もっといっぱいください!「へー、血液パックの宅配もやってんだ……」
俺がスマホでぽちぽち見てるのは亀蔵に勧められた「マッチョバー」の公式サイトだ。何でもそこで働いているのは筋肉隆々のマッチョたちで、店ではその人たちの血液を提供しているらしい。
男の人しかいないかと思ったけど、女の人もいるんだな。前からマッチョの血液は美味しくて栄養満点とは聞いていたけど、何だか手が伸びなかったのは気軽に買える場所に店がなかったのと、なんとなーく飲んだら自分もマッチョになりそうで二の足を踏んでいた。
マッチョになるのが嫌っていうか、マッチョになって制限がかかるのが嫌というか……。両腕が閉じれないとか、着れる服が限られるとか、注射の針が入りにくいとか聞いていて、えー、じゃあソフトマッチョぐらいがいいなぁ、と思っていたのだ。まあ、今はソフトマッチョを目指している最中だから、多少のマッチョ成分を取り入れたところで問題はないんだけどさ。
そんなわけで「気になるけど、いっかなー」と思っていたマッチョバーに、亀蔵が昨日行ってきたらしい。誘えよ! と怒ろうと思ったけど、俺は昨日バイトだったのでどのみち行けなかった。行けなかったからいいんだけどさ、一言かけてくれてもよかったじゃん、とぶすくれたら、
「お前興味ないって言ってただろ」
と返されてしまい、頭を下げるしかなかった。そうです、俺は興味ないって言いました。言いましたよー!
亀蔵的にはまた行ってもいいと思えたみたいで、公式サイトのアドレスを送ってくれた。行くなら予定合わせるぞ、と言ってくれたので、俺はサイトを見て予習しているわけだ。とはいえ今のところ行く気はあんまりない。
微妙に遠いんだよな、と思っていたら宅配サービスの文字を見つけた。ページを開くとバイクに乗るマッチョの写真が出てきて、いくつかコースがあることを教えてくれる。
一番安くてスタンダードなコースは、店で提供している血液パックを持ってきてくれるやつ。指名料を上乗せすると、好きな店員マッチョの血液パックが買えるらしい。それよりお高いコースになると、マッチョが目の前で採血してくれる。もちろんこれも金さえ払えば好きなマッチョが選べるし、何なら衣装指定とかシチュエーション指定もできるようだ。
そこまでいくといかがわしさがすごいけど、ゼロの数がすごいことになっている。これ大丈夫なの? 違法じゃない? まだ法整備が整ってないからってやつ? と思いながらマッチョリストを眺めた。
とはいえなぁ、別にマッチョが好みなわけではないし。とりあえずスタンダードコースで味見的な……ってなんで注文する頭になってんだ? 違う、俺は別に、マッチョがいいとか好きとかじゃなくて美味しいとか栄養満点とかそういうのが気になってるだけで、別に別に好みのマッチョ店員がいたわけでもなんでもない。だから別にそんな全く俺は違う興味がうわあああああ!
ピンポーン、とチャイムが鳴って、俺は玄関ドアを開ける。ドアの前に立っていたのはジャージ姿のお兄さんだ。大きな黒目でじぃ、と見られて、俺は思わず唾を飲み込んだ。
「ご注文の血液パックでぇす」
「ども……」
えー、実際会うとあんまりマッチョ感ないっていうか、何だろう、お店の写真によく出てきてた人がもっとマッチョだったから、このお兄さんは細く見える。でもこのジャージの下にはムキムキな筋肉が隠れてるんだよなぁ。こういう感じの筋肉なら俺も欲しいかも、なんて。
全身を舐めるように見ていると、お兄さんが俺の顔の前に一枚の名刺を出してきた。
「ヒャクさん……?」
「そう。次は指名してくれると嬉しいです」
「あー、はい……」
指名すると指名料の%が返ってくるのかな。ヒャクさん。名刺の端っこに猫の絵が描いてあって可愛い。まぁ、血が美味しかったら考えないこともないかな……なんて思いながら俺は血液パックを受け取った。
亀蔵はまた店に行ってもいいって言ってたから味はそれなりにいいんだろうけど、完全栄養食を謳い文句にしている他所の血液パックは味がイマイチだったから警戒していた。
いたんだけど、なるほどマッチョの血は確かに美味しい。なんていうか、本当に健康な人間の血です! って感じ。
作り物じゃない、天然物って感じというか……。処女や童貞の生き血は高価だけど、マッチョの生き血はありかもなぁ。亀蔵がまた店に行ってもいいって言うの、分かるかも。ちょっと悔しいけど美味しい。
まとめ買いするのありかもな〜。そうなると送料よりは電車賃の方が安いから店に行くのもあり。なんて考えながらヒャクさんからもらった名刺を眺める。
宅配だと目の前で採血してくれるんだよな。目の前で……採血……。針が刺さった腕から注射器に吸い込まれる血液と、ヒャクさんの顔を想像してしまった。ヒャクさんは針が刺さる瞬間、どんな顔をするんだろうか。慣れてるのかな。痛いって顔をするのかな。抜きたての温かい血が飲めるのもいいよな。
俺はもう一度マッチョバーのサイトを検索する。うー、目の前で採血コースはやっぱり可愛くないお値段する。する、けど、でも、俺は、別に、でも、うううううううう!
