貴方だけは渡さない「あれ?ヴァルっちじゃん」
「む、小娘共とアルティナか」
いつもの地獄、フーカはたまたま通りがかったヴァルバトーゼに声をかけた。
フェンリッヒとは別行動をしていて、今から合流するところだった。
「いやぁ、アンタと話そうとしたらフェンリっちってば睨むんだもん」
「…俺にはその反応を楽しもうとしているようにも見えるが?」
「さー、どうかしらねー?」
「全く…俺はその時は止めんぞ」
「ケチー!…って、あれ?」
「なんだ」
フーカは何度か瞬きをした後、ヴァルバトーゼにぐーっと近付いた。
首元を指さすと「これ」と口にする。
「なんか跡みたいなのない?虫刺され?」
「あ、本当デス。赤くなってるデスよ」
「虫刺され…?跡……──っ!」
「ヴァルっち?」
何かを思い出したかのように、ヴァルバトーゼが跡を手で隠す。その顔はみるみる赤くなっていった。
フーカとデスコの姉妹はわからないようだが、アルティナはわかってしまったらしい。
「な、なんでもない。これは─」
「閣下、こちらにいらしたのですか」
静かな声が4人の間に響いた。
その声の主─フェンリッヒは、首を押さえるヴァルバトーゼを見て、怪しげに目を細めた。
近付くと、顎に指を軽くかける。
手を外した彼の首に、跡に指を滑らせた。
「おや、ヴァル様。何やら跡がついていますね。妙な虫でもおりましたか?」
「何が虫か、お前は─」
「…わたくしが、なんでしょう?」
その目と口元には、どこか欲が見えた。
言いたい言葉をグッと堪える。そもそも今居るのは自分たちだけでは無い。
真っ赤にした顔を逸らして、ヴァルバトーゼは歩いていく。
「ヴァル様」
「今は来るなッ!」
まるで子供が拗ねるかのような言い方に、フェンリッヒは吹き出したいのを堪えて、喉の奥をクックッ、と鳴らした。
「…主の命令とあらば」
「どしたのかしら、ヴァルっちったら」
「虫刺されがそんなに恥ずかしいことだったんデスかね?」
「さぁ…ていうか、地獄にもそういう虫っているのね。ま、いっか。今のヴァルっちには近付かない方が良さそうだし、今度虫刺されの薬あげよっと」
フーカたちとフェンリッヒが逆方向に足を踏み出す。
アルティナは少し考えた後にフェンリッヒの方へ行く。
「…何の用だ」
「あれは、牽制のつもりですの?」
「ほう、わかったか?清らかな魂を持つ乙女とやらが」
「思ってもいない言葉でからかわないでくださいな。…大事なのはわかりますが、方法がいささか雑ではなくて?貴方なら、もっと他の方法を選びそうなのに」
「前も言ったが、理解してるツラをやめろ。…雑だと?アホか、一番手っ取り早くて効果がある。それに、大事なんて綺麗な言葉で片付く感情じゃないんだよ」
ニヤリ、と不敵に─まさに悪魔らしく笑うその顔に、アルティナの背筋が冷える。
「…貴方でも、誰かにそんな欲を抱くことがあるんですね」
「言い回しが些か気に入らんが、そんなところだ。…この感情を持ち始めた馴れ初めなんて覚えちゃいないがな」
「…相手は引く手数多なのに、何故彼だったんですの?」
「やかましい。探ろうとするその心が不愉快だ、泥棒天使。オレ相手に言葉で駆け引きしようなどと100年─いや、400年早いんだよ」
「……」
「オレがお前相手に復讐しているのだと思っているのなら、それも違う。お前のことを許せないのは今も昔も変わらんが、そんな下らないことでヴァル様に手を出すワケはない」
主に手を出す。
それは余程強い想いと覚悟の上だったのだろう。そして受け入れる彼のまた強い意志。
それだけ深く、強固な絆。
止まってしまったアルティナを一瞥だけし、フェンリッヒはため息をついた後にまた歩いていく。
「…でも、相手が貴方なら仕方ないかもしれませんね。400年もの間…魔力を失った後も、彼を支えていらしたんですから」
どこか寂しげな、そんな言葉をフェンリッヒの背中に投げる。
聞こえたか聞こえぬか、彼がもう一度足を止めることはなかった。
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満月の夜の行為。
その最中、フェンリッヒはチョーカーを外した主の項に舌を這わせる。
「ま、まて、フェンリッヒ。──っ!」
ちくり、と軽く電気が走る。
項に、背中に。跡が散らされるのが感覚で嫌でもわかる。
唇に集中していると、奥に刺激が訪れ、ヴァルバトーゼは背中を反らせた。
「あ、ぁ、うっ…」
「─ヴァル様」
静かで切羽詰まった声が短く名を呼ぶ。
だがその先の言葉が紡がれることはない。
息が詰まる音の後、奥に出された熱をヴァルバトーゼはただ受け止めたのだった。
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いつもよりも余裕がなかった。
そう思わせる行為だった。
「─フェンリッヒ」
「はい」
「お前、また跡を付けたであろう」
「付けましたが」
まるで「それがなにか?」とでも言いたげにフェンリッヒが返す。
「あまり見える所に跡を残すな。昼間のようなことがあってはかなわん」
「わたくしには好都合ですがね」
「なに?」
顎に指がかけられ、顔が少し持ち上がる。
瞳孔が少し開いた目に射抜かれた。
「…わたくしは貴方のモノですが、貴方はわたくしのモノではない。…主相手に“モノ”なんて言葉を使うつもりもないですが。ですから、周りへの牽制ですよ、これは」
「牽制…?」
「ええ。大事だなんて言葉では足りない─『貴方だけは渡さない』と、周りに言いふらすと同義です」
「……っ」
唇に熱が触れ、遠ざかる。
顔が熱くても、何やら小っ恥ずかしくても、その目を逸らせない。
「なんと言われても、貴方への執着を隠すつもりはございません。わたくしを受け入れた運の尽きとでも思ってください」
「全く、お前は…とんだ強欲だな」
「それこそ、悪魔らしいでしょう?」
「そうだな。…だが、気に入らんな」
「はい?」
「執着しているのが自分だけという考えが気に入らんと言っている」
執着を隠さない、と言った時の寂しそうな目にヴァルバトーゼは引っ掛かり、ゆっくりとその身体を押し倒した。
「お前を受け入れたのが俺の運の尽きと言うならば、その俺に手を伸ばしたお前の運もそこで尽きている。どこまででも付き合ってもらうぞ?」
「フフ…そうですね。もうとっくに地の底ですが…貴方様となら、どこまで堕ちたとしても、悪くない景色でしょう」
フェンリッヒはヴァルバトーゼの左手を持ち、薬指の所に跡を付けた。
「ここだけは、何度消えても付けなおして差し上げます」
「ほう、人間嫌いのお前が人間の真似事か?」
「わかりやすい方法、というだけですよ。普段は手袋をつけていらっしゃいますから、目立たないでしょう」
「そうだな。見えない所なら許すとしよう」
「有り難き幸せです」
身体の位置が反転し、今度はヴァルバトーゼが押し倒される形となった。
目が合ったふたりは、自然に微笑み合う。伸ばされた手が、フェンリッヒの首に絡みついた。
「ならば、まだ明けぬ夜を愉しむとしよう」
「─我が主の御心のままに」
ただ己の執着をお互いの身体に、心に刻む。
それは不毛で、生産性のない、満たされた時間と行為。
ふたりきりの夜は、ふたりだけの速度で、ゆっくりと更けていくのだった。