ラジオ体操で繋がる夏尾 夏休み! 俺の大好きな期間!
高校生になった今年は、恋にバイトに大忙しだぜ! と思っていたんだけど、夏休み初日にその予定は総崩れした。俺の予定では五月から始めたバイト先の、ちょっと気になる一つ上の先輩と仲良くなっちゃったりして、どうにか七月の終わりにある花火大会に誘ってみたりしちゃって、それをきっかけに海やプールやあれやこれやと出掛けちゃったりなんかして! と思っていた。
先輩と仲良くなるところまではできたんだ。できたんだけどさ? まさかその先輩が店長にセクハラされてるところを目撃しちゃってさ? 止めに入った俺と店長で大喧嘩した挙句、俺も先輩もバイトをクビになるわ、連絡先を聞いていなかったから先輩とやりとりできないわで、全ての予定がなくなるなんて思わないじゃん。思っていなかったよ。
グッバイ、俺の忙しいはずだった夏休み。ハロー、何の予定もない夏休み。
九月一日までずっと寝ていようかと思ったけど、習慣って怖いね。朝の六時半になると俺の体は家の隣にある公園に吸い込まれていく。これは小学生からの習慣で、夏休みの朝はラジオ体操をしに行くのだ。
「新しい朝がきた」
なんて歌われてしまうと、俺は「希望の朝だ」と歌い返してしまう。小学生のときは亀蔵と二人で通っていたけど、中学生になってからは俺一人になってしまった。スタンプを集めて景品をもらうのはやめたけど、それでもラジオ体操をしないと夏休みの朝は始まらない。
俺はあくびをしながら公園に入る。係のおじいちゃんや集まってきた小学生に挨拶をしながら、空いてるスペースを確保した。それから道を挟んだ向かいに建つマンションを見上げる。今日もまた、ベランダからこちらを眺めるお兄さんが一人いた。
何してる人なんだろうな。毎朝毎朝、飽きずにラジオ体操する人たちを見下ろす。たまにコーヒーを飲んでいたり、パンを食べていたりするけど、今日は何も持っていないようだ。あー、お腹空いてきた。
ラジオ体操が終わったら朝ごはんを食べるのも昔からの習慣だ。本当はラジオ体操前に食べたいんだけど、そこまで早起きはできない。ご飯炊いてあったかな。目玉焼き作って食べようかな。そういえばドーナッツがあるって言ってた気がする。そうだったらそっちがいいな。
俺は朝からドーナッツが食べられる喜びに胸を開きながらラジオ体操をした。
ラジオ体操が終わるとやることがない。なんと、高校生になると夏休みの宿題がないのである! これは知らなかった。すごい嬉しい。読書感想文とか日記とか自由研究自由工作ドリルだワークだプリントだ、そういうものが一切ない! マジで恋にバイトに大忙しってことができたんだな。ま、今の俺には関係ない話だけど。はー、悲しい。
家でゴロゴロしていたら母さんから買い物メモを渡された。暑くなる前に行ってこいって言われたけど、もうすでに暑いだろ。なんて文句を言ったら昼飯がなくなるので、俺は麦わら帽子を被って外に出た。母さんの電動自転車を借りよう。前と後ろにカゴがついてるのはダサいけど、電動の楽さに抗えない。
スーパーの開店時間である朝九時から買い物に来る客なんて俺以外いるのかよ、と思ったらまあまあな人数がいた。そりゃそうだよな、みんな暑くなる前に買い物したいよな。カートにカゴを乗せて買い物メモを広げる。ついでに夕飯の食材と明日の朝飯も一緒にメモされてるな? まずは卵……と思って移動しようとしたら、突然足をカートに軽く轢かれた。
軽く、といっても素足の踵にカートの車輪がぶつかればまあまあ痛い。
俺は文句の一つでも言ってやろうかと振り返る。相手はカートの下段に置いたトイレットペーパーと箱ティッシュを引き抜こうとしたときに、勢い余って俺の足を轢いたようだった。見れば上段にも丸々とした袋が三つ、狭そうに身を寄せ合っている。