ピンポーン、とチャイムが鳴って、俺は玄関ドアを開ける。ドアの前に立っていたのはジャージ姿のヒャクさんだ。結局俺はあれからバイトを増やしてマッチョバーの宅配採血コースを注文した。してしまった。するつもりはなかったんだよ! でも気づいたらぽちってしてたんだよ! うわーん、俺の意思ゲロ弱〜!
「どーも」
「ども……」
相変わらずヒャクさんの黒目は大きくて、その瞳に見つめられると俺はどうしても壁際に寄りたくなる。目を逸らしたいのにそらせない。
毎日サイトでヒャクさんの写真を見ていたから、その人が今、目の前にいるのって変な感じだ。しかも俺んちに上がるんだぜ? そういうコースを注文したからそうなんだけど、やっぱりなんか変な感じだ。
一週間かけて家の中は大掃除を済ませた。今日だって掃除機をかけたし埃も払った。ゴミ箱の中身も空になっている。ヒャクさんが突然トイレに行きたくなっても大丈夫なようにそこも掃除したし、何があるか分からないからキッチンだってピカピカにした。
ヒャクさんのために座布団も新品を用意したので、そこに座ってもらう。改めて、ヒャクさんが俺の家の中にいるのが不思議な光景すぎて、写真撮りたくなってきた。ダメかな。料金表にも注意書きにも写真のことは書かれていなかったから、もしかしたら、頼んだら、一枚だけなら。
「先に、料金いただきますね」
「あ! ハイ!」
俺はテーブルの上に置いていた封筒をヒャクさんに渡す。中身を確認して、ヒャクさんはそれをカバンに仕舞った。代わりに出できたのは短いベルトと注射器だ。
ついに目の前で血が抜かれるんだと思うと、急に口の中が乾いてきた。
心臓がばくばくとうるさい。
「お客さん、目が」
「え?」
「すごいギラついてますけど」
「わ、あ」
「噛みつかないでくださいね?」
そう言ってヒャクさんは少し笑った。
噛みません! 絶対に!
俺は首を縦に何度も振る。はは、と声を出したヒャクさんがジャージのチャックを下げた。少し大きめサイズのジャージだったからヒャクさんの体の線が誤魔化されていたんだけど、脱ぐとやっぱり引き締まった体をしていて、俺は思わず唾を飲み込んだ。ごくり、と喉が鳴る。
黒のTシャツの下ではっきりと主張する胸筋に、半袖から伸びた太い上腕。ヒャクさんの肌は白いので、Tシャツとのコントラストで目がチカチカした。
「採血コース、初めてですか?」
「は、はい……というか、その、宅配血液もこの前が初めてで」
「そうなんですね。……俺の血、美味しかったですか?」
ベルトを腕に巻くヒャクさんと目が合う。
俺はヒャクさんから目を逸らして、また戻して、もう一回逸らして、それからゆっくりと頷いた。指名注文してるんだからバレてるって分かってるんだけど、どうしても恥ずかしかったからだ。
「それは良かった」
腕の内側をふにふにと押したヒャクさんは、にっこりと笑いながら注射針を刺した。
あ、血が。
ヒャクさんが内筒をゆっくりと引くと、透明なシリンジに少しずつ血が入っていく。濃い赤が徐々に溜まっていく様子から目が話せない。
今、ここで、ヒャクさんの血が、抜かれている。
口が閉じられない。息が荒くなる。これは俺のものだ。
「すごい見ますね」
「はい……」
食い入るように血が抜かれるのを見ていた俺は、いつの間にか四つん這いになっていた。行儀が悪い、失礼だろ、と思う俺もいるんだけど、でも戻れない。上がった尻は座布団に戻りたくないと叫んでいる。
早く、この血が欲しい。一滴も無駄にしたくない。
透明だったシリンジが赤黒くなった。針を腕から抜いたヒャクさんは「まだ飲んじゃダメですよ?」と言いながら注射器を俺に渡す。
少し温かいそれは、つい数秒前までヒャクさんの体の中にあった血だ。目の前でずっと見ていた。だから知っている。
あー、早く飲みたい。喉がカラカラだ。口の中だって乾いてパサパサしている。
ぱちん、とベルトが外れる音がして、俺はヒャクさんを見た。口の端を上げたヒャクさんが手を出したので、俺は黙って注射器を返した。
まだかな。せっかく温かいのが冷めちゃうよ。
「これは、お客さんだけの、特別サービスなんですけど」
と、ヒャクさんは自身の口の前で立てた人差し指の先を、今度は俺の唇に当てる。
何、特別サービス? 何で? よく分からないけど俺は一回だけ頷いた。多分他に言うなよってことだよな。大丈夫、俺は口が堅い男だから。
注射器から針を抜いたヒャクさんは膝立ちになって、俺の頬を撫でた。え、本当に待って、何、何するの。俺は使い古した座布団の上で正座をして背筋を伸ばした。膝の上でぎゅうと拳を握る。
「口を開けてくださぁい」
「ひゃ、ひゃい……」
ヒャクさんの親指が俺の唇をぐい、と横に開く。
