鯉月SS 明治軸「おお、ちょうど良いところに。鯉登の副官か」
月島は見知らぬ将校に対し適切な角度と秒数をかけて敬礼をし、鯉登の合図を認めて生真面目な表情で前に出た。執務室の主である鯉登は足を組んで寛いでいる。どうやら気のしれた友人のようだ。
「随分な堅物だ、ハハ。そう警戒しないでくれ」
「ふざけた奴だが士官学校時代の同僚だ……英国から戻ってきて、顔を見せに来た」鯉登は静かに言い添える。月島は黙って一つ頷いた。
「叩き上げの軍人だろう、振る舞いで分かるさ。いま我々が話していたのが……お前、ウインクはできるか? こうやって……」将校は片目をパチンと閉じてみせた。「西洋にある茶目っ気を見せる仕草だ」
月島はそれをじっと観察してから、機械的に片目を閉じてみせた。二人の将校は笑う。
「色気のない奴め! まるで目に埃でも入ったみたいじゃないか。鯉登、きっとお前が良い上官だから彼は任務に超特化しているのだ」
「それが、さっき貴様の言った”アイロニー”というやつか?」
「ああ、さすが切れ者だ」
「もう黙れ。何を言われても嫌味に聞こえる。月島、アイロニーは分かるか? 英国人は京都の人間と気質が近いらしい」
「ええ、恐らく。露語にもирония(イロニア。irony と同じ語源)という言葉があります」
「もう両目を開けていろ」
「はい」
知識と教養があり、かつ従順な月島を見た英国帰りの将校は「優秀な部下がいて羨ましい」と一言褒めたあと「優秀な人間は総じて学習能力が高いだろう? 君たちももっと親密に触れあいたまえよ。特に鯉登は取っ付きにくいのだから。その貴公子の顔をもってしたら、この鉄人にも艶っぽい仕草をさせれるかもしれんぞ」と、冗談めかして言った。
もっと親密な触れ合い? 既にこの男の腹の中まで触れたのに。咄嗟にそう思った鯉登は咳払いをした。鯉登の動揺を勘違いしたその将校は続ける。
「そうか、お前は潔癖だものな。あまり下卑たことを言うと嫌われてしまう。お前が自分の副官と夜半ねんごろにしているなんて夢にも思わないよ」
月島は無表情のままだったが、笑っているのが鯉登には気配で察せられた。目を細めて眺めていると視線に気が付いた月島が、鯉登にだけ分かるように静かに一瞬だけのウインクをした。その一瞬はゾクリと心臓を震わせ、情欲に火を灯すのに十分の艶やかさだった。
「どうした、鯉登?」
「……いや? 確かに私の部下は優秀みたいだ。さ、訪ねてくれてありがとう。また話を聞かせてくれ。茶漬けはいるか?」
「ふふ、いけずは結構だ。彼が来たということは業務が溜まってるのだろう。忙しいところ邪魔して悪かったな」
「いえ、こちらこそご歓談中に失礼しました」
友人を見送った鯉登はクルリと月島に振り返ったが「業務中です」とピシャリと言われ、顔を歪める。出かけた叫びは飲み込んだが「お前が仕掛けてきたではないか」と言う声は分かりやすく拗ねた響きになった。
なおも厳格な眼差しで刺され、鯉登はぐんにゃりと椅子に身を沈めた。月島は手に封書を持って来ていたので、自分宛だろうと腕をぞんざいに投げやると深く被った軍帽の下で片眉が上げられた。
「ご友人の前では随分と凛とされていたのに」
そして、封書を手渡した手の指はひらりと鯉登の手の甲側へと回った。
「私はそんな貴方の色香にあてられただけです」
そう言って、月島は指を鯉登のにスルと絡めてから緩やかに引き抜いた。
「では」と一言、月島は立ち去る。その後ぶつけるあてのない衝動は夕刻まで持ち越された。