赤くなり始めた日差しに照らされる懐かしい後姿を見かけて思わず声をかけてしまった。以前なら反射的に振り向き、万年の疲れを滲ませながらも鋭い眼光を向けてくるのだがゆっくりとこちらを見て片眉を上げた。この人に限って忘れられたということはない。職業が変わっても柄というのは変えられないものだ。
「随分と珍しいところで会ったな」
「そういう先輩もこの辺りはテリトリー外だと思いますが」
会話しながら人通りの邪魔にならない建物添いに二人で移動する。
この辺りは現在再開発真っ盛りの渋谷の中でも特に若者向けの場所だ。これから夜を迎えるが人通りは減る気配もない。俺も三十路になりおじさんに片脚を突っ込んでいるが、新人時代にお世話になったこの人は更に浮いている。はずなのだが。
「……何か、雰囲気変わりましたね」
「そうか?」
昔からある床屋で切った短髪に文字通りの無精髭。数年で増えた皺は加齢を表している。しかしやつれた感じはなくなり、顔色も記憶よりずっと良くなっている。肌感も、俺は美容に詳しくなく妻の又聞き等の曖昧な情報しかないが、潤いがあるというと語弊があるかもしれないが若返って見える。よく見れば眉も整えられているし、服装は草臥れたスーツにロングコートしか見覚えがないが今は真新しいストライプのニットに鍛えられた下半身を魅せるスキニー、やや明るい色のテーラードジャケットまで羽織っている。
奥さんの趣味だろうかと考えるが職場で先輩の口からそれらしい話は聞かなかった。
「見た目くらいはそれなりにしようと思ってな」
「はあ……」
それなりが何を示すのかははっきりしないが、少なくとも職質レベルでないことはわかる。
ただこの人が身嗜みを気にしているのも意外だ。
「それなら髭も剃ったほうがいいんじゃ……?」
ああ、と先輩は無精髭を左手で撫でる。考える時にやりがちな仕草だがいつも刻まれていたはずの眉間の皺はなくうっすらと笑みすら浮かべている。
「髭が合ったほうが落ち着くんだと」
「奥さんが?息子さんが?」
当たり前の問いかけをしたと思ったが何故か動きを止めて眉根を寄せた。
ちらりと見た感じ薬指にリングがあったし、先程の先輩の表情は愛しさが溢れていたから家族以外に考えられないと思ったが違うのか?
疑問に答えることなく先輩は「それで、オマエは?」と話を逸らした。
「え?」
「こんな時間にこんな場所に来るなんて珍しいだろ」
「ああ……」
確かにそうだ。先輩ほどでもないが俺もすっかり『若者の街』から足が遠のくようになってしまった。
「察しの通り仕事ですよ」
詳細は話せないがもちろん先輩も心得ていて「令和になっても足で稼ぐのか」と少し嬉しそうだ。
先輩は典型的な昭和のオジサンで、年齢で言えば平成の方が長いだろうに刑事という密室に近い環境とまさに化石のような上司に囲まれた結果こうなってしまったようだった。まあ氷河期世代だから苦労も一入だろう。ゆとり世代の俺はまだマシな方だ。
しかし辞めた理由もわからず家族仲も良いのか悪いのかわからず何故ここにいるのかもわからない。
元々緊急性のある案件でもないこともあって俺の職業意識はすっかり先輩に持っていかれてしまっていた。
「渋谷駅周辺も大分変わりましたね」
カゲリエのような新たな建物もあれば現在工事中の場所もある。ハチ公口もなくなるとかなんとか。
そうだなと頷いた先輩は感慨深げではあるものの皮肉めいてはいない。以前なら意味のない文句をこぼしていた印象がある。
「……何か、先輩若返りましたね」
「なんだそれ、もう四十過ぎたんだぞ」
今度ははっきりとわかるように笑われた。
こんな笑い方をする人だっただろうか? いや、俺が知らなかっただけで元からこういう笑い方をする人だったのか?
「まあでも……そうだな」
思い当たる節があるのだろう。今度は唇をなぞって、そういえばここは喫煙禁止区域だったな、鼻で笑った。
「若いのにあてられたのかもしれねえな」
新しい仕事では若者と関わる機会が多いのだろうか。それで渋谷にと考えれば納得がいく。
「お待たせ」
計ったように背後から声を掛けられる。若い男の声だ。振り返ると二十代前半の青年が手を上げている。
黒髪で垢抜けない印象はあるが、さりげなくワックスで流しているところや動きやすさもありながら流行のジャケットを着ている辺り今時のオシャレな若者だ。先輩の息子……とは多分年が違い過ぎるはずだ。向こうも先輩の隣に立つ俺に気付いたようで切れ長の目を瞬かせる。
「アイツはオレの今の同僚で部下みたいなモンだ。で、コイツはオレが刑事をやってた時の部下だ」
「ああ、初めまして伊月です」
ぺこりと頭を下げる今時ではない礼儀正しさになるほど先輩が気に入りそうだと納得する。こちらも挨拶するとニコッと人好きのする笑顔を浮かべた。顔だけの印象で言えば細面で釣り目がちでキツめな印象だが表情や声音は真逆の優しい印象を与える。少し年の離れた弟か妹がいそうだ。とプロファイリングめいたことを考えてしまうのは職業病なので許してほしい。
「お仕事ですか?」
「まあ事後調査みたいなものだから心配しないで」
捜査一課と言っても常に殺人事件などの凶悪犯罪があって拳銃を携帯してどうこうではない。一人で出歩いているのがその証拠だ。以前は先輩に色々と連れ出されたのが懐かしい。今は俺がちょうど青年と同じ年頃の部下を連れ出す方だ。
「だからってオレたちとくっちゃべってちゃ意味ねえだろ」
「まあそうですけど……」
ちらりと青年に目を向ける。先輩の隣に自然と並んだ伊月君はまさに調査対象で非常に話も聞きやすそうだ。
「先輩、伊月君をナンパ」
「駄目だ」
軽く言ったつもりだったが即答された。しまったこれは先輩ならともかく若者にはハラスメントになるか?というか先輩も気にするようになったのか。
伊月君は困った大型犬のような表情で先輩を見た後にこちらを見た。
「すみません、僕たちも仕事があるので時間は取れないんですけど、この先のバルに行ってみてください」
ご丁寧にショップカードをくれるのでありがたく貰う。
「ありがとう、行ってみるよ……?」
その左手薬指に指輪があるのを見つけてしまった。若いけれど結婚していることもありえなくはない。
だがそのデザインは、シンプルながら二本の細い線が絡まったようなそれはついさっき見たばかりだ。
思わず先輩を見ると俺が気づいたことに気付いたらしい先輩はまた鼻を鳴らした。
「じゃあまたな」
「お気をつけて」
夕日に向かって去っていく二人の距離は近くも遠くもない。傍から見れば確かに同僚とか上司と部下なのだろう。多分それも間違っていない。ただもう一つ関係がついているだけで。
「それで若返って見えたのか」
その間に色々なことがあったのだろう。聞く機会があるかどうかはわからないし、話してくれるかもわからない。まあ聞かなければならないことでもないし、少なくとも今の先輩が幸せそうなので純粋な後輩としては十分だ。
「俺は一人寂しく飲み屋で聞き込みと行きますか」
言葉の割には軽い足並みで俺は駅前から繁華街へと歩き出した。