もしかして、もしかしなくても。
俺は口を開けて、ヒャクさんの動きを待った。大きな黒目に吸い込まれそうになる。
シリンジの先を俺の口の中に入れたヒャクさんは「いい子だな」と呟きながらゆっくりと内筒を押し込んだ。その動きに合わせて抜きたてほやほや、じんわり温かいヒャクさんの血が俺の口の中に入ってくる。
舌にその一滴が落ちた瞬間、俺の中で何かがはじけそうになった。あ、やばい。反射で拳を強く握る。爪を短くしていて良かった。伸びたまんまだったら手のひらに刺さってたわ。
ぽとぽとと落ちてくる血がもどかしい。もっといっぱい飲みたい。でも早く出してもらっても、結局飲める量はシリンジ一本分だ。だったらゆっくりと、長く楽しむほうがお得な気がする。
「飲んで」
ヒャクさんの人差し指が顎をなぞる。俺はヒャクさんの目を見ながら、たった数滴の血を飲み込んだ。せっかくだったら噛んで味わえばよかったかな。でもあれだけじゃあな。
「奥山、夏太郎さん?」
「ふぁい!」
「いい子にできますか?」
「でででできます!」
ふ、とヒャクさんが笑う。
膝の上の手が指さされた。
「手、どけてください」
「ん?」
でもそうすると置き場に困るんだよな、と思いながら俺は手を横に置いた。座布団のカバーをつまむ。
続きまだかな、とヒャクさんを見ると、
「いい子にしててくださいね?」
と念を押された。俺が頷くと、ヒャクさんは膝立ちのまま前進してきた。まままままってぶつかっちゃうよ⁉︎
そんな俺の心配をよそに、ヒャクさんは膝同士がぶつかる前に足を開いた。近いですぅ! そう叫びたいけど、叫べない。遠くなったら嫌だから。俺の意思はクソ弱いし、欲望には忠実だ。えーんえーん、抗えないよう。
俺の腿をヒャクさんの膝が挟む。その前に踏まれそうになった手を慌てて外へ逃した。ますます居場所が分からなくなった俺の手はどうしようか。
「じゃあ、続きいきますよ」
「ふぁ!」
顎を持たれた。かぱ、と口を開けると、ヒャクさんの目が細くなる。いい子、と褒められたみたいで嬉しい。どうにかなりそうだ。
どうしよう、吸血鬼の血は相手を吸血鬼にするけど、もしかして人間の目も相手を人間にするんじゃないの? 俺、人間になっちゃう?
頬に添えられたヒャクさんの左手で顔が固定されて、さっきよりも勢いよく血が口の中に入ってきた。あうあう、量が多いよぉ。少しすると、俺の開いた口を見ていたヒャクさんがシリンジを抜く。俺は口を閉じて、今度はヒャクさんの血をよく噛んでから飲み込んだ。サラサラの血液だって分かってはいるんだけど、しっかりちゃんと味わいたいじゃん。
するとヒャクさんの親指が唇にかかったので、俺は空になった口の中を見せた。
「美味しいですか?」
「あい、おいひいれす」
「ちゃんと飲めて偉いですねぇ」
すり、と唇が撫でられる。こんなことならたっぷりリップ塗っておけばよかった。いや一応塗ったんだけど、もう喉が口が唇が乾燥してるんだよな。意味ないわ。
褒められるのが嬉しくて、早くもっと血が飲みたくて、俺は気がついたらヒャクさんの膝の裏に腕を回していた。しがみつくようにヒャクさんを見上げる。ヒャクさんはちらりと俺の腕を見たが、それだけだった。にっこり笑って、俺の頭をひと撫でする。
「最後ですよ〜」
「わ、う」
分かってはいるんだけど、もうあとちょっとしかない。
ヒャクさんが目の前でシリンジを横に振る。
「これ飲んだらおしまいです」
「あ、あ……」
「寂しいです?」
「ですぅ……」
頭の上に置かれていたヒャクさんの手が降りてくる。途中で耳を揉まれて、俺は腕に力を入れた。ぐぐ、とヒャクさんの体が近づく。俺の顎がヒャクさんの割れた腹筋に触れた。Tシャツ越しでもはっきりと分かる。この下はすごいことになってるんだろうな。
見たい。できることならその綺麗な腹筋に思いっきり牙を立てて血を吸いたい。でもそれはいけない。それはダメだ。ぷつりとヒャクさんの白い肌に牙を刺す感触を想像するだけなら。でもそんなこと想像すればやりたくなる。だからダメだ。考えるのをやめろ。
でもきっとヒャクさんの肌って弾力があって、牙を刺す瞬間も少し反発があって気持ちいいんだろうな。その反発を無視して押し込む牙。じわりと滲むヒャクさんの血。考えるだけで息が荒くなる。
「奥山さん? 今、何考えてます?」
「う、その」
「噛んじゃ、ダメですからね?」
鼻先をつつかれて、俺は呻くしかなかった。バレてる。というか、ヒャクさん、今までも配達でこうやって抱きつかれたことあるんだろうか。噛まれそうになったこともあるのかな。だってこんなサービス、俺だけって言いながら他の吸血鬼にもやるでしょ!
