夢を見るなら貴方がいい「フェンリッヒ、頼みがあるんだが」
神妙な面持ちで部屋に入ってきた主がそう言ったのは、つい今しがた。
自室で休もうとしていたフェンリッヒは、少し固まった。
頼みなどと、まさかシモベの自室にまで足を運ばねばならないほどの重大な出来事でもあったのか、それとも自分がなにか知らぬ間に至らぬことをしてしまったのか。
あれこれと思考を巡らせた一瞬、フェンリッヒはただ一言返した。
「…なんでしょう、閣下。何なりとお申し付けを」
「うむ。お前ならそう言ってくれると思っていた。…すまぬが、座って腕を広げてくれぬか」
「……?こう、ですか?」
全く意図が読み取れない。
だが主の言葉なので、フェンリッヒは近くにあった椅子に腰かけ、手を広げた。
だが、これではまるで──
「いいか、動くんじゃないぞ」
「え、閣下?一体なにが─」
そこまで言った時。
ヴァルバトーゼはフェンリッヒの懐に収まった。抱き着いた、という言葉が正しいか。
「……え、は?あの、閣下?」
「……」
ただパニックのフェンリッヒは主へ言葉を求めるが、それ以上は何も返ってこない。
パニックのまま、主の背に手を回すと、ギュウとさらにしがみつかれた。どうやら正解だったらしい。
「…時折」
「はい」
「時折…無性に…異常に、人肌が恋しくなるのだ。そういう時に…こうしていると、落ち着くというだけだ」
吸血鬼という種族故か、それともヴァルバトーゼの体質なのか、彼の体温は酷く低い。
対照的に、フェンリッヒは体温が高い。
暖かいのが落ち着く、ということなのか。
「閣下、こういうことは今までなかったのですか?」
「あった。最初は…もう、1500年以上前か」
1500年前。それは彼が1000歳頃の話。
人間の年齢で換算すれば、10歳の子供だ。
「これまでは、どう?」
「…魔力を失う前は、眷属にした者たちを。地獄に堕ちてからは…そういう日があっても、我慢していた」
「我慢、ですか?」
「プリニーに頼む訳にはいかんだろう?」
フフ、と笑いながらヴァルバトーゼは言う。
弱みを見せる訳にはいかない、と。
(…確かに、教育係が教育される側に甘える訳には─…ん?)
フェンリッヒは、そこまで考えて納得した。
彼は人肌恋しいのではなく、甘える相手が欲しいだけなのだと。
「…今回は、なぜわたくしに?」
「……お前なら、断らないかと思ったのだ。主としての立場を勝手に利用しただけの勝手な策だ。怒るなら怒るといい」
「怒りなど致しませんよ。ただ不思議だっただけです。そういうことなら、気の済むまでどうぞ」
「…感謝する」
しがみつかれたまま、好きにさせておく。
我慢していたが今回来たということは、自分は弱みを見せていい相手なんだと主に思われたこと。それが彼にはなんだか嬉しいことだった。
しばらく黙っていると、腕の中のヴァルバトーゼが急に力を失う。
「閣下!?……眠った、のか」
焦ったものの、耳を澄ませば聞こえてきた寝息に安堵の息をつく。
ゆっくりと横抱きにすると、フェンリッヒはそのまま主を自分のベッドに寝かせた。
僅かに上下する身体でただ眠っているだけなのは見て取れるが、白い肌に僅かな呼吸、そして冷たい体温。まるで死人のように眠る主を、フェンリッヒはただ見遣った。
すると、ヴァルバトーゼの手がゆっくりと上に伸びた。
「……い、くな……ッヒ…」
「…!!」
それが己にかけられた言葉だとわかり、フェンリッヒは伸ばされた手をゆっくりと包み込むように掴んだ。
「フェンリッヒはどこへも行きませんよ、閣下。あの誓いを破るような真似はしません。ここへおります」
