨレンタ君。今から、私の書斎の小部屋に行きなさい。そこで、おまる(携帯便器)を使えばいい。これは、君の研究効率の向上のため、つまり――天文学の未来のため、だ。」
その言い方に、ヨレンタの目が大きく見開かれた。
瞬間、彼女は カァアアッ!と頬を紅潮させた。
(――は、恥ずかしい!! けれど……!お礼を言わなきゃ!!)
「コルベさん……ありがとうございます……!」
コルベはそれを見て、ふっと微笑んだ。