でもまだ噛まれてないんだな。ヒャクさんは人間だから。はあー、いつか吸血鬼になりたいって思ったら言ってほしい。ヒャクさんの血を直接吸いたいよ。
「じゃあ最後、いきましょうか」
「はい!」
俺は元気よく返事をして口を開けた。もったいないけど、飲まないと。永遠に続く時間はあるけどない。あるけど、ない。あーあ、寂しい。
笑うヒャクさんが膝を曲げる。んええ、俺はまたもや挟まれそうになる腕を急いで上げた。俺の膝の上に座るヒャクさんの腰に腕を回す形になって、本当にいいの? と見上げるけど、特に気にする様子もない。いいんだぁ……。やっぱりこういうの慣れてるのかな。
少しだけもやもやする俺の気持ちを知ってか知らずか、ヒャクさんはかぱりと開けた口の中にシリンジを入れた。
ペースはゆっくりだけど、最後だと言うだけあって途中で止める気配がない。俺はシリンジの先を軽く噛んで、喉から変な音を出しながら注がれた血を飲み込む。
ヒャクさんが俺の前髪を指先で横に流して耳にかける。耳の裏がなぞられるのがくすぐったいなんて知らなかった。
最後の一滴まで飲みたくて、ヒャクさんが「おしまいです」とシリンジを抜こうとしたのを俺はその手首を掴んで阻止する。ちゅう、とシリンジの先に吸い付く。だって先っぽのところにまだ赤い血が残っててもったいないんだもん!
「ははぁ、赤ん坊みたいですね」
よしよしとヒャクさんが頭を撫でてくるもんだから、俺はんっくんっくと全部を吸い取ろうとした。それを見たヒャクさんは気をよくしたのか、俺の頭を胸に押し当てる。こんなんほんとに赤ん坊じゃん。
でも俺はヒャクさんの胸から頭を離さない。赤ん坊でもいい。むしろ赤ん坊になってヒャクさんによしよしぺろぺろしてもらえるなら、そっちの方がいいのでは?
ちゅうちゅうとシリンジの先を吸っていたけど、もう全然味がしなくなった。そりゃそうだ、もうヒャクさんの血は残っていない。飲み残しもない。ただ、口を離したら、吸うのをやめたらヒャクさんは帰っちゃう。
「奥山さーん?」
「うう」
「もうおしまいですねぇ」
「あいぃ……」
ちゅぽんっと口からシリンジが抜かれる。笑顔のヒャクさんがおでこにキスをしてくれた。え? したよな? 今な? え?
「じゃあ、本日はご注文ありがとうございます」
「は、はい」
「またのご利用お待ちしております」
「はい!」
俺は食い気味に返事をした。またご利用させてください! えーんえーん、めちゃくちゃ頑張って働きますぅ。やっぱ社員になろうかなぁ。稼ぎを増やさなきゃヒャクさんを呼べないし。いやいや別にヒャクさんを呼ぶためだけじゃなくてこれからの生活のことを真面目に考えた結果と言いますか長生きですからね、吸血鬼はね。
ジャージを着たヒャクさんを玄関までお見送りして、俺は決心した。そうだ、真面目に働こう。あくまでもこれは自分のためであってヒャクさんがどうとかメイド服着てご主人様って呼んでもらいたいとかそういう邪な理由ではない。そんなことはない。
とりあえず、俺は新品の座布団に顔を埋めて大きく息を吸った。はあ〜〜〜〜〜〜この座布団使えないって!