言い聞かせるように言うと、少し浅くなったヴァルバトーゼの呼吸が戻っていく。
再びベッドへ下ろされた、その手袋越しの指を、フェンリッヒは軽く撫でた。
「指の先から、足の先から─髪の毛一本に至るまで…あなたをお慕いしておりますよ、我が主…ヴァルバトーゼ様」
すくい上げた手に口付けを落とし、フェンリッヒは眠ってしまった主へ、甘い甘い言葉をかける。当然、それに何か返って来る訳でもない。
「……オレはアホか。眠っている相手になにを…」
自分に弱みを見せてくれるのは、信頼されていて嬉しい。
だが、浅ましい想いは素直に喜んではくれない。
(…何もないと信じ込んでおられるからこその寝顔なのですかね、これは)
安心しきった寝顔を見ながら、フェンリッヒは頭を抱える。
「…こんなに無防備な姿を晒すのはわたくしの前だけにしてくださいね、ヴァル様」
頬を撫でると、身動ぎしたものの、嫌そうな顔なしなかった。
少し動くと、はっきりと「フェンリッヒ」と口にした。
「はい、フェンリッヒはここにいますよ。わたくしの夢を見てるのですか?…それはいいですね。わたくし…オレも、夢を見るなら貴方がいい」
ふふ、と笑いながら、ヴァルバトーゼにしか聞かせない優しい声色でそう語り掛ける。
自分のベッドを明け渡し、フェンリッヒはベッドの傍らに座り込んで目を閉じた。
ぐっすりと寝入った。
そのおかげなのか、幾分スッキリした頭でヴァルバトーゼが目覚めた。
起き上がると、ベッドの傍らでシモベが眠っている。
その長い髪に触れると、柔らかな感触が伝わってくる。
「…寝ている間、お前にあれこれと言われた気がしたのだがな。おかげで、夢にまでお前が現れたではないか。油断も隙もないな、我がシモベは」
こっそりと血を飲ませようとするところは少し気に食わないが、『すべては我が主のために』が口グセなのを体現するかのように、フェンリッヒの全ての行動には、“主”というものが付き添う。
周りから何と言われても、ヴァルバトーゼはそれが煩わしいと思ったことは無い。…少し、小言は多いが。
「…だが、独りより余程良い気分だ。お前のせいで、独りの時にどうしていたか忘れてしまったではないか」
以前はヴァルバトーゼは独りだった。孤高を貫く暴君。
そんな彼と、仲間からシモベになったフェンリッヒ。最初はその“仲間”を知るために行動を共にしただけなのに、今は居ないと落ち着かない程に、共に居て心地よい。
(小娘共にも、そのような声で話せたら、お前のことも理解してもらえ……いや、それは俺が面白くないな)
仲間たちのことを信用していないフェンリッヒは、仲間たちへの当たりが強い。
ヴァルバトーゼには一人称が『わたくし』なのに、仲間たちには『オレ』であるし、敬語で話すのもヴァルバトーゼにのみだ。
(俺が仲間に弱みを見せぬように、お前も優しすぎる部分を見せぬのなら、俺も現状に満足しよう)
主だと言うのに、酷い独占欲だ、とヴァルバトーゼはひとり笑う。
彼が決して自分には逆らわないのを逆手にとった、ただの縛り付け。
だが何と言われても、放してなどやれない。
魔力を失ったから、側仕えが必要だからという訳ではない。もっともっと複雑な感情。
「…もし先程夢で見たことが、本当にお前の言葉なら…俺も、お前を想っているぞ、フェンリッヒ。だから、今度は直接言いに来い」
頭を撫でながら、「聞こえている訳はないか」と呟いて、クスリと笑うとヴァルバトーゼはもう一度横になった。
安心する、いつもの匂いだ。
目を閉じた彼はまた眠りにつく。
─実は目が覚めていたシモベが色々な感情で悶絶するまで、あと数秒。