これ、一人で持つのだろうか。持つんだろうな。誰かと来ているなら、その人が一緒にいるだろうし。自転車か車で来たのかな。そこまで運ぶのなら手伝ってもいいかな。
「あのー、大丈夫ですか?」
俺は思わず声をかけた。顔を上げたその人は、弾みでトイレットペーパーを床に落とした。
「あ」
「あ」
こんなに近くで顔を見るのは初めてだったけど、毎朝ベランダからラジオ体操しているのを眺めているお兄さんだ。相手も俺の顔に見覚えがあったらしい。そらそうか。こっちから見えてるってことは、あっちからも見えてるってことだもんな。謎の気まずさを感じながらも、俺は伸ばした手を引っ込めることもできず
「よかったら運ぶの手伝いましょうか?」
と、予定通りの言葉を口から出した。
お兄さんは俺の顔とカートいっぱいの荷物を見比べる。断りたい気持ちと、誘いに乗りたい気持ちが半々のようだ。顔は知っていても、それ以外のことは知らない他人だもん。荷物を持ち逃げされる可能性もあるわけだから、返事が慎重になるのは分かる。
「あー、どこまで……」
お兄さんの質問に俺は首を傾げた。
「え? 自転車とか、車で来てるんじゃないですか?」
「……徒歩で来た……」
「え! 徒歩でこの量を……?」
すぐそこの駐輪場や駐車場までの距離でもなかなか重そうなのに、これを家まで? お兄さんの家は知っている。俺の家の斜め向かいにあるマンションだ。自転車だと五分だけど、徒歩となると十分はかかる。
「ええと、あー、じゃあ、俺、チャリで来たんで、ちょっと待っててください。買い物してくるんで、一緒に帰りましょ」
お兄さんが驚いた顔をしたまま頷いたのを見て、俺は大急ぎで買い物を済ませた。どこに何があるか大体分かっていてよかった。俺史上最速の買い物だ。スーパーの出入り口付近に設置されたベンチに座って待ってもらったお兄さんの元に戻ってくると「早いな」と褒められた。
前にも後ろにもカゴがついている母さんの自転車借りてきてよかった。ネットで押さえるほど買い物するのかよって思っていたけど、あれがなかったらお兄さんの菓子パンがいくつか落ちていたかもしれない。ありがとう母さん、今までこっそりバカにしててごめん。
ハンドルにもビニール袋を二つぶら下げているので、気を抜くと持っていかれそうになる。お兄さん、この量の荷物を一人で抱えて歩いて帰るなんて結構難しかったよ。
「ありがとな」
「いえいえ、どうせ家近いですし」
「…………」
「あ」
俺はお兄さんの家を知ってるけどお兄さんは俺の家を知らないのに、とか、確かに知ってはいるし向こうだって知られているのは分かっているだろうけどそれをわざわざ言わなくてもよかったな、とか、無言のお兄さんを見てそういうことが頭を駆け巡った。
知らない人に家を知られてるって怖くない?
「そういえばそうだな」
「ええと、その」
「お前んち知ってるぞ。公園横の一軒家だろ」
「!」
ニヤリ、とお兄さんが笑った。
「ラジオ体操終わって帰るのを何回か見てる」
「あー……そうだったんですね」
なぁんだ。お互いにお互いの家を知っていたのか。じゃあいっか。
先に俺の家に荷物を置いてから、お兄さんのマンションに入る。外観は見ていたけど、中に入るのは初めてだ。オートロックのエントランスを抜けてエレベーターホールに立つ。
「なんか、変な感じです」
「変?」
「だって、俺、お兄さんの名前も知らないのに」
家に買い物袋を運ぼうとしている。
並んで立ったお兄さんを見上げた。
「尾形百之助」
「え」
「名前。知ればいいんだろう?」
「あ、そうですね? 奥山夏太郎です」
お兄さん改め尾形さんがトイレットペーパーを持った手を差し出してきたので、俺も箱ティッシュを持った手を差し出して握手した。やっぱり変な感